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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(7)

 

のぞみの様子がおかしくなったのは、秋の軽井沢旅行が終わって、冬休みに入ったころだった。よくアルバイトの予定をすっぽかして、クビになったり、喜怒哀楽が激しくなった。僕と会っていても、楽しいのか楽しくないのか、分からなかった。まったく話さなくなったかと思えば、饒舌になることもあった。おかしいなと思った。

 十二月の日曜日のある日、僕たちはデートに行った。印象派の美術展があった。新宿の美術館だった。彼女は絵画が好きで、飽きもせずじっと眺めているのが常だった。しかし、このときは違った。並んでいる絵にまったく目もくれず、早歩きでとっとと出て行った。僕は呆気に取られた。僕のことを置いて行ったからだ。僕は慌てて、追いかけた。彼女の肩を掴んだ、肩は震えていた。彼女は今にも、泣きそうな表情を浮かべていた。

「どうしたの?」

「お客さんのなかに、霊能者がいるわ・・・・・・。私に嫌な念を送ってくるの、お前は間違っている、お前はくだらない、お前は早く立ち去るべきだって」

「気のせいだよ」

「気のせいじゃないわ!」彼女は大きな声を張り上げた。「あなたには、何も分からないの

よ。本当に、馬鹿なんだから!」

 のぞみは僕の手をふりほどくと、また早足で歩き始めた。大きな声をあげたせいで、人々は僕たちの方を注視していた。

「待てよ」僕は急ぎ足で、彼女の後ろ姿を追った。美術館を出て、彼女は新宿駅の西口に向かっていた。のぞみは振り返った。大粒の涙を流していた。地面に座り込んで、声をあげて、わんわんと泣き出した。

「とにかく、少し落ち着こうよ」僕はできる限り優しく微笑み、言った。

「どうして私は美術館に入っちゃいけないのよ、なんで指図をされないといけないの?

もう、わけが分からない!」

「誰も指図なんてしてないよ」

 僕はハンカチで彼女の涙を拭いながら、落ち着ける場所を探したが、あいにくカラオケ店くらいしかなかった。僕は彼女を起こし、カラオケ店に連れて行った。防音だから、いくら泣き声をあげても、迷惑にはならないだろうと思った。部屋に辿り着くと、ソファに

座らせた。ルーム電話で烏龍茶を二つ注文した。のぞみの顔色は優れなかったし、息苦しそうだった。過呼吸気味だ。

 僕はゆっくりと彼女の背中をさすった。彼女は次第に落ち着きを取り戻していった。しかし、目にひかりは戻っていなかった。虚ろなままだ。

「ごめんなさい、迷惑をかけて」のぞみは弱々しく言った。

「良いんだよ、大事なのぞみだから・・・・・・」

 やがて、烏龍茶がやってきた。彼女はストローを差し込み、吸い込んだ。

「もう大丈夫よ。少し休憩したら、行きましょう。レストランを予約しているんだよね、凄く楽しみにしているんだから」

「いや、今日は家に戻った方が良いよ。レストランは、キャンセルしておく。家まで送っていくよ」

 のぞみは何も言わなかった。宙を眺めていた。哀しげな目だった。涙のせいで、目が腫れていた。

 その日の夜は、のぞみの家で夕食を食べた。彼女はすっかり落ち着き、正常になっていた。僕は夕食を食べ終わると、家に戻った。

 亜希に電話をした。

「こんばんは」

「やあ」

「どうしたの?」

「ちょっと訊きたいことがあってね」

「何かな?」

「最近ののぞみの様子はどうだい?」

 電話口が一瞬静まりかえった。

「ちょっと怖いわね、あの子」

「怖い?」

「神経質になったというか、ささやかなことで怒るし、私は何度か怒鳴られたの。怒鳴られるようなことはしていないのに。美紀にも無茶を言っているみたいよ、夜中の二時に電話をかけて、今から渋谷で遊ぼうとかね。美紀もうんざりしているわ。仲が良かったから、私たち口には出さないけど、迷惑しているの。これが本音」

「そうか」

「何かあったの?」

「ちょっとね」

 僕は美術館での光景を思い出した。

「私たち、のぞみには感謝しているのよ。美紀が彼氏できたのも彼女のおかげだし、優しかったし、素敵だった。ただ、最近は関わらないようにしている。着信拒否にしようかと思っているくらいなの。夜中に電話をかけてくるのは非常識だわ。祐介は彼氏だから、それとなく注意しておいてよ」

「迷惑をかけて、悪かった」

「きっと、ストレスを溜め込んでいるのよ。解消した方が良いわ。じゃ、おやすみ」

 電話は切れた。亜希の声はどことなく冷淡だった。彼女はのぞみのことを怖いと言った。僕はその怖さを今日、垣間見た。まるで別人みたいだった。僕は頭を抱えた。落ち着くために、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。電話が鳴った。のぞみの父親からだった。

「祐介君か、家が大変なんだ。とにかく、急いで来てくれ。タクシー代は私が払うから!」

電話はすぐに切れた。僕は心臓の暗い鼓動を感じた。こめかみの奥が酷くうずいた。いったい、何が起こっているというんだ・・・・・・。何なんだ、今日は。

 タクシーでのぞみの家に行った。チャイムを押すと、母親が出てきた。明らかに彼女は狼狽していた。顔が真っ青だった。

「入ってください」

「お邪魔します」

 リビングルームは、ガラスの破片が散乱していた。液晶のテレビは叩き壊され、花瓶は割れ、グラスや皿は粉々。フローリングには、ゴルフクラブが何本か転がっていた。酷い有様だった。まるで災害か何かにあったみたいだ。

「のぞみさんがやったのですか?」

「そうだ、信じられないちからでね。押さえつけても無駄だった」

「怖かったわ」

 父親の右腕にはあざができていて、青黒かった。「アイアンで私の頭を殴ろうとしたんだ。わけの分からない奇声を発してね。殺されるところだったよ」

「それでのぞみさんは今どこに?」

「玄関を出て、走り去って行った。どこに行ったのか分からない」

「たまに様子がおかしいことはあったけど、ここまで酷いのは初めてです。もう、どうして良いのか分からなくて」

「砂糖や調味料を毒だと言って捨て出すし、煙草はサリンだと言って水に漬けるし。パニック状態だよ、我々としても」

「精神科に連れて行った方が良いかもしれませんね、お父さん」

「また暴力を振るわれたら、一緒に暮らせないな・・・・・・」

「のぞみさんを探してきます。昼間も様子がおかしかったんです、実は」

「よろしく頼む。私も探してみる。お母さんは家にいてくれ。もしかすると、戻ってくるかもしれないし」

「分かりました。気を付けて、行ってらっしゃい」

 僕たちは二手に分かれて、のぞみを探した。そう遠くには行っていないはずだと思った。のぞみの行きそうなところを当たった。ゲームセンターやカラオケボックスといった場所だが、彼女はいなかった。僕の頭のなかは混乱していた。のぞみの内側でいったい何が起こっているのだろうか。僕には分からなかった。理解することができなかった。亜希はのぞみと関わりたくないと言った。美紀も同じだった。あんなに仲良しだったのに、溝は深まり、決定的なところにまで達していた。この街にはいないのかもしれない。僕は夜中じゅう、新宿と渋谷の街を歩いた。どこにものぞみはいなかった。時々、父親と連絡を取り合ったが、彼も見つけることはできなかった。

 朝になり、昼になった。ろくに食べ物も食べていなかった。眠気が襲ってきた。僕はネットカフェに入り、二時間ばかり仮眠をとった。ぐったりと疲れていた。腹も減っていたので、焼きそばを食べた。携帯電話を見ると、父親から着信が入っていた。僕は折り返し、連絡をした。

「もしもし、祐介君」

「はい」

「のぞみが見つかったよ」

「いったいどこにいたのですか?」

「横浜だ。タクシーの運転手が不審に思って警察に通報したらしい。奇声を発するし、窓をドンドン叩くし、お金は持っていないし。これから、私が迎えに行くから、君はゆっくり家で休みなさい、また連絡する」

「分かりました」

 僕は電話を切った。僕はネットカフェを出て、まっすぐ家に向かった。へとへとだった。足は棒のようだし、心はずきずきと痛んだ。のぞみのことが何よりも心配だった。彼女はいったい、この先どうなってしまうのだろうか。

 翌日も、その翌日も電話は鳴らなかった。僕は息を潜めて、じっとしていた。待つしかなかった。幸い冬休みだし、予定はなかった。頭のなかでは、様々な不安要素がよぎった。のぞみはもう元には戻らないんじゃないかとか、多重人格になってしまったのではないかといったものだった。不安に押しつぶされそうになった。

 五日目の夜に電話があった。午後の七時くらいだった。

「のぞみは入院したよ、精神科に」

「そうですか・・・・・・」予期していたことだが、現実となると酷く重たかった。

「病名は、統合失調症だ。現在、薬物による治療を行っている。保護室といって、独房のようなところに入っている。刺激を取り除き、落ち着かせる必要があるからだよ。外界との接触をシャットアウトしているところだ」

「お見舞いに行きたいのですが」

「家族以外は面会謝絶でね、申し訳ないけど」

 僕は黙った。重苦しい沈黙が覆った。

「それに、もう君のことは覚えていないんだ・・・・・・。おそらく、会っても誰だか分からないと思う」

「どうしてですか?」僕は気が動転した。石のハンマーで殴られたような、鈍い痛みを感

じた。

「記憶の大部分を失っているんだ。知能は小学校中学年くらいまで下がっている。話し方も子供みたいだった。まるで、たちの悪い悪夢を見ているようだよ。だが、これは現実なんだ。私も君も受け止めなくてはいけない」

「そんな・・・・・・」

「退院したら、一目会わせてもらえませんか? 僕のことを思い出すかもしれないですし」

「がっかりするかもしれないよ、もうのぞみはどこにもいない。会うことは止めないがね。会わないで別れた方が君のためだと思う」

「退院したら、知らせてください。ずっと待っていますから」

「分かった」

 のぞみが退院したのは、半年後の夏だった。大学にはとりあえず休学届が出されていたけども、退学届に変わっていた。僕はその現実を受け入れることが難しかった。頭では理解しようとしても、心が伴わなかった。毎日、神社へ行ってお祈りをした。家の近くの小さな神社へ雨の日も風の日も通った。いくら祈っても、現実は変わらなかった。僕は一人寂しく、孤独に過ごした。また、空を眺めるようになっていた。僕は孤独だった。のぞみの存在がいかに大きいか、今更ながら知った。僕は彼女の屈託ない笑顔や、素敵な仕草、つるりとした美しい肌、甘い口元、綺麗な黒い瞳を思い出した。

 退院してから、しばらく経った後に、僕はのぞみと会った。そして、はっきりと別れを両親に告げた。のぞみに言っても、僕のことは覚えていないし、意味はないからだ。両親は納得し、励ましてくれた。君のことは本当に気に入っていたし、残念だがお互いのためだ。どこかで良い女性を見つけてくれ・・・・・・。久しぶりに見たのぞみは違った姿となっていた。

 

「由希子、コーヒーを作って欲しい」僕はそう言った。土曜日の朝だった。

「はい、ちょっと待ってね」

 由希子が淹れるコーヒーは本当に美味しかった。由希子はカフェ海音を辞めて、製薬会社で働くようになった。日々は忙しそうだ。僕も家事を少し手伝っている。朝食にケチャップトーストを食べ、コーヒーを飲んだ。煙草を吸った。

「明日よね、夏希と岩崎さんを会わすのは。私は用事があって行けないから、代わりにお願いするわね。岩崎さんが気に入ってくれると良いんだけど」

 季節は初夏だった。岩崎にこの話を持ちかけたとき、最初彼は断った。とてもそんな気分になれないという理由だったが、時間の経過とともに、夏希に興味を持ち始めた。夏希は美しい顔立ちだったし、何より素直で良い子だった。夏希は最初から、岩崎に好感を持っていた。

 僕は、もう一本煙草を吸った。

「祐介、どこか出かけるの?」

「ちょっと用事があってね」

「気を付けて行ってらっしゃいね。晩ご飯はビーフシチューだから、お楽しみに」

「ありがとう」

 僕は煙草の火を水道の水で消した。白いアディダスのスニーカーを履き、ドアを開けて、外に出た。駅まで歩き、電車に乗る。車中には、高校生の集団がいて、騒がしかった。時刻は十一時を少し回った辺りだった。府中市のとある駅に着くと、電車を降りて、しばらく歩く。街路樹はみずみずしい葉を並べ、風のそよぎで揺れている。お土産には、ピンクのくまのぬいぐるみとチョコレートのお菓子。チャイムを鳴らす瞬間が一番緊張する、その一瞬をかいくぐれば、あとはすんなりと心は落ち着いた。いつも、決まってそうだった。何かの儀式みたいに。

「やあ、祐介君いらっしゃい」のぞみの父親は僕の顔を見ると、いつも笑顔になった。玄関では母親も出迎えてくれた。

「いらっしゃい」

 母親は仕事を辞め、のぞみの世話を行っている。大変だが、充実した日々だと語る。特に最初は、どう接して良いのか分からなかったそうだ。僕は階段をあがり、のぞみの部屋に行った。のぞみはベッドに寝転がって、少女漫画を眺めていた。

「こんにちは、ゆうすけおじちゃん」

「のぞみちゃん、お久しぶり。良い子にしていたかな?」僕は優しい声で話しかけた。

「良い子にしていたよ。最近はね、悪いおじさんの声が聞こえなくなったの。水星の神様がやっつけてくれたんだって」

「それは良かったね、良い子にはご褒美だよ」僕はそう言って、くまのぬいぐるみとお菓子を渡した。

「わーい、ありがとう」

「さあ、パパとママが下で待っているから、降りようね」

「はーい」

 病院を退院したばかりののぞみは、目がぎらりとひかり、言葉は届かなかった。まともに会話できる状態ではなかった。一応は落ち着きを取り戻していたが、今ほどに良くはなっていなかった。そのときに会ったのぞみの姿や様子に、僕は言葉を失った。何も考えることができなかった。あのとき、確かに両親に別れを告げたが、時々、こうして遊びにやってきている。のぞみの美しさは相変わらずだったし、幼い心を持った彼女は愛くるしく、かわいかった。のぞみのことを今でも愛していると時々は思う。そうでなければ、会うだけでこんなに緊張したり、胸が高鳴ったりするわけがないのだ。過去の記憶は簡単には消すことができない。のぞみの場合は、過去と現在の像が入り交じり、不思議な深みを帯びている。のぞみには友達がいなかった。亜希や美紀とはもうとっくに関係が途絶えていたし、サークルの連中は病気以後誰ひとりとして会いにくることはなかった。大学の友人も同じだった。みんな冷たかった。まるで関心がないみたいだった。時々僕が会いに来ることについて、当初両親は難色を示した。会わないでおくのも優しさじゃないだろうか、などと言われた。だが、今では、こうして喜んでくれている。のぞみはすっかり変わってしまったと言っても、僕と会っているときの娘の嬉しそうな顔を見ることが好きなのだろう。やはり親なのだ。娘の幸せな様子を眺めることは、幸福に違いない。

 リビングの椅子に座った。のぞみはぬいぐるみの包装紙を破っていた。

「かわいい! ありがとうね。くまさんだー」

「いつも悪いね」

「いいえ、好きでやっていることですから」

「のぞみが病気にならなかったら、今頃結婚して、孫の顔でも見られたでしょうに・・・・・・」

母親はそう言って、料理を作っていた。

「ママ、今日のお昼ご飯は何?」

「オムライスよ」

「オムライス大好き」

「のぞみちゃん、お昼ご飯を食べたら、お散歩しようね」

「分かった。それから、次に会うときは二人っきりでデートだからね。前に約束したよね?

街の美味しいケーキ屋さんに行って、たくさんケーキを食べるの!」

「うん、僕も楽しみにしているよ」

「のぞみはデートをしたことがないから、本当に楽しみなんだ・・・・・・」

「デートは良いけど、お薬は毎日飲んでいる? 飲まないと入院することになって、僕と会えなくなるよ」

「うん。嫌だけど、飲んでいるよ」

「よしよし」

「よしよしして」

 僕はのぞみの頭を優しく撫でた。彼女は笑った。素敵な笑顔だった。母親がオムライスを持ってきた。のぞみはケチャップをたっぷりと付けた。いただきますと言って、食べ始めた。

「祐介君、今でものぞみのことが好きなんだろう?」父親が訊いた。

「そうですね」僕は返答した。率直な言葉を述べた。

「祐介さんに限って、間違いは起こさないわ」

「間違いって?」のぞみは質問した。

「変なことはしないって意味だよ」父親は言った。

「変なことって?」

「こら、質問ばかりはよしなさい」

「ごめんなさい」彼女は頭をぺこりと下げた。

「私もゆうすけおじちゃんのことが大好きだよ。優しいし、かっこいいし、プレゼントはたくさんくれるし、将来は結婚したいな!」

「ありがとう、嬉しいよ」

「祐介君が我が家に来てくれたら、賑やかになるな」父親の顔には笑みがこぼれた。

「祐介さんには、もう決まった女性がいるんですよ、のぞみ」

「そういうの浮気っていうんだよ、悪い人だね」のぞみはくすくす笑った。「私、その女の

人に負けない自信があるもん」

「どうして?」

「分からないけど、とにかく負けないの!」

 リビングの雰囲気は常になごやかだった。食事が終わると、僕と母親はのぞみを連れて散歩に行った。のぞみは僕の手を握っていた。楽しそうな様子だった。たくさんの人に慕われていたのぞみを尋ねてくる友人は今や皆無だった。記憶を失っているとは言え、寂しいものだろうな、と僕は思った。彼女は僕との時間をいつも心待ちにしていた。普段は部屋にこもってゲームをしたり、漫画を読んでいる。あるいは、インターネットでホームページを閲覧している。小学校中学年程度の知能なので働くことは無理だった。外出はほとんどしない。収入は障害者年金があったけども、微々たるものだった。両親が元気なうちはまだ良いが、いなくなったらどうやって暮らしていくのだろうか。僕はいつも不安に思っていた。一人暮らしは難しいだろうし、病院で暮らすことになるのかもしれない。のぞみにはもっと人生を楽しんで欲しかった。僕の切なる願いだった。僕はやがて由希子と結婚するだろう、会いに来るのは難しくなるかもしれない。のぞみはきっと毎日泣くだろうし、孤独に過ごすに決まっている。いつか、彼女は言っていた。私に何かあったら、代わりの女の子を見つけなさい、と。

 僕はようやく女の子を見つけた。心の整理に何年も時間がかかった。すべて病気が悪いんだと思うと、憎らしくなってきた。運命を呪った。

「あ。コンビニ寄って良い? 喉が渇いちゃった」

「良いよ」

 二人でカルピスソーダを選び、二本買った。代金は母親が出してくれた。

「公園のベンチで休憩しようよ」

「そうだね」

 ベンチは木陰になっていた。風が心地良かった。僕たちはベンチに座って、カルピスソーダを飲み、談笑した。

「のぞみを今度、デイケアに通わせようと思っているんです」

デイケア?」

「障害を持った人同士が集まって過ごす場所みたいなものです。トランプをしたり、一緒にお昼ご飯を食べたり、お昼寝したり。この子には友達がいないから。少しでも、外の空気に触れさせたくて。病状も安定しているし、大丈夫だと思うのです」

「賛成ですね、部屋に閉じこもるのは良くないです」

「のぞみはどっちでも良いけど」

「正直なところ、いつまで会いに来ることができるか分かりません」

「そうですよね」母親は目立たないようにため息をついた。「本当に、良くしてもらっていると思います。感謝しても仕切れないくらいです」

「会いに来ることができるか分からないってどういうこと?」彼女は不機嫌になった。

「外国に住むかもしれないんだ」僕は嘘を付いた。「アメリカとかヨーロッパとか、アフリカのジャングルの奥地とかね」

「だったら、のぞみも一緒に行く!」

「駄目よ、のぞみは病院に通わなくちゃいけないでしょ」

「外国にも病院はあるじゃん!」彼女はむきになって、言った。

「外国の病院は英語ができないと駄目なんだよ。お医者様とお話しないと、お薬を出せな

いだろう?」

 のぞみはうつむいた。目には涙が溜まっていた。かわいそうになってきた。僕は息苦しくなった。

「行くかもしれないだから、もしかすると、行かないかもしれない」僕は明るい声で言っ

た。

「本当に? 絶対に行っちゃ駄目だよ!」彼女は涙を拭き、笑顔を見せた。

「そうだね、僕も願っているよ」

「のぞみが水星の神様にお祈りしとくね」

「ありがとう」

「水星の神様、水星の神様、どうかゆうすけおじちゃんが外国に行かないように。お願いします」

 母親はくすくす笑った。

「私は真剣なんだよ」のぞみはムスッとして、頬を膨らませた。

「ごめんね、のぞみ」

「行こうよ、お散歩終わらせて、私の部屋でゲームしよ」

「分かった、じゃ、歩こうね」

「はーい」にっこりと笑った彼女の顔は美しかった。あの頃と、何も美しさは変わっていなかった。

 のぞみの部屋のなかでパズルゲームをして、時間を過ごした。彼女はとても上手だった。僕はかなわなかった。

「お手上げだね、ずいぶん上手いね」

「だって、毎日やることないもん。友達もいないし」

デイケアへ行ったら、友達ができるよ」

「ゆうすけおじちゃんが、毎日来てくれたら・・・・・・。この家に住んだら良いのよ。そうしたら、楽しいもん」

「できることならそうしたいけどね、いろいろな事情で難しいんだ」

「そっか」

 僕は二人きりの空間が好きだった。あの懐かしい日々を思い出すことができるし、今ののぞみも十分に魅力的だった。美しさ、無邪気さ、あどけなさ。彼女の傍にいると、心がほんのりと温かくなった。

 彼女はかつて僕のことを純粋だと言ったが、今の彼女は正に純粋そのものだった。

「ジュース取ってくるね!」彼女は走り出し、ドタドタと階段を降りていった。しばらくすると、オレンジジュースを一本持ってきた。グラスは二つだった。

「ところで、どんな女の人と付き合っているの?」

「料理が上手くて、努力家で、頭がわりと良くて、性格は穏やかな女性だよ」

「ふーん。そうなんだ。写真はある?」

 僕はスマートフォンに保存してある由希子の画像を見せた。彼女はまじまじと見つめた。

「確かに綺麗な人だけど、私の方がかわいいじゃない?」

「そうだね、のぞみちゃんの方がかわいいね」

「ゆうすけおじちゃんと私は付き合っているんだから!」

「初耳だな」僕は笑った。

「ママが言ってたもん。昔付き合っていて仲が良くて、喧嘩ひとつしたことがなくて、結婚するつもりだったって。だから、今も付き合っているの。私は、別れた覚えがないし」
「なるほどね」僕はもう一度笑った。「そろそろ帰る時間だ。またね。今度はデートだ。楽しみにしているよ」
「お手々、つないでよ・・・・・・。もう、帰っちゃうの、のぞみ寂しい」
 僕はのぞみと手をつないだ。ドアを開けて、リビングへ出た。父親と母親が座って、テレビを眺めていた。
「おやおや、手をつないで、ラブラブだな!」父親が笑った。
「のぞみとゆうすのぞみの様子がおかしくなったのは、秋の軽井沢旅行が終わって、冬休みに入ったころだった。よくアルバイトの予定をすっぽかして、クビになったり、喜怒哀楽が激しくなった。僕と会っていても、楽しいのか楽しくないのか、分からなかった。まったく話さなくなったかと思えば、饒舌になることもあった。おかしいなと思った。
 十二月の日曜日のある日、僕たちはデートに行った。印象派の美術展があった。新宿の美術館だった。彼女は絵画が好きで、飽きもせずじっと眺めているのが常だった。しかし、このときは違った。並んでいる絵にまったく目もくれず、早歩きでとっとと出て行った。僕は呆気に取られた。僕のことを置いて行ったからだ。僕は慌てて、追いかけた。彼女の肩を掴んだ、肩は震えていた。彼女は今にも、泣きそうな表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
「お客さんのなかに、霊能者がいるわ・・・・・・。私に嫌な念を送ってくるの、お前は間違っている、お前はくだらない、お前は早く立ち去るべきだって」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃないわ!」彼女は大きな声を張り上げた。「あなたには、何も分からないの
よ。本当に、馬鹿なんだから!」
 のぞみは僕の手をふりほどくと、また早足で歩き始めた。大きな声をあげたせいで、人々は僕たちの方を注視していた。
「待てよ」僕は急ぎ足で、彼女の後ろ姿を追った。美術館を出て、彼女は新宿駅の西口に向かっていた。のぞみは振り返った。大粒の涙を流していた。地面に座り込んで、声をあげて、わんわんと泣き出した。
「とにかく、少し落ち着こうよ」僕はできる限り優しく微笑み、言った。
「どうして私は美術館に入っちゃいけないのよ、なんで指図をされないといけないの?
もう、わけが分からない!」
「誰も指図なんてしてないよ」
 僕はハンカチで彼女の涙を拭いながら、落ち着ける場所を探したが、あいにくカラオケ店くらいしかなかった。僕は彼女を起こし、カラオケ店に連れて行った。防音だから、いくら泣き声をあげても、迷惑にはならないだろうと思った。部屋に辿り着くと、ソファに
座らせた。ルーム電話で烏龍茶を二つ注文した。のぞみの顔色は優れなかったし、息苦しそうだった。過呼吸気味だ。
 僕はゆっくりと彼女の背中をさすった。彼女は次第に落ち着きを取り戻していった。しかし、目にひかりは戻っていなかった。虚ろなままだ。
「ごめんなさい、迷惑をかけて」のぞみは弱々しく言った。
「良いんだよ、大事なのぞみだから・・・・・・」
 やがて、烏龍茶がやってきた。彼女はストローを差し込み、吸い込んだ。
「もう大丈夫よ。少し休憩したら、行きましょう。レストランを予約しているんだよね、凄く楽しみにしているんだから」
「いや、今日は家に戻った方が良いよ。レストランは、キャンセルしておく。家まで送っていくよ」
 のぞみは何も言わなかった。宙を眺めていた。哀しげな目だった。涙のせいで、目が腫れていた。
 その日の夜は、のぞみの家で夕食を食べた。彼女はすっかり落ち着き、正常になっていた。僕は夕食を食べ終わると、家に戻った。
 亜希に電話をした。
「こんばんは」
「やあ」
「どうしたの?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
「何かな?」
「最近ののぞみの様子はどうだい?」
 電話口が一瞬静まりかえった。
「ちょっと怖いわね、あの子」
「怖い?」
「神経質になったというか、ささやかなことで怒るし、私は何度か怒鳴られたの。怒鳴られるようなことはしていないのに。美紀にも無茶を言っているみたいよ、夜中の二時に電話をかけて、今から渋谷で遊ぼうとかね。美紀もうんざりしているわ。仲が良かったから、私たち口には出さないけど、迷惑しているの。これが本音」
「そうか」
「何かあったの?」
「ちょっとね」
 僕は美術館での光景を思い出した。
「私たち、のぞみには感謝しているのよ。美紀が彼氏できたのも彼女のおかげだし、優しかったし、素敵だった。ただ、最近は関わらないようにしている。着信拒否にしようかと思っているくらいなの。夜中に電話をかけてくるのは非常識だわ。祐介は彼氏だから、それとなく注意しておいてよ」
「迷惑をかけて、悪かった」
「きっと、ストレスを溜め込んでいるのよ。解消した方が良いわ。じゃ、おやすみ」
 電話は切れた。亜希の声はどことなく冷淡だった。彼女はのぞみのことを怖いと言った。僕はその怖さを今日、垣間見た。まるで別人みたいだった。僕は頭を抱えた。落ち着くために、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。電話が鳴った。のぞみの父親からだった。
「祐介君か、家が大変なんだ。とにかく、急いで来てくれ。タクシー代は私が払うから!」
電話はすぐに切れた。僕は心臓の暗い鼓動を感じた。こめかみの奥が酷くうずいた。いったい、何が起こっているというんだ・・・・・・。何なんだ、今日は。
 タクシーでのぞみの家に行った。チャイムを押すと、母親が出てきた。明らかに彼女は狼狽していた。顔が真っ青だった。
「入ってください」
「お邪魔します」
 リビングルームは、ガラスの破片が散乱していた。液晶のテレビは叩き壊され、花瓶は割れ、グラスや皿は粉々。フローリングには、ゴルフクラブが何本か転がっていた。酷い有様だった。まるで災害か何かにあったみたいだ。
「のぞみさんがやったのですか?」
「そうだ、信じられないちからでね。押さえつけても無駄だった」
「怖かったわ」
 父親の右腕にはあざができていて、青黒かった。「アイアンで私の頭を殴ろうとしたんだ。わけの分からない奇声を発してね。殺されるところだったよ」
「それでのぞみさんは今どこに?」
「玄関を出て、走り去って行った。どこに行ったのか分からない」
「たまに様子がおかしいことはあったけど、ここまで酷いのは初めてです。もう、どうして良いのか分からなくて」
「砂糖や調味料を毒だと言って捨て出すし、煙草はサリンだと言って水に漬けるし。パニック状態だよ、我々としても」
「精神科に連れて行った方が良いかもしれませんね、お父さん」
「また暴力を振るわれたら、一緒に暮らせないな・・・・・・」
「のぞみさんを探してきます。昼間も様子がおかしかったんです、実は」
「よろしく頼む。私も探してみる。お母さんは家にいてくれ。もしかすると、戻ってくるかもしれないし」
「分かりました。気を付けて、行ってらっしゃい」
 僕たちは二手に分かれて、のぞみを探した。そう遠くには行っていないはずだと思った。のぞみの行きそうなところを当たった。ゲームセンターやカラオケボックスといった場所だが、彼女はいなかった。僕の頭のなかは混乱していた。のぞみの内側でいったい何が起こっているのだろうか。僕には分からなかった。理解することができなかった。亜希はのぞみと関わりたくないと言った。美紀も同じだった。あんなに仲良しだったのに、溝は深まり、決定的なところにまで達していた。この街にはいないのかもしれない。僕は夜中じゅう、新宿と渋谷の街を歩いた。どこにものぞみはいなかった。時々、父親と連絡を取り合ったが、彼も見つけることはできなかった。
 朝になり、昼になった。ろくに食べ物も食べていなかった。眠気が襲ってきた。僕はネットカフェに入り、二時間ばかり仮眠をとった。ぐったりと疲れていた。腹も減っていたので、焼きそばを食べた。携帯電話を見ると、父親から着信が入っていた。僕は折り返し、連絡をした。
「もしもし、祐介君」
「はい」
「のぞみが見つかったよ」
「いったいどこにいたのですか?」
「横浜だ。タクシーの運転手が不審に思って警察に通報したらしい。奇声を発するし、窓をドンドン叩くし、お金は持っていないし。これから、私が迎えに行くから、君はゆっくり家で休みなさい、また連絡する」
「分かりました」
 僕は電話を切った。僕はネットカフェを出て、まっすぐ家に向かった。へとへとだった。足は棒のようだし、心はずきずきと痛んだ。のぞみのことが何よりも心配だった。彼女はいったい、この先どうなってしまうのだろうか。
 翌日も、その翌日も電話は鳴らなかった。僕は息を潜めて、じっとしていた。待つしかなかった。幸い冬休みだし、予定はなかった。頭のなかでは、様々な不安要素がよぎった。のぞみはもう元には戻らないんじゃないかとか、多重人格になってしまったのではないかといったものだった。不安に押しつぶされそうになった。
 五日目の夜に電話があった。午後の七時くらいだった。
「のぞみは入院したよ、精神科に」
「そうですか・・・・・・」予期していたことだが、現実となると酷く重たかった。
「病名は、統合失調症だ。現在、薬物による治療を行っている。保護室といって、独房のようなところに入っている。刺激を取り除き、落ち着かせる必要があるからだよ。外界との接触をシャットアウトしているところだ」
「お見舞いに行きたいのですが」
「家族以外は面会謝絶でね、申し訳ないけど」
 僕は黙った。重苦しい沈黙が覆った。
「それに、もう君のことは覚えていないんだ・・・・・・。おそらく、会っても誰だか分からないと思う」
「どうしてですか?」僕は気が動転した。石のハンマーで殴られたような、鈍い痛みを感
じた。
「記憶の大部分を失っているんだ。知能は小学校中学年くらいまで下がっている。話し方も子供みたいだった。まるで、たちの悪い悪夢を見ているようだよ。だが、これは現実なんだ。私も君も受け止めなくてはいけない」
「そんな・・・・・・」
「退院したら、一目会わせてもらえませんか? 僕のことを思い出すかもしれないですし」
「がっかりするかもしれないよ、もうのぞみはどこにもいない。会うことは止めないがね。会わないで別れた方が君のためだと思う」
「退院したら、知らせてください。ずっと待っていますから」
「分かった」
 のぞみが退院したのは、半年後の夏だった。大学にはとりあえず休学届が出されていたけども、退学届に変わっていた。僕はその現実を受け入れることが難しかった。頭では理解しようとしても、心が伴わなかった。毎日、神社へ行ってお祈りをした。家の近くの小さな神社へ雨の日も風の日も通った。いくら祈っても、現実は変わらなかった。僕は一人寂しく、孤独に過ごした。また、空を眺めるようになっていた。僕は孤独だった。のぞみの存在がいかに大きいか、今更ながら知った。僕は彼女の屈託ない笑顔や、素敵な仕草、つるりとした美しい肌、甘い口元、綺麗な黒い瞳を思い出した。
 退院してから、しばらく経った後に、僕はのぞみと会った。そして、はっきりと別れを両親に告げた。のぞみに言っても、僕のことは覚えていないし、意味はないからだ。両親は納得し、励ましてくれた。君のことは本当に気に入っていたし、残念だがお互いのためだ。どこかで良い女性を見つけてくれ・・・・・・。久しぶりに見たのぞみは違った姿となっていた。

「由希子、コーヒーを作って欲しい」僕はそう言った。土曜日の朝だった。
「はい、ちょっと待ってね」
 由希子が淹れるコーヒーは本当に美味しかった。由希子はカフェ海音を辞めて、製薬会社で働くようになった。日々は忙しそうだ。僕も家事を少し手伝っている。朝食にケチャップトーストを食べ、コーヒーを飲んだ。煙草を吸った。
「明日よね、夏希と岩崎さんを会わすのは。私は用事があって行けないから、代わりにお願いするわね。岩崎さんが気に入ってくれると良いんだけど」
 季節は初夏だった。岩崎にこの話を持ちかけたとき、最初彼は断った。とてもそんな気分になれないという理由だったが、時間の経過とともに、夏希に興味を持ち始めた。夏希は美しい顔立ちだったし、何より素直で良い子だった。夏希は最初から、岩崎に好感を持っていた。
 僕は、もう一本煙草を吸った。
「祐介、どこか出かけるの?」
「ちょっと用事があってね」
「気を付けて行ってらっしゃいね。晩ご飯はビーフシチューだから、お楽しみに」
「ありがとう」
 僕は煙草の火を水道の水で消した。白いアディダスのスニーカーを履き、ドアを開けて、外に出た。駅まで歩き、電車に乗る。車中には、高校生の集団がいて、騒がしかった。時刻は十一時を少し回った辺りだった。府中市のとある駅に着くと、電車を降りて、しばらく歩く。街路樹はみずみずしい葉を並べ、風のそよぎで揺れている。お土産には、ピンクのくまのぬいぐるみとチョコレートのお菓子。チャイムを鳴らす瞬間が一番緊張する、その一瞬をかいくぐれば、あとはすんなりと心は落ち着いた。いつも、決まってそうだった。何かの儀式みたいに。
「やあ、祐介君いらっしゃい」のぞみの父親は僕の顔を見ると、いつも笑顔になった。玄関では母親も出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
 母親は仕事を辞め、のぞみの世話を行っている。大変だが、充実した日々だと語る。特に最初は、どう接して良いのか分からなかったそうだ。僕は階段をあがり、のぞみの部屋に行った。のぞみはベッドに寝転がって、少女漫画を眺めていた。
「こんにちは、ゆうすけおじちゃん」
「のぞみちゃん、お久しぶり。良い子にしていたかな?」僕は優しい声で話しかけた。
「良い子にしていたよ。最近はね、悪いおじさんの声が聞こえなくなったの。水星の神様がやっつけてくれたんだって」
「それは良かったね、良い子にはご褒美だよ」僕はそう言って、くまのぬいぐるみとお菓子を渡した。
「わーい、ありがとう」
「さあ、パパとママが下で待っているから、降りようね」
「はーい」
 病院を退院したばかりののぞみは、目がぎらりとひかり、言葉は届かなかった。まともに会話できる状態ではなかった。一応は落ち着きを取り戻していたが、今ほどに良くはなっていなかった。そのときに会ったのぞみの姿や様子に、僕は言葉を失った。何も考えることができなかった。あのとき、確かに両親に別れを告げたが、時々、こうして遊びにやってきている。のぞみの美しさは相変わらずだったし、幼い心を持った彼女は愛くるしく、かわいかった。のぞみのことを今でも愛していると時々は思う。そうでなければ、会うだけでこんなに緊張したり、胸が高鳴ったりするわけがないのだ。過去の記憶は簡単には消すことができない。のぞみの場合は、過去と現在の像が入り交じり、不思議な深みを帯びている。のぞみには友達がいなかった。亜希や美紀とはもうとっくに関係が途絶えていたし、サークルの連中は病気以後誰ひとりとして会いにくることはなかった。大学の友人も同じだった。みんな冷たかった。まるで関心がないみたいだった。時々僕が会いに来ることについて、当初両親は難色を示した。会わないでおくのも優しさじゃないだろうか、などと言われた。だが、今では、こうして喜んでくれている。のぞみはすっかり変わってしまったと言っても、僕と会っているときの娘の嬉しそうな顔を見ることが好きなのだろう。やはり親なのだ。娘の幸せな様子を眺めることは、幸福に違いない。
 リビングの椅子に座った。のぞみはぬいぐるみの包装紙を破っていた。
「かわいい! ありがとうね。くまさんだー」
「いつも悪いね」
「いいえ、好きでやっていることですから」
「のぞみが病気にならなかったら、今頃結婚して、孫の顔でも見られたでしょうに・・・・・・」
母親はそう言って、料理を作っていた。
「ママ、今日のお昼ご飯は何?」
「オムライスよ」
「オムライス大好き」
「のぞみちゃん、お昼ご飯を食べたら、お散歩しようね」
「分かった。それから、次に会うときは二人っきりでデートだからね。前に約束したよね?
街の美味しいケーキ屋さんに行って、たくさんケーキを食べるの!」
「うん、僕も楽しみにしているよ」
「のぞみはデートをしたことがないから、本当に楽しみなんだ・・・・・・」
「デートは良いけど、お薬は毎日飲んでいる? 飲まないと入院することになって、僕と会えなくなるよ」
「うん。嫌だけど、飲んでいるよ」
「よしよし」
「よしよしして」
 僕はのぞみの頭を優しく撫でた。彼女は笑った。素敵な笑顔だった。母親がオムライスを持ってきた。のぞみはケチャップをたっぷりと付けた。いただきますと言って、食べ始めた。
「祐介君、今でものぞみのことが好きなんだろう?」父親が訊いた。
「そうですね」僕は返答した。率直な言葉を述べた。
「祐介さんに限って、間違いは起こさないわ」
「間違いって?」のぞみは質問した。
「変なことはしないって意味だよ」父親は言った。
「変なことって?」
「こら、質問ばかりはよしなさい」
「ごめんなさい」彼女は頭をぺこりと下げた。
「私もゆうすけおじちゃんのことが大好きだよ。優しいし、かっこいいし、プレゼントはたくさんくれるし、将来は結婚したいな!」
「ありがとう、嬉しいよ」
「祐介君が我が家に来てくれたら、賑やかになるな」父親の顔には笑みがこぼれた。
「祐介さんには、もう決まった女性がいるんですよ、のぞみ」
「そういうの浮気っていうんだよ、悪い人だね」のぞみはくすくす笑った。「私、その女の
人に負けない自信があるもん」
「どうして?」
「分からないけど、とにかく負けないの!」
 リビングの雰囲気は常になごやかだった。食事が終わると、僕と母親はのぞみを連れて散歩に行った。のぞみは僕の手を握っていた。楽しそうな様子だった。たくさんの人に慕われていたのぞみを尋ねてくる友人は今や皆無だった。記憶を失っているとは言え、寂しいものだろうな、と僕は思った。彼女は僕との時間をいつも心待ちにしていた。普段は部屋にこもってゲームをしたり、漫画を読んでいる。あるいは、インターネットでホームページを閲覧している。小学校中学年程度の知能なので働くことは無理だった。外出はほとんどしない。収入は障害者年金があったけども、微々たるものだった。両親が元気なうちはまだ良いが、いなくなったらどうやって暮らしていくのだろうか。僕はいつも不安に思っていた。一人暮らしは難しいだろうし、病院で暮らすことになるのかもしれない。のぞみにはもっと人生を楽しんで欲しかった。僕の切なる願いだった。僕はやがて由希子と結婚するだろう、会いに来るのは難しくなるかもしれない。のぞみはきっと毎日泣くだろうし、孤独に過ごすに決まっている。いつか、彼女は言っていた。私に何かあったら、代わりの女の子を見つけなさい、と。
 僕はようやく女の子を見つけた。心の整理に何年も時間がかかった。すべて病気が悪いんだと思うと、憎らしくなってきた。運命を呪った。
「あ。コンビニ寄って良い? 喉が渇いちゃった」
「良いよ」
 二人でカルピスソーダを選び、二本買った。代金は母親が出してくれた。
「公園のベンチで休憩しようよ」
「そうだね」
 ベンチは木陰になっていた。風が心地良かった。僕たちはベンチに座って、カルピスソーダを飲み、談笑した。
「のぞみを今度、デイケアに通わせようと思っているんです」
デイケア?」
「障害を持った人同士が集まって過ごす場所みたいなものです。トランプをしたり、一緒にお昼ご飯を食べたり、お昼寝したり。この子には友達がいないから。少しでも、外の空気に触れさせたくて。病状も安定しているし、大丈夫だと思うのです」
「賛成ですね、部屋に閉じこもるのは良くないです」
「のぞみはどっちでも良いけど」
「正直なところ、いつまで会いに来ることができるか分かりません」
「そうですよね」母親は目立たないようにため息をついた。「本当に、良くしてもらっていると思います。感謝しても仕切れないくらいです」
「会いに来ることができるか分からないってどういうこと?」彼女は不機嫌になった。
「外国に住むかもしれないんだ」僕は嘘を付いた。「アメリカとかヨーロッパとか、アフリカのジャングルの奥地とかね」
「だったら、のぞみも一緒に行く!」
「駄目よ、のぞみは病院に通わなくちゃいけないでしょ」
「外国にも病院はあるじゃん!」彼女はむきになって、言った。
「外国の病院は英語ができないと駄目なんだよ。お医者様とお話しないと、お薬を出せな
いだろう?」
 のぞみはうつむいた。目には涙が溜まっていた。かわいそうになってきた。僕は息苦しくなった。
「行くかもしれないだから、もしかすると、行かないかもしれない」僕は明るい声で言っ
た。
「本当に? 絶対に行っちゃ駄目だよ!」彼女は涙を拭き、笑顔を見せた。
「そうだね、僕も願っているよ」
「のぞみが水星の神様にお祈りしとくね」
「ありがとう」
「水星の神様、水星の神様、どうかゆうすけおじちゃんが外国に行かないように。お願いします」
 母親はくすくす笑った。
「私は真剣なんだよ」のぞみはムスッとして、頬を膨らませた。
「ごめんね、のぞみ」
「行こうよ、お散歩終わらせて、私の部屋でゲームしよ」
「分かった、じゃ、歩こうね」
「はーい」にっこりと笑った彼女の顔は美しかった。あの頃と、何も美しさは変わっていなかった。
 のぞみの部屋のなかでパズルゲームをして、時間を過ごした。彼女はとても上手だった。僕はかなわなかった。
「お手上げだね、ずいぶん上手いね」
「だって、毎日やることないもん。友達もいないし」
デイケアへ行ったら、友達ができるよ」
「ゆうすけおじちゃんが、毎日来てくれたら・・・・・・。この家に住んだら良いのよ。そうしたら、楽しいもん」
「できることならそうしたいけどね、いろいろな事情で難しいんだ」
「そっか」
 僕は二人きりの空間が好きだった。あの懐かしい日々を思い出すことができるし、今ののぞみも十分に魅力的だった。美しさ、無邪気さ、あどけなさ。彼女の傍にいると、心がほんのりと温かくなった。
 彼女はかつて僕のことを純粋だと言ったが、今の彼女は正に純粋そのものだった。
「ジュース取ってくるね!」彼女は走り出し、ドタドタと階段を降りていった。しばらくすると、オレンジジュースを一本持ってきた。グラスは二つだった。
「ところで、どんな女の人と付き合っているの?」
「料理が上手くて、努力家で、頭がわりと良くて、性格は穏やかな女性だよ」
「ふーん。そうなんだ。写真はある?」
 僕はスマートフォンに保存してある由希子の画像を見せた。彼女はまじまじと見つめた。
「確かに綺麗な人だけど、私の方がかわいいじゃない?」
「そうだね、のぞみちゃんの方がかわいいね」
「ゆうすけおじちゃんと私は付き合っているんだから!」
「初耳だな」僕は笑った。
「ママが言っけおじちゃんは付き合っているもん。のぞみ、別れてなんかいないよ。絶対に別れないから」
 玄関でさようならをした。のぞみは手を振っていた。
「いつもありがとう」父親は言った。
「こちらこそ」
「気を付けてね」のぞみはにっこりと微笑んだ。
 僕は帰路についた。家に戻ると、夕方の五時過ぎだった。由希子は小説を読んでいた。英語のペーパーバックだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 彼女は僕の行き先を訊かなかった。僕はコーヒーを飲み、煙草を吸った。ゆったりとした時間が流れていた。五時半になると、由希子は食事の準備に取りかかった。良い香りが漂ってきた。
 食事の最中、僕たちは特に何も話さなかった。由希子は風呂に入った。僕は洗い物をし、くつろいでいた。明日のことを考えていた。岩崎と夏希はうまく結びつくだろうか。たぶん、大丈夫なような気がした。夏希は素直だし、岩崎は誠実だからだ。シャワーの音が、バスルームから響いていた。
「祐介」
「何?」
「たまには一緒に、お風呂に入らない? ここのところずっと一人で入っていたから、寂しいのよ」
「良いよ」
 僕は衣類を脱いで、風呂に入った。由希子は湯船に浸かっている。白い肌が美しかった。
「まるで新婚夫婦みたいだ」と僕は言った。
「もう、夫婦みたいなものよ」彼女は笑った。「明日のことは頼んだわね。夏希は絶対岩崎さんをものにしないと、後悔すると思うの。あんなに良い人はそういないわ」
「分かったよ、頑張ってみる」
「夏希はろくな男と出会わないからね。ついていないのか、あるいはそうじゃないのか」
「でも、あのバンドマン、悪い奴じゃなかったよ。お金は受け取らなかったし、不器用そうだけど」
「そうね、確かに悪い男じゃなかった。だらしがないだけかもしれない」
「致命的だね、それ」
「私は恵まれているわ、祐介に出会えたから・・・・・・」
「ところで、明日どこへ行くの?」
「秘密」
「秘密?」
「じゃ、あなたはいったい今日どこへ行っていたのよ? 言いたくないでしょ、それと同じ」
「お互いに詮索はなしだね」
 由希子は笑った。「結婚したら、きっと私たちうまくいくわよ」
「たぶんね」
「のぼせてきたから、先にあがるね。ごゆっくり」
 僕は湯船のなかで、考えごとをしていた。のぞみの家に時折行っていることは、当然秘密にしている。いつまで隠し通すことができるだろう・・・・・・。由希子を愛していると同時に、のぞみのことはやはり忘れられないでいた。のぞみは、孤独だった。病になって、すべての友達を失った。不憫だった。
 記憶が戻れば、と何度思ったことか分からない。記憶はとうとう戻らなかった。現実は、氷のように冷たかった。のぞみは今も僕のことを好いてくれている。素直に嬉しかった。僕は髪を洗い、身体を洗った。バスルームを出ると、タオルで身体を拭いた。服を着た。洗面所にあるドライヤーで髪を乾かした。キッチンに行って、冷蔵庫を開け冷たいビールを取り出した。由希子は珍しく、テレビを眺めていた。歌番組だった。エブリリトルシングの持田香織が歌っていた。
「ELT、前から好きなのよね」
「僕も好きだよ、ライブにも行ったことがある」
「意外ね、あなたは洋楽派だと思っていたから」
「邦楽も聴くよ。いろいろと」
「そう」
 持田香織は美しかった。顔立ちは整っているし、細くて、かわいらしい。黒いカットソーを着て、軽くステップを踏んでいた。
「オアシスってバンド良いわね、時々聴いているわ。あなたがいないときも」
マンチェスター出身のロックンロールバンドだよ。第二のビートルズと呼ばれていた」
ビートルズに似ているわね、サウンドが」
「そうだね、伝承しているんだ」
 エブリリトルシングが終わると、彼女はテレビのスイッチを消した。僕はオーディオデッキの前へ行って、オアシスの『フォアットエバー』をかけた。クリスマス用にリリースし、ミニアルバムに収録されたものだった。
「CMで聴いたことがあるわ、良い曲よね」
「僕が最も好きな曲だね」
 しばらく、その音楽に耳を傾けた。由希子はソファに座り、じっとしていた。僕はキッチンへ行き、二本目のビールを開けた。
「秘密は大事だと思うの」と彼女は突然言った。「知られたくないものって、誰にでもあるのよ。お互いにひとつくらいは、許すことにしない?」
「つまり?」
「私は今日のあなたの行き先を訊かないし、あなたは明日、私の行き先を質問しない。フェアだと思うの」
「そうだね、良いアイデアだ」
「気にならないの?」彼女はささやくようにして言った。
「秘密なんだろう?」
 彼女は笑った。口を閉じ、ペーパーバックを取り出し、読み進めた。僕の秘密はもちろんのぞみのことだった。いったい、由希子の秘密とはなんだろうか・・・・・・。僕は首を振った。確かに、フェアだった。良いアイデアだ。