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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(5)

のぞみとの大学生活に話を戻そう。沖縄で知り合った亜希と美紀とは、時々ご飯に行ったりしていた。年齢は近かったし、彼女たちは屈託がなく、話しやすかった。のぞみは親近感を抱いていたようだった。彼女はテニスサークルに所属していて、友人は多かった。異性の友人もたくさんいたので、亜希と美紀に紹介したり、コンパを行ったりしていた。美紀はすぐに彼氏を作った。もちろん、のぞみの紹介だった。亜希の方は、別に好きな男性がいるらしく、コンパには乗り気ではなかった。美紀の二十歳の誕生日には、みんなでお祝いをした。青山のパーティールームを借りて、亜希の大学の人やのぞみのサークル関係の人が混ざり合い、お酒を飲み、料理を食べた。DJブースがあって、そこで好きな音楽をかけることができた。ミラーボールが設置してあり、幻想的なひかりを放っていた。音楽はイギリスやアメリカのロックが中心だったけども、時折邦楽もかかった。安室奈美恵宇多田ヒカルサカナクションなどの音楽だ。みんなが会話できるように、音量は絞ってあった。パーティールームに椅子はほとんどなく、立食だった。
 二十本のろうそくが立ったバースデイケーキ。火が灯され、美紀が吹き消すと、盛大な拍手があった。なごやかな雰囲気だった。
 美紀の恋人は、倉田隆人という名前だった。僕らと同じ大学の三年生で、二十一歳。彼はワインクーラを飲んでいた。白ワインに、オレンジジュースのカクテル。美紀は隆人に、身も心も捧げているという感じで、幸せそうだった。隆人も美紀を大事にしているようだった。二人はまるで仲睦まじい夫婦みたいだ。
 パーティーの楽しい時間は進んでいった。祝祭ムードだったし、実際にめでたいことだった。一時間が少し過ぎた頃、のぞみの様子がおかしかった。アルコールは取っていないものの、疲れているような表情を浮かべていた。壁にもたれかかり、肩で息をしていた。
目は虚ろだった。どこか焦点が定まっていなかった。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」僕はのぞみの傍に寄り添って、尋ねた。
「まるで自分の身体が自分のじゃないみたい、重たいの。頭が」
 心配そうに、亜希と美紀が近づいた。「のぞみ、大丈夫?」
「気分があまり良くないわね」
「外の新鮮な空気を吸いに行こうよ」
「私たちも付いていくわ」
 歩いて五分くらいのところに公園があったので、そこのベンチにのぞみは座った。顔色が悪く、気分は優れないみたいだった。僕は背中をさすった。体調不良なのだろうか。あるいは、精神的に不調なのかもしれないな、と僕は思った。冬の空気は澄み渡り、冷たかった。僕は自分のコートをのぞみに羽織らせた。
「ごめんなさい、せっかくのお誕生日会なのに」
「良いのよ、そんなことは」美紀が言った。優しい言葉のタッチだった。「のぞみのことの
方が大事よ」
「このところ、体調が悪いの。だけど、ここまで悪いのは初めて。少しすると、良くなると思うわ。どうしてかしら? 医者に行った方が良いかもしれないわね」
 僕はのぞみの左手をずっと握っていた。彼女の手は湿っていた。体温は上昇しているようだった。
「落ち着いたら、家まで帰ろう。送っていくよ」
「ここにいたいわ・・・・・・」
「のぞみ、駄目よ。家に帰って、寝ないと」亜希は言った。「美紀はパーティールームに戻りなさい、主役だし」
「分かったわ。のぞみ、お大事に。気を付けてね」
 美紀は去っていった。月明かりが眩しい夜だった。空を見上げると、まるで太陽のようにこうこうと満月が照っていた。雲はひとつもなかった。僕はリュックサックからペットボトルを取り出して、ミネラルウォーターをのぞみに飲ませた。
 すると隆人が駆け寄ってきた。きっと、美紀から話を聞いて心配になって来たのだろう。
「のぞみ、大丈夫か?」
「さっきよりは、ずいぶん気分が良くなってきた」
「そうか。このところサークルでテニスをやっていても、顔色が悪いときあるもんな。一
度、医者に診て貰った方が良いよ」
「そうする」
「これ、ドラッグストアで買ってきたんだ。気休めみたいなものだけど」
 彼は栄養ドリンクをのぞみに手渡した。高価なものだった。
「あ、ありがとう・・・・・・」
「今日はゆっくり休めよ」
 十分くらいすると、もう大丈夫とのぞみが立ち上がったので、タクシーに乗ってのぞみの家へ帰った。僕は付き添った。両親には事情を説明した。彼らも心配そうな表情を浮かべていた。のぞみは部屋に戻った。すぐに眠ったようだった。僕はリビングにいてテーブルを挟み、両親と話をしていた。彼らは口を揃えて言った。のぞみはこのところ変だ、と。どういったふうに変なのですか? と訊くと、独り言が多くなったとか、体調が悪くなってアルバイトを休んだという類いの話だった。大学にもあまり顔を出していない。
「まるで人が変わってしまったようなことがあるのです」母親は言った。僕は熱いお茶
飲み、話を聞いた。
「あの子の表情から優しさを奪い、代わりに憎しみを注入したような、時々怖い顔をして
立っているんです。話しかけることも難しいくらいです」
「そんなに長い時間じゃない、五分くらいのあいだだよ。たまに起こる。まるでフリーズしたみたいに、動かなくなる。私たちの言葉はまったく届かなくなる・・・・・・」
「僕は気付かなかったですね。大学は時々休んでいると思っていたのですが、話しぶりはいつもののぞみさんでしたよ」
「気のせいかしら?」
「そうかもしれないな」
「とにかく、病院には連れて行った方が良いかと思います。何事もなければ良いのですが」
「明日、会社を休んで連れて行くよ」
 僕はお茶を飲み干した。「それでは、僕は帰ります。お大事に」
「いつもありがとうね。祐介君だから、娘を安心して任せることができるよ」父親はにこやかだった。母親は微笑していた。
「結婚するんだろ? のぞみから聞いたよ」父親は笑った。僕の背中を優しく叩いた。
「いや、それは、まあ酔った勢いで・・・・・・」僕は恥ずかしかった。心がカアッと熱くなった。
「娘は嬉しそうだったぞ」彼はまた笑った。
 僕は照れながらのぞみの家を出た。満月は相変わらず、強いひかりを放っていた。冷たい風が、吹きすぎていった。通りには、人がほとんどいなかった。商店街のアーケードをくぐり抜け、券売機で切符を買い、プラットフォームにあがって電車を待った。電車のなかの人々の表情には、温もりがあった。僕はほっとした。彼らは、携帯電話をいじったり、談笑したり、眠ったりしていた。深夜の時間帯に差しかかった車内は、独特の雰囲気だった。僕は流れゆく車窓の景色を眺めていた。集合的なひかりが重なり、点と点が無数の線となって、消えていった。のぞみの無事を祈った。
 家に戻って、風呂に入り、テレビを眺めていると、亜希から電話があった。彼女はのぞみの様子を伺った。僕は話をした。
「何事もなければ良いんだけど」
「本当に」僕はそう言った。
「あなたたちと沖縄で出会えて良かったわ。なんていうか、世界が広がった感じがするの。のぞみは友達が多いし、性格も良いし、素敵な女の子よね。きっと、あの子は人に何かを与えたり、配ったりすることができるのよ。ある種の才能ある作家がそうであるようにね」
 言われてみれば、確かにその通りかもしれない。のぞみは他人に影響を与えることが多かった。僕も少なからず、影響を受けていた。
「のぞみはいろいろな人に慕われていて、凄いなって思うもの。スタイルも良いし、顔立ちは整っているし、あんな子滅多にいないわ。絶対に、手放しちゃ駄目よ。何があっても」
 何があっても、と僕は心のなかで思った。時々怖い顔をして立っているんです、と母親
は言った。僕は首を振った。
「分かっているよ」
「それじゃおやすみなさい。今夜はお疲れ様」そう言って、亜希は電話を切った。僕はソファにもたれかかった。また、妙な胸騒ぎがした。まるで胸に鉛を押し込められたような感触が続いた。
「祐介、まだ寝ないの? 明日学校でしょ」とリビングに入ってきた母親が言った。
 時刻は夜中の一時半くらいだった。
「明日は昼からなんだ。もう少し起きておくよ」
 母親は黙って、キッチンへ行きミネラルウォーターを飲み、寝室へ戻っていった。リビ
ングは静まり返っていた。僕は窓の外の月を眺めた。不思議な色合いの月だった。
 翌日、のぞみは父親に付き添われて病院へ行った。総合病院だった。体調不良の原因を探ったが、結果は異常なしだった。僕はその知らせを受けたとき、安堵した。大学の授業が終わった帰りに、のぞみと会ったが、いつもののぞみだった。顔色も良く、健康そうで、闊達だった。僕たちはカフェに入って、談笑した。彼女はカプチーノを飲み、僕はアメリカンコーヒーを飲んだ。
 大学のカフェは、学生たちで賑わっていた。僕とのぞみは、隅の方に座っていた。
「病は気からって言うわよね、もう大丈夫よ。授業は出ているし、この通りピンピンしているわ」
 僕はコーヒーカップを口元に運んだ。
「最近、変わったことはない?」僕には、母親のあの言葉が心をよぎっていた。心配だったのだ。
「そうね、時々、本当に、記憶をなくしているの」
「記憶?」
「知らないうちに、友達に電話をかけて、そのことを覚えていなかった。何度かあったのよ。まるで、夢遊病患者みたいに。短いあいだの記憶が抜け落ちているの」
「僕の知っている人がマイスリー遊びをやっていたんだけど、それに似ているかもしれないね」
マイスリー遊び?」
睡眠薬だよ。処方以上に飲むと、トリップする。記憶がなくなる。妙な高揚感を得ることができる」
「怖いわね・・・・・・」のぞみは目を細めた。「その知っている人って精神病患者なの?」
「そうだよ。躁鬱病だね。とにかく、波が激しいんだ。仕事することは困難し、薬は大量に飲んでいる。大変だよ、本人も家族も」
 彼女は神妙な顔をして、僕の話を聞いていた。
「もし私が精神障害者になったとして、それでも付き合ってくれる?」
 その言葉は、妙に軽かった。まるで気の利いたジョークみたいに。
「もちろん。君であることには変わりがないからね」
「ありがとう。本当に愛してくれているのね!」彼女は笑った。カプチーノを飲み、ソーサーにカップを置いた。「お父さんもお母さんも祐介のこと、凄く気に入っているのよ。私たちもしかして本当に結婚できるんじゃないかしら?」
 僕は言葉が出てこなかった。
「何よ、結婚する気はないの?」拗ねたような口調で、のぞみは言った。かわいらしかった。
「あるよ。だけど、今は学生だし、どんなところに就職できるか分からないし、何とも言えないな・・・・・・」
「美紀、幸せそうだったね。みんなにお祝いされて、隆人が傍にいて」のぞみは話題を変えた。
「そろそろ行こうか」
「夕ご飯、うちで食べていこうよ」
「いきなり押しかけちゃ悪い」
「このあいだ、タクシーで送ってもらったお礼をお母さんがしたいんだって」
 僕たちは席を立った。のぞみは、僕の腕を組み、身体を密着させた。僕の心臓は早鐘を打った。
「人前で、恥ずかしいよ」僕はそう言った。
「良いじゃないの、たまには」のぞみは笑っていた。

 土曜日の夕方に岩崎はやって来た。彼はすらりとした長身で、格好が良かった。ライトグリーンの長袖シャツは肘までまくし上げられ、ブルガリ・アルミニウムの腕時計が輝いていた。ネックレスの類いは身につけていない。胸元にはサングラスがあった。ブラックのチノパンツを履いていた。私服姿はオシャレで良く似合っていた。
「見晴らしの良いマンションだね」と彼は言った。「由希子さん、ご挨拶が遅れました。柏木の同僚の岩崎です。つまらないものですが、お土産にロールケーキを買ってきました」
「武元由希子です。本日はよろしくお願い致します。さあ、あがってください」
「お邪魔します」そう言って、岩崎は靴を脱ぎリビングに入った。
 時刻は四時過ぎだったので、夕食には早過ぎた。由希子は岩崎が買ってきたロールケーキを包丁で切って、真っ白な皿に盛った。紅茶の準備をした。マリアージュフレールの紅茶だった。由希子の好きなブランドで、香りが良く、鮮やかな色合いだ。ティーカップは、ウェッジウッドロイヤルコペンハーゲン
「祐介は職場ではどうなんですか?」椅子に座って、由希子は尋ねた。
「憎めない奴ですね。時々ヘマもやりますが、この業界、信頼が大事でして。技術よりも責任感とか、信頼性の方が重要だと思っています。そういった意味では、彼は一流です。クライアントの信頼を得ている。ITはキツい仕事です。マニュアル通りに設定しても上手くいかないときだってある。その場合でも、何とかしなくてはいけない。経験と機転が必要なんです」
 僕は黙って聞いていた。岩崎が述べると、信憑性があった。技術的には彼の方が断然上
だし、上司の評価も高かった。そんな彼の褒め言葉は、素直に嬉しかった。
「岩崎さんって、今は恋人とかいるんですか? 初対面の人に対する質問じゃないと思いますが、気になったので」
「昨日、別れたばかりでして。お恥ずかしい話です」
「別れたんだ・・・・・・」僕は言った。
「俺から別れを切り出した、もう限界だった。いろいろなものを受け止めるちからを失っていたし、耐えることが難しくなっていた。気持ちはなかなか切り替わらないけどね、ようやく区切りが付いたよ」
「そうだったんですか・・・・・・。余計なことを聞きましたね。岩崎さんならすぐに新しい恋人ができますよ」
「しばらくは一人でいたいですね」彼は苦笑いをした。僕はロールケーキを食べた。甘くて、美味しかった。
 五時になったので、由希子は席を外して、料理に取りかかった。僕たちは紅茶を飲みながら、煙草を吸った。
「素敵な女性じゃないか、綺麗だし、穏やかだし。柏木にはもったいないよ。どこで出会ったんだ?」
「カフェで。由希子はウェイトレスで、僕は客だった」
「運が良いんだね、君は」
「分からないな、運が良いのかな?」
「ところで、由希子さんは大学を卒業して、何故カフェのアルバイトをしているんだい? 就職活動はしなかったのか?」
「就職する気持ちがまったくなかったんだよ。社会のシステムに組み込まれることに嫌気が差したんじゃないかな・・・・・・。頭は良いし、目指せば良い企業に入ることは可能だったと思うけど、価値観は人それぞれだからね」
「案外、由希子さんは正しいのかもしれない」
「カフェのアルバイトじゃ、食っていけないよ」僕は小声で言った。
「現代人は心を失っていると思わないか? 毎日のようにニュースで殺人事件が報道されている、世界のどこかで戦争や紛争があり、多くの人々が命を失っている。一部の女子校生は援助交際で身体を売り、親のあいだではネグレクトが横行している。巨額の脱税や横領がある。社会全体が病んでいる。時々、息苦しくなるんだよね、この世の中が。仕組みが・・・・・・」
「プエブロ・インディアンは言ったそうだ。アメリカ人は皆狂っている、何故なら彼らはあたまでものを考える、しかし、それは間違っている。我々はこころでものを考える、とね」
 岩崎は黙って、聞いていた。僕は続きを言った。
「彼らの言っているあたまとは、自我のことだよ。自我を僕たちは心だと思っているが、こころとはもっと別のところにあるのかもしれない、つまり現代人はこころを見失っているんだ。本当のこころをね」
「興味深い説だね」
「確かに、生きにくい世のなかだ・・・・・・」僕はもう一本煙草を吸った。「関心があって、フロイドやユングの著作を読んだことがあるんだよ。為になることがけっこう書いてある。岩崎は根っからの理系だから、小説なんて読まないだろう?」
「読まないというよりは、読めないね。トライしたことは何度かある。夏目漱石とか谷崎
潤一郎とか、村上春樹とか。駄目だった。最後まで読み通すことができない。読書はもっぱら、実用書の類いが多いな・・・・・・。キャリアアップとか、自己啓発、資格試験対策とか。とにかく実用的じゃないと駄目なんだ」
 僕は笑った。「岩崎らしいな。たまには小説を読んでみると良いよ」
「お勧めは何かある?」
サマセット・モームの『月と六ペンス』。印象派の巨匠ポール・ゴーギャンの人生に暗示を得て、書いた傑作さ。芸術家の燃えるような信念がありありと描かれている。小説にしか表現できない世界というのは、必ず存在する。漫画でもソーシャルネットワーキングゲームでもその役割は果たさないと思っている」
 なるほどね、今度読んでみるよ、読めるかどうか分からないが、と彼は言った。時計を見ると、六時に差しかかっていた。
 由希子の料理が出来上がった。アスパラとベーコンのオイスターマヨネーズあえに、きのこのパイシチュー、シーザーサラダ、ポークソテーのトマト煮だった。オレンジの寒天ゼリーはデザートだ。岩崎はビールが好きなので、冷たい缶のビールを用意してあった。凍ったグラスに注いで、乾杯をした。
「料理はどれも美味しいですね。本格的でびっくりしました」岩崎は舌鼓を打った。
「ありがとうございます、幼い頃から母に仕込まれていたものですから」
「毎日、由希子さんの手料理を食べられて幸せだよな、柏木は」
 僕はゆっくりと頷いた。その幸せは、毎日噛みしめていた。由希子がいるからこそ、安心している部分があった。彼女には感謝しなくてはいけない。
 僕たちは料理を食べ、酒を飲んだ。ビールに飲み飽きると、ブランデーを注いだ。サントリーのVSOPだ。由希子は水割りで飲み、僕と岩崎はロックで飲んだ。由希子はキッチンへ行って、チーズを切った。僕たちはそれを食べた。
 普段、酒が強いはずの岩崎はずいぶんと酔っていた。顔が赤かったし、呂律が少しおかしかった。ペースは早かった。ストレスが溜まっているのだろうか、あるいは恋人と昨日別れたばかりで傷心なのかもしれない。
「岩崎さん、水でも飲まれます? ずいぶん酔っ払っているみたいですけど」
「まだ大丈夫です」
「目が半分閉じているよ」僕は笑った。
「ね、眠いんだ」
「ベッドで横になりましょうか」由希子が心配そうに言った。僕は岩崎の肩をかついで、寝室に連れて行った。酒臭かった。酩酊し、疲れているようだった。彼はベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。僕は、やれやれと言って、リビングに戻った。由希子は、じっと寝室の方を眺めていた。
「いつもは、こうじゃないんだけどね」
「昨日、恋人と別れたばかりだから仕方ないわよ。受け止めるには、重たいだろうし」
 夜の八時だった。
「あなたは酔っていないの?」
「ちっとも」
「強いのね、本当に」
「先にシャワーを浴びるよ、洗い物はしておくから、シンクに置いておいて」
「分かったわ」
 その夜、結局岩崎は泊まっていった。一度起き上がったとき、家に戻ると言っていたが、明らかに気分が悪そうだったし、酒が抜けていないみたいだったので泊めた。
「情けないよな、酒には強いつもりだったのに」
「たまには、こういうこともあるよ」
「遠慮なく泊まっていってくださいね」由希子はにっこりと笑った。
「由希子さんは、きっと良い奥さんになるよ」
「ありがとうございます」
 岩崎は翌朝、コーヒーだけを飲み、朝食は取らなかった。体調はずいぶん良くなったみたいだった。日曜日の朝のニュースを眺めながら、三人で食卓を囲むことは、とても自然な風景だ。
 また、いつでもいらしてください、由希子はさようならの挨拶をした。僕は駅まで岩崎を送っていった。その道で、彼は言った。
「由希子さんみたいな素敵な女性を絶対に手放すなよ。何があっても一緒にいた方が良い」
 目はいつになく真剣だった。僕のことを思い遣っての言葉だろう。
「昔、違う女の子と付き合っているときに、同じようなことを言われたよ」
 彼は立ち止まった。自動販売機で缶コーヒーを買った。僕の分も買ってくれた。
「結局、手放したんだね?」
「いろいろと事情があってね」
 岩崎はそれ以上、何も訊かなかった。コーヒーを飲み干すと、またしばらく歩いた。今度はお互いに黙っていた。
「カフェへ入って、煙草を吸わないか?」と岩崎は訊いた。僕は了承した。
 カフェはすいていた。僕たちは窓際の席に座って、ブレンドコーヒーを注文すると、一服した。
「嘘を付いた・・・・・・」と彼は言った。声は妙に平板で、乾いていた。目のひかりは失われ、温もりがなくなったような表情を浮かべていた。寂しさとは違った別の何かがそこには潜んでいた。
「何が?」僕には何のことかさっぱり分からなかった。「本当は、別れていないとか?」
「彼女は亡くなったんだ。どこかから仕入れてきた睡眠薬を大量に飲んで、首を吊って。実家の部屋で。昨日、お父さんから知らせがあってね。葬式は身内だけで済ませるということだった」
「自殺する理由はあったのか?」僕は驚いて、質問した。
「分からないんだ、頭が混乱している。しばらくは仕事ができそうにないから、休みを取る。俺には精神的な痛手が生じた。針が無数に深く刺さってしまったような痛みだ。途方もない痛みだよ。喧嘩ばかりしていたけど俺にとって大事な女性だった。つくづく、そのことが分かった」
 ブレンドコーヒーが運ばれてきた。僕はそうっと飲み、煙草を吸った。彼は朦朧としていた。精神的に疲弊しているのは明らかだった。
「確かに、最近は仲が良くなかった。彼女は常に苛々していた。何かにつけて、俺に八つ
当たりをするようになった。辛かった。仕事は就いてもすぐに辞めてくるし、最近では家で何をやっているのか分からなかった。きっと、取り憑かれていたのだと思う」
 取り憑かれていたのだと思う、と僕は頭のなかで繰り返した。重みのある言葉だった。
精神障害か何かだったの?」
「分からないんだよ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。微妙な境界に立っていた。彼女の死を到底受け止めることはできないんだ」
 それっきり、彼は言葉を失い、沈黙に浸った。僕はブレンドコーヒーの残りを飲み、煙草を吸った。しばらくの時間が無言の内に過ぎた。
「あんまり遅いと由希子さんが心配するから行こうか」
「分かった」
「ここの会計は払っておくよ。誰かに聞いてもらいたかったんだ。いや、誰かじゃないな。柏木に聞いてもらいたかったんだと思う」彼は苦笑いをした。僕たちは席を立った。カフェを出ると、駅の改札で別れた。僕はマンションに戻った。由希子は退屈そうに、テレビを眺めていた。
「ずいぶん遅かったじゃないの?」
「込み入った話をしていてね」
「夏希の彼氏と会う約束ができたわ。来週の日曜日に、練馬の彼のアパートメント」
「部屋まで行くのかい?」
「あまり動きたくないみたいね、良く分からないけど。ちなみに、夏希にはこのこと内緒だから来ないわ・・・・・・。私とあなたの二人だけ。彼は用件を知らない」
 僕は頷いた。
「祐介って頼りがいあるわよね。仕事もきっちりしているし、男らしいところがあるし」
「そうかな?」僕は頭をかいた。
「紅茶でも飲む?」
「ありがとう」
 由希子がティファールのポットでお湯を沸かしているあいだ、岩崎の恋人の死について、考えを巡らせていた。取り憑かれていたのだと思う、と彼は言った。いったい、何に取り
憑かれていたのだろうか。