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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(4)

由希子は大学を卒業すると、僕と同棲を始めた。渋谷の一角に、手頃なマンションを借りた。叔父が不動産関係の仕事をしているものだったから、格安で借りることができた。秋葉原へ行って家電製品を買ったり、東急ハンズやロフトへ行って家具や雑貨を買った。都内の熱帯魚ショップへ行って、九十センチの曲げガラス水槽を購入し熱帯魚を飼った。魚はディスカスネオンテトラだった。水草はアマゾンソードなどオーソドックスなものをセレクトした。壁には由希子が持っていたフランスのカフェが描いてある油絵を飾った。カフェの屋根は黄色く、雨上がりの景色が広がっていた。水槽はリビングに置いた。オーディオデッキは新調した。
新しいパートナーとの新しい生活というものは、悪くなかった。気分があらたまるし、いっそう幸せになった。二人でこれから幸せを作りあげていくのだと心に誓った。
 四月の末になっていた。引っ越しは一段落し、由希子は近くのカフェにアルバイトへ行った。海音というカフェで、雰囲気はアットホーム。マスターは四十代くらいの男性だった。
「カフェの仕事が好きなのよ、私の性に合っていると思うわ。お客さんも好きだし、コーヒーの匂いや、流れている音楽や景色も好き」
由希子は料理が上手だった。その日の夜は、ペンネグラタンに、ベーコンと水菜のスープ、ハッシュドビーフといったものが並んだ。香りが良く、美味しかった。赤のワインを一本開けた。イタリア産のキャンティ・クラシコだった。
「将来はカフェを経営したい?」
「そこまでは考えていないわ。経営となると手腕が必要だし、大変そう。私にはそこまで
の才覚はないと思うの・・・・・・」
「ま、将来のことを考えるのはよそうか」
「そうね」
料理を食べ、ワインを飲んだ。ワインは値が張ったけども、十分に美味しかった。コクがあり、深みがあった。
食事を終えると、僕たちは近くのショットバーへ行った。彼女はジンフィズを注文し、僕はビールを頼んだ。店内には一人の客が座っていた。初老の男だった。彼にはどことなく影があり、哀愁が漂っていた。見事な年の取り方だった。理想的といっても良かった。僕たちは白いチーズを食べ、ビールを飲んでいた。ふと、冷たい沈黙が続いていることに気付いた。どうしてだろう? 由希子に対して、今夜は何も話すことはないような気がした。彼女はカクテルグラスを触りながら、じっとしていた。身体が奇妙に小さく目に映った。不自然な時の流れがゆっくりと合わさっていった。店内はジャズがかかっていた。静かだった。背の高いバーテンダーは、白い布でカクテルグラスを磨いていた。
しばらくのあいだ、そのようにして時間が流れていた。停まったような時間だった。初老の男は、ヘネシーのロックを注文した。僕は煙草を取り出して、吸った。相変わらず、沈黙は続いた。重々しい空気だった。
「怖いの・・・・・・」絞り出すような声で、由希子は言った。彼女はうつむいていた。目には、うっすらと涙が浮かびあがっていた。突然のことに、僕は何が何だか分からなかった。僕は彼女の手を握った。温かくて、柔らかだった。
「悪い夢を見るの、このところ良く・・・・・・。いつも決まって同じ悪夢。祐介が私を見捨ててしまう夢。あなたがずんずん歩みを進めていって、私だけが置いてきぼりになって、孤独のなかで一生を過ごすの。気がつくと、トンネルのなかにいる。常夜灯のひかりだけが頼りで、入り口も出口もないトンネルのなかに。そこには深い絶望が横たわっている。おかしな話よね、入り口も出口もないトンネルにいったいどうやって入ったっていうのよ?」
彼女はジンフィズを飲み干すと、カミュの水割りを注文した。僕のグラスにはビールがまだ残っていた。
「不安なの?」僕は尋ねた。
「普段はそうでもないのだけど、時々ね。不安になるの。氷のように、心がきりきりと冷たくなってしまうのよ」
グラスに入ったカミュがコースターの上に乗った。僕はビールの残りを飲んだ。そして、ダイキリを頼んだ。
「新生活が始まったばかりだから、知らないうちに、いらだっているのかもしれないね。何も不安に思うことはないよ」
「ありがとう、思い切って話して良かったわ。気持ちが穏やかになってきた。もう、あの夢を見たくないし、含まれたくないわ。夢は無意識の王道って言うじゃないの、あながち現実世界と無関係とは思えないのよ」
「明日は映画館へ行こう。君が前から観たがっていた映画がやっている。ランチを食べて、ブティックで買い物をしよう。そうすれば、少しは気が晴れると思うよ」
「ありがとう」彼女はグラスに口をつけた。「しばらくは夢を見なかった。あなたと暮らし始めたら、素敵な夢を見ることができると思っていた。理由はよく分からないけど、悪夢を見るようになった」
「あまり酷いと精神科に行って相談した方が良いかもしれない」
「まだ、大丈夫だと思う」
「無理はしないようにね」
「分かったわ」と彼女は言った。そして、再び沈黙が雪のように降りてきた。降り積もる白い雪のような沈黙だった。そこには冷たさと、親密さがこもっていた。初老の男は席を立ち、会計を済ませた。静かな男だった。彼は僕らの方角を一瞥した。酔った様子はなかった。店内は僕たちのほかに、客はいなかった。腕時計を確認すると、夜の十時だった。彼女はカミュを飲み終えると、お代わりをした。
僕は黙っているあいだ、彼女が孕んでいる悪夢について想像した。入り口と出口のないトンネル、それは裏寂れていて、無機質なものに違いなかった。彼女は出口を求めているのだ。輝く太陽のひかりを。トンネルの外側の緑溢れる美しい世界。
翌日は新宿でランチを食べた。そして、映画館に入った。引っ越しが忙しくて、ゆっくりと映画を観ている暇がなかったので、久しぶりにくつろいで観ることができた。邦画の恋愛物だった。由希子は恋愛物が好きだったし、その映画の出来は悪くなかった。主演は若手の女優で、役柄に合っていた。彼女は見事に、その哀しみを表現していた。年齢はまだ十代だろう。たいしたものだと僕は感心した。彼女の目の深みは、どことなくのぞみに似ていた。のぞみもよくそのような目をしていたことがあった。思慮深く、考えを巡らしているときは決まってその深い目をした。
ブティックで春物のカットソーや長袖のシャツを買ってあげた。由希子は美しかったし、何を着てもよく似合った。彼女は上機嫌だった。外の天気は穏やかで四月らしい陽気だった。僕たちは新宿御苑に入って、散歩をした。木々が、くっきりとした緑の葉を茂らせ、風が西から東に向かって吹きすぎていた。僕たちはベンチに腰をかけた。休日とあって、家族連れやカップルが多かった。太陽のひかりは柔らかみを帯びて、薄い黄色の輝きを放っていた。希子は、昨日夢を見なかったらしい。ずっと夢なんて見たくないと小言を言っていた。ぐっすり眠ったということだった。僕はそのことを耳にして、安堵した。
ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲み、僕は彼女の手を握った。彼女は僕に寄り添った。空には雲が流れていった。
「子供の頃、僕は友達がいなくてね」
「あら、意外ね。会社でもうまくやっているじゃないの。社会不安障害だったの?」
「分からない、とにかく友達が出来なかった。子供の頃の思い出なんて、かけらもないよ。他だ、ずっと空を眺めていた。空は毎日違うんだ。違った様相を見せてくれる。飽きることもなく、眺めていたよ」
由希子は不思議そうな顔をして、僕を見ていた。
「空の青は好きよ、私。素敵な色合いだと思うわ」
「僕も好きだよ。子供の頃に比べたら、めっきり空を見なくなったけどね。時々、見上げることもある」
「ねえ、どうしてあなたみたいな素敵な人が、何年も恋人がいなかったのかしら? 不思議で仕方がなかったの。性格は良いし、ルックスだってそこそこだし、洋服のセンスだってあるし、話は面白い・・・・・・」
「どうしてだろうね?」僕は言葉を濁した。
「前の彼女とどうして別れたの? 好きだったんでしょう? あなたいつも彼女について詳しくは話さないけど、興味があるわ。良かったら、話してみてくれない?」
「それは、言うことができないな。例え、君であっても」僕は小さな声で言った。
「そう」彼女はバッグから手鏡を取り出して、顔を覗いた。
「私が前の彼氏と別れた理由の最も大きなものは、暴力よ」
「え?」僕はしばらく呆然とし、言葉が停止した。彼女の目は輝きをみるみる失っていた。昔を思い出しているのだろう。
「五歳年上の社会人で、公務員だった。文部科学省の関係の仕事をしている。最初は優しかったの、私は夢中になっていたし、結婚したいくらいだった。出会いはインターネット。映画の趣味が合ったから実際に会ってみたら、感じの良い人でね」
彼女は手鏡をバッグのなかに仕舞った。
「半年間は幸せだった、残りの半年は地獄だった。事あるごとに、私のことを殴るのよ。目立たないところ、例えばおなかとかね。首を絞められたこともあったわ。私は必死に抵抗したけど、所詮は女のちからだからかなわないのよね。私のちょっとした言葉遣いや態度に腹を立てるの。本当に腹が立っていたのか分からないわ・・・・・・。だんだん諦めるようになった。籠のなかの小鳥みたいな気分だった」
「ずいぶん、酷い目に遭ったんだね」僕は彼女の頭をそうっと撫でた。
「あのカフェで働いていたとき、あなたに出会って、本当に良かったと思っている。祐介は、私を救ってくれたのよ。いろいろなものが怖かった。人を信頼することができなくなっていた。猜疑心に満ちあふれていた。つまらない女の子になりそうになった。そして、つまらない人生を歩むところだった」
「今は幸せなの?」
「もちろん」目を輝かせて、由希子は笑った。「でもね、最近は妹のことで頭が痛いの。相談に乗ってくれる?」
「夏希ちゃんのこと?」
「うん」
夏希は由希子の二つ年下の妹で、素行があまり良くなかった。夜の仕事を転々とし、高校生のときには援助交際を行ってお金を稼いでいた。男遊びが激しく、常に何人かのボーイフレンドが存在した。何度か会ったことがあった。姉妹の仲は不思議と良いらしかった。真面目な姉に、不真面目な妹。組み合わせとしては、案外バランスが取れているのかもしれない。僕は夏希に対して、悪い印象は持っていなかった。
「今、付き合っているボーイフレンドが上村慎治っていうんだけど、夏希と同い年の二十歳で無職なの。勤め口を見つけてきても、すぐに喧嘩して辞めてくる。練馬区で一人暮らしをしているらしいんだけど、今までけっこう夏希がお金を融通していたのよ。けっこうな金額のお金。名目上は借金になっているけど、慎治は返済する気はなさそうなの。そりゃそうよね、無職じゃ返しようがないもの」
彼女は遠い目をした。向こうの方では、子供がはしゃぎ回っていた。高い声がいくつも耳に届いた。のどかだった。
「夏希は、慎治と一緒に暮らすって言うの。私としては、こらえ性のない男とは別れて欲しいんだけど、言っても聞かないのよ」
「つまり、夏希ちゃんを説得して欲しいってこと?」
「違うの、慎治に会って欲しいの。彼はきっと、夏希のことを愛してはいないわ。手切れ金は私が渡すつもり。彼はただ、お金が欲しいだけなのよ。夏希はそのことに気付いていない」
彼女はため息をついた。「大事な妹なのよ、お願い・・・・・・」
「分かった。日時は由希子に任せるよ。手切れ金っていったいいくらくらい用意したんだい?」
「二百万円」
「そんなお金どうやって貯めたの?」
「子供の頃からのお年玉とか、学生時代のアルバイト代とか。ほとんど全財産なの」
「夏希ちゃんは、君みたいなお姉さんを持って幸せだね」
「本人は、まったくありがたく感じていないみたいだけど」彼女は苦笑いをした。
「慎治を説得してみるよ」
「ありがとう、私一人で行くのは心細いし」
帰りにスーパーへ寄って、買い物をした。由希子は料理を作った。疲れていたので、ミートソースのスパゲティとツナサラダくらいのものだったが、相変わらず美味しかった。缶のビールを飲み、音楽を聴いた。オアシスのアルバムだった。ゆったりとした時間が、まっすぐに流れていた。由希子は風呂に入った。僕は煙草を取り出して、一本吸った。真っ白な煙が天井に向かって、立ち上っていった。
『ワンダーウォール』が流れ、『ドントルックバックインアンガー』切り替わった。ボーカルが弟のリアム・ギャラガーから、兄のノエル・ギャラガーになり、部屋に鳴り響いていた。僕は目を閉じて、しばらくじっとしていた。やがて、由希子は風呂からあがった。
僕はバスルームに入った。シャワーだけを浴びた。
パジャマ姿に着替えた由希子はダイニングテーブルの椅子に座っていた。僕はソファに座った。テレビではニュースが流れていた。ニュースは様々な出来事を報道していた。政治家の汚職があり、学校のいじめ問題があり、東海地方で地震があり、大リーグで日本人野球選手が活躍し、最後に天気予報が流れた。
ニュースが終わると、テレビを消した。辺りはしんとなった。由希子は烏龍茶を飲み、首筋を触っていた。
「そろそろ、寝ましょうね。明日は仕事があるし、私もあなたも」
「そうだね」僕はそう言った。
「仕事は楽しい?」彼女は僕に訊いた。
「わりと」
「良かったわ。今度、仲の良い同僚さんを連れて来てよ。おもてなしするわ」
「うん。ありがとう」
その日はぐっすりと眠った。朝がやってきたので、仕事に行く準備を行った。由希子にコーヒーを淹れてもらった。香ばしい匂いが鼻についた。
 僕の職場は品川にあった。高層ビルの十七階で、そこでサーバの設計やネットワークの構築を行っている。官公庁が主なクライアントで、公共チームという所属になっていた。二十五階は食堂になっていて、喫煙室は五階と十階にあった。エレベーターは高速で動き、全部で八機。見晴らしは非常に良い。いかにも、IT企業という雰囲気だった。僕はわりとこの仕事を気に入っていた。
公共チームでは、同い年の岩崎と仲が良かった。彼は早稲田大学理工学部の出身で、別に専門学校へ行ってITの資格を取っていた。MCPであるとか、シスコシステムズの資格。僕よりも全然詳しかったが、技術を鼻にかけないところが気に入っていた。午前中の仕事が終わり、昼食を取っているときに、岩崎に言った。
「今度、僕のマンションに遊びに来ないか? 付き合っている女の子が料理上手でね。仲の良い同僚を連れてきて欲しいって言われているんだ」
「由希子さんだっけ? このあいだ写真を見せて貰ったけど、美人だよね。羨ましいな。もちろん、行くよ。手土産を持ってね」
「楽しみにしているよ。ところで、岩崎の方はどうなんだ?」
「俺の彼女か?」
「そう」
「もう駄目だね。喧嘩ばっかりだよ。きっと、俺のことが何もかも気に入らないんだね。ヒステリーだし、ちょっと怖いし」
「高校の頃から付き合っているんだろう? きっと、相手は分かって欲しいんだよ」
「何を?」
「それ以上は何とも言えないけどね」
彼はラーメンのスープをすすった。ここの食堂は美味しいし、日替わり定食が和食、洋食、中華とあって、重宝していた。値段も安かった。僕たちは食べ終わったので、十階の喫煙室へ行った。彼はマールボロのブラックメンソールを吸っていた。僕は、メビウス
った。自動販売機で缶のコーヒーを買い、煙草を吸った。
「別れるのは、時間の問題かもしれない。俺が必死に止めているけども、もう疲れ果てたよ。いっときは結婚の話まで持ち上がったのにな、女の子は冷めると早いから」
「岩崎なら、きっとすぐに良い女性が見つかるさ」
「そうかな?」
「たぶんね」僕は苦笑した。
「こればかりは巡り合わせだからな。神様にお願いするしかないか」
「神様を信じているの?」
「もちろん、俺はカトリックだからね。日曜日には教会へ行くよ。それほど熱心というわけじゃないが、厳格な家庭に育った。柏木は神様を信じているのかい?」
「信じたいけど、本当はいないかもしれない」
僕は煙草の火をもみ消して、吸い殻を捨てた。「毎日、祈っているんだ」
「そうか」
その日の夜は、岩崎と飲みに行った。会社の近くの居酒屋だった。主に仕事の話だが、時折彼は寂しそうな目をした。人生がうまくいっていないのだ。僕にとって由希子の存在は大きかった。あの冷たい夜に、雨が降っていなかったら、カフェに立ち寄って由希子に出会わなかったかもしれないし、今とは違った人生を歩んでいたことだろう。巡り合わせか、と僕は静かに思った。
のぞみと巡り会い、後に由希子と巡り会った。そこには運命めいたものを感じていた。役割と役目。つなぎ目と結び目。様々な言葉が浮かびあがってきた。今、のぞみは暗がりに属し、由希子はひかりに属していた。
マンションに戻ると、由希子は映画を眺めていた。手元にはワイングラスがあった。白
のワインだった。彼女が白ワインを飲んでいることは珍しかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕はスーツを脱ぎ、着替えた。喉が渇いたので、ミネラルウォーターを飲んだ。さほどアルコールを取っていなかったので、酔っていなかった。
「今度の土曜日、同僚の岩崎が遊びに来るって。君は確か休みだっただろう?」
「その日は休みね。夕方くらいにいらっしゃるように伝えて欲しいわ。どんな人なの?」
「とにかく気さくで、分かりやすい人だよ」
「それは楽しみね」
「おなか空いたな」
「食べてきたんじゃないの?」
「どうしてだろう?」
「インスタントのラーメンならあるけど、それで良い? あいにく買い物に行っていなくて。ごめんなさい」
「それで良いよ。悪いね」
由希子はキッチンに立ってお湯を沸かし、インスタントラーメンを作った。僕は冷蔵庫を覗いて、なかから酎ハイを取り出した。ソファに座って、酎ハイを飲んだ。炭酸が喉を刺激した。僕はしばらく待っていた。
インスタントラーメンを食べ終えると、僕は風呂に入った。風呂に浸かりながら、夏のことを思った。夏希は姉の由希子より美しかったし、根は良い女の子だった。素直だし、純粋だし。純粋で思い出したが、のぞみは僕のことを純粋だと言った。スーパーピュアとも言っていた。しかし、純粋とはいったい何のことだろうか。僕のどこがそうだと言うのだろう・・・・・・。僕は丁寧に髪を洗った。シャワーのお湯は、神経をゆっくりと下降させていった。リラックスしていた。僕はもう一度湯船に浸かった。いろいろなことを思い出し、様々な気持ちが交錯した。僕は首を振った。運命。最終的には、そこに集約されていくのだろう。
部屋に戻ると、既に由希子はベッドに潜り込んでいた。蛍光灯の明かりは付いたままだった。小説を読んでいるようだった。僕の姿を認めると、小説を閉じて、身体を起こした。
「今夜は眠れそうにないわ。気だるさは残っているけども、意識ははっきりとしているし、困ったものね。トリプトファンのサプリを飲んだわ。駄目みたい」
「君が眠るまで、ずっと起きていてあげるよ」
「祐介は明日仕事じゃないの」
「良いんだよ、僕も眠れそうにないんだ」
「珍しいわね」由希子はくすくす笑った。「ホットミルクでもどう? 蜂蜜を入れるの。リラックスするわよ」
「お願いするよ」
僕たちはベッドルームで、ホットミルクを飲み、話をした。いろいろな話が持ち上がった。あのショットバーの夜とは違って、話題に欠くことはなかった。毎日顔を付き合わせているというのに、どうしてこんなにも話すことがあるのか不思議だった。彼女はカフェの話をした。面白いお客さんの話や、マスターの趣味、こだわりのコーヒー豆について。そして、以前の彼氏のこと。
「私は決定的に、男運がないのよ。祐介以外は」
「暴力を振るうのは最低だね」
「自分でも止めることができないって言っていたわ・・・・・・。不憫な人よね。今も、どこかで女の子に暴力を振るっているのよ。まるで自己確認するみたいにして」
時刻は真夜中の二時になっていた。由希子は少し眠たそうだった。僕はあまり眠くはなかった。
「眠くはないの?」僕は由希子に訊いた。
「あと三十分くらいしたら、眠るわ。付き合ってくれてありがとう」
僕は起き上がって水を飲みに行こうとした。
「ねえ、夏希は本当にどうしようもない子なのよ。馬鹿なのよ」低い声で由希子は言った。
「僕は夏希ちゃんのことが好きだよ。かわいいし、素直だし。素直だから、男性関係で痛い目を見ることもあるみたいだけどね」
「それもそうね。あの子は、なんていうか、信じやすいのよ。いろいろなことを、いろい
ろな人を」
彼女が言っていることは、なんとなく理解することができた。夏希とは数度しか会っていなかったが、彼女は確かに信じやすい精神の持ち主だった。相手に染まりやすいと言うのだろうか。
「眠くなってきたわ」由希子は目を半分閉じていた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
僕は明かりを消して、目を閉じた。由希子は僕の手をずっと握っていた。まるで何かを信じるみたいにして。