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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(1)

雨が良く降っている冷たい夜だった。由希子との出会いは、一年半前のあの日に遡る。一目見て、素敵な女性だと思った。仕草がかわいらしかったし、目にはひかりがたっぷりと輝いていて、笑顔が綺麗だった。僕は渋谷のカフェで雨宿りをしていた。酷い雨だった。彼女はカフェでウェイトレスをしていて、黒い制服が良く似合っていた。店内には、客は僕しかいなく、クラシックミュージックが静かに鳴り響いていた。彼女は退屈な様子を見せることもなく、じっとした様子で窓の外を眺めていた。マスターは白いティーカップをキッチンで洗っているところだった。

「酷い雨ですね」僕は由希子に声をかけた。彼女は僕の方を見て、二歩歩み寄った。その瞬間、心臓の鼓動が強まった。

「まったく、困ったものですね。お客様の来客は少ないし、雨は当分止みそうにないですし・・・・・・」

彼女は憂鬱そうな表情を見せた。

「少し、お話しできますか?」

「お店も暇ですし、構いませんよ」

「僕の名前は、柏木祐介。二十三歳、IT企業でシステムエンジニアをしています。サーバとかネットワークの構築です」

「難しそうな仕事ですね」

僕は笑って見せた。彼女は僕の様子を見て、にっこりと微笑んだ。

「私は武元由希子、二十一歳で都内の大学で英米文学を学んでいます。サリンジャーとかフィッツジェラルドヘミングウェイの著作が好きですね」

  僕はコーヒーをすすった。ネクタイの位置を確かめ、整えた。

「緊張しているのですか? 私とお話をすること」

「少しだけ」

「どうしてでしょう?」彼女は不思議そうな顔をした。

「分からないです」

「面白い人ですね。趣味は何ですか?」

「音楽鑑賞。イギリスのロックが好きで。オアシス、ブラー、プライマルスクリーム、ミューズなどを聴きます」

「イギリスのロック。素敵な趣味ですね」

「ありがとう」と僕は言った。彼女はまた笑った。そのとき、若いカップルが店に入ってきた。由希子は「また、あとで」と言って、踵を返し接客に入った。僕の胸はほんのりと温かくなっていた。窓の外は、執拗に雨が降り続いていた。通りを歩いている人々の表情はどこか疲れているように感じた。色は暗く、足取りは重かった。僕は手帳を取り出して、紙を一枚破き、自分の連絡先を書いた。メールアドレスと携帯の電話番号だ。コーヒーを飲み干し、煙草を一本吸った。心を落ち着かせる必要があった。神経は昂ぶっていた。雨のせいかもしれなかった。あるいは、仕事やいろいろなことで疲れているのかもしれない。煙草を吸い終えると、僕は由希子を呼んだ。

「コーヒーのお代わりを貰いたいんです」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そして、僕は二つに折った手帳の紙を差し出した。

「これは?」彼女はきょとんとした表情を作った。

「君ともっと話したいと思って」

「ありがとうございます。実は、私もそう思っていたところです」

「気が合うかもしれないね」

「そうですね」彼女はにっこりと笑った。

それが由希子との出会いだった。運命的だと思った。僕はお代わりのコーヒーを少しだけ飲み、レジで精算し、帰路についた。雨は強く、乱雑だった。しかし、この雨が降っていたからこそ、僕はカフェで由希子と出会うことができたのだ。雨は重たかった。いろいろなことで僕はきっと疲れている。僕はそう思った。そして、暗い街を歩き続けた。

 

僕は東京都の府中市で育った。おとなしくて、人付き合いが苦手な子供だった。ゲームや漫画には興味が持てなくて、ずっと公園で空ばかり眺めていた。じっと眺めていると、風の動きと混ざって、雲が流れ、太陽のきらめきとともに、空は不思議な色合いに染まっていることもあった。毎日、何かが違い、その何かを楽しんだ。僕は一人っ子だった。寂しいと思ったことは何故かなかった。高校生になって、小説を読むようになった。代わりに空を眺めることは少なくなった。小説の世界に浸ることで、僕は新しい視野を獲得することができたように思う。

高校二年生のときに、のぞみという女の子と付き合うことができた。西原のぞみという名前で、細くて美人だった。クラスメートのあいだでも人気があり、愛嬌があった。成績も良かった。どうして、僕のような男と付き合うって決めたの? と訊いたことがあった。すると、彼女はこう答えた。

「あなたには魅力があるのよ、途方もなく」

「君が魅力的なのは分かるよ、顔立ちは整っているし、優しいし、微笑みは素敵だし」

僕たちは学校の校舎の裏で立っていた。木々は太陽のひかりを受け、鮮やかに輝いていた。夏の始まりだった。

「祐介は、本当に何も分かっていないのよ。どうして、私が交際をオッケーしたのか」

彼女は大きくため息をついた。僕にはいくら考えても分からなかった。告白する前から駄目だと思っていたし、オッケーを貰ったときでも夢のなかにいるような感覚だった。クラスメートは僕たちが交際しているという事実をうまく認識することができないようだった。

「それはあなたが純粋だから。不純物がいっさい混じり合っていないの。そういう男の人ってなかなかいないのよ。スーパーピュア。限りなく、白色に近いの。私もその白に染めて欲しかったの」

「君だって、綺麗な心を持っていると思うよ」

彼女は首を横に振った。そして、腕を後ろに組んで、僕の周りをゆっくりと歩いた。校舎の裏は人けがなく、静かだった。時折、風のうなる音が耳に届いた。

「私は白じゃない。あなたのことが羨ましいのよ。どうしてそこまで純粋にいることができるのかしら? どうして、こんなにも私のことを大事にしてくれるのかしら?」

「のぞみのことが好きだからだよ、それは」

彼女は笑った。弾けるような、素敵な笑顔だった。僕はそうっと彼女の手を握った。彼女の手のひらはつるりとしていて滑らかだった。僕の心臓は高鳴った。彼女はわずかなちからを込めて、握り返した。夏なので、すぐに僕の手は汗ばんだ。それでも、握り続けた。まるでのぞみの心音が伝わってくるみたいだった。

 あののぞみとの日々は、もう二度と戻っては来ない。校舎裏の空気の質感や、ひかりの加減、手のひらのさわり心地をいつまでも記憶していた。