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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(8)

 十一時過ぎには眠った。幾つか短い夢を見たが、起きたらすべて忘れてしまっていた。朝の九時だった。由希子の姿は既になかった。朝食の用意が整っていた。彼女にだって、打ち明けたくない秘密があるのだ。お互い様だった。
 夕方の六時に、新宿のアルタ前で待ち合わせをしていた。岩崎が先にやってきた。ブルーの長袖シャツに、ジーンズ姿だった。彼は何を着てもよく似合った。太陽はそのひかりを弱めていた。人々はせわしなく、行き交っている。
「やあ」
「夏希ちゃんは?」
「まだ来ていないよ」と僕は言った。時刻は六時五分だった。十分を過ぎたころに、夏希はやってきた。グレイのニットとラベンダー色のスカートを身につけ、パールのネックレスをしている。清楚なファッションスタイルだ。彼女はにっこりと微笑んでいた。素敵な笑顔だった。
「初めまして、岩崎さん。夏希です」彼女は腕を前にやって、軽くお辞儀をした。
「こんばんは、岩崎です」
 岩崎の言葉遣いがおかしかった。どこか、ぎこちない。
「岩崎、緊張しているのか?」
「こんなに綺麗だとは思わなかった、由希子さんより綺麗じゃないかな」
 確かに、夏希の方が美しかった。鼻筋はすっきりとしていたし、線は全体的に細く、グラマラスだった。それに、彼女はまだ二十歳だ。若さ特有の、匂いと雰囲気を持っていた。
「お世辞が上手ですね。由希子お姉ちゃんの方が綺麗だと思いますよ」
「お世辞じゃないよ、本当のことを言っているんです」
「ありがとうございます」
 僕たちは居酒屋へ移動した。海鮮が美味しい居酒屋で、日本酒の種類が豊富だった。僕たちは刺身の盛り合わせと天ぷらを注文し、生ビールで乾杯した。店内は大勢の客で賑わっていた。たまにはこういった活気のある店も良いものだ。
 飲み会は終始なごやかだった。雰囲気は初めから良かった。岩崎は緊張していたものの、アルコールが進むにつれて、少しずつリラックスしていった。表情の固さが取れていった。夏希は岩崎に興味津々という感じだった。
「夏希ちゃんは、普段何をされているのですか?」
メイド喫茶で働いています、秋葉原の。その前はガールズバーに勤めていました。何をやっても続かないのですが、メイド喫茶は続けるつもりです。楽しいです。お客さんは面白い人が多いし、お恥ずかしい話ですが、私、コスプレが趣味なんです」
 彼女は美味しそうに、刺身を食べた。岩崎は生ビールを飲んだ。
「高校もギリギリで卒業したし、由希子お姉ちゃんに迷惑ばかりかけてしまって。私、バカなんです。自分でもそう思います。でも、バカなりにいろいろなことを考えているのです。例えば、どうやったら、男の人が喜んでくれるかとか、美味しいケーキ屋さんの法則とか、本当にいろいろなことを」
「美味しいケーキ屋さんの法則?」
「あるんです、私が発見したんです」彼女は大まじめだった。
「夏希ちゃんは根が良くて、素直なんだと思う」僕は言った。
「そこが素敵ですね」岩崎が笑った。
「岩崎さんは年上だから、敬語をとってください。何だか、おかしな感じがします」
「そうするよ」
「気が利くね」
「そうですか」夏希は照れ笑いをした。頭をかいた。赤い髪の毛が、美しく揺れた。一時間が経過した。二人の距離は縮まっているみたいだった。僕は胸をなで下ろした。岩崎は信頼感があるし、頼りがいがある男だった。仕事は真面目だった。慕われてもいる。きっと、夏希のことを支えてくれるに違いなかった。夏希はどこか、ふわふわとした女の子だった。まっすぐで素直な性格が美点だ。そこが、また魅力的なのかもしれないな、と僕は思った。
 ビールのお代わりを飲み干すと、今度は日本酒を注文した。岩崎は夏希に夢中のようだ。
親密な空気が流れていた。
「祐介さん、ひとつだけお願いがあるの」
「何だい?」
「席を替わってくれないかしら? 岩崎さんの隣に座りたいの」
「良いよ」僕は笑った。夏希は岩崎の隣に腰を下ろした。女性らしい、かわいい表情を浮かべた。頬はアルコールのせいで赤らんでいた。僕は胸がどきりとした。誰が見ても、美しいと思うだろう。
「あの、質問をひとつ良いですか?」
「はい」
「理想の女性像っていったいどんな人ですか? 優しかったり、美しかったり、いろいろあると思いますが」
 岩崎は顎に手を当てて、考えていた。
「由希子さんのように家事が得意で家庭的で、夏希ちゃんみたいにかわいい女の子かな。欲張りかもしれないけど。お姉さんより、君の方が好きだよ。気に入ったね」
「本当に?」彼女は目を輝かせていた。
「俺は嘘を言わない、たまに嘘をつくけど、他愛のないものだよ。大抵は真実を話す」
「私はお姉ちゃんほど上手くないけど、料理は作ることができますよ。今度、岩崎さんの家に行って、作ってあげます。何か、好きなものはありますか?」
「煮込みハンバーグかな」
「私、それ得意なんです」
 和気あいあいとしてきた。フィーリングはぴったりと合っているようだった。話が盛り上がってきたところで、僕は一足先に退散した。あとは、放っておいても仲良くやっていくだろう。僕は安心した。夏希は楽しそうだったし、岩崎は満更でもないみたいだった。二人とも失ったものは大きかった。その分、今夜は得るものがあったと思う。帰り道にカフェに寄って、コーヒーを飲みながら、煙草を吸った。由希子は今夜のことを話したら、きっと喜ぶだろう。僕は由希子に電話をした。何度か電話をしたが、彼女は出なかった。時刻は夜の八時を少し過ぎたあたりだった。僕はスマートフォンを仕舞った。由希子はまだマンションに戻っていないのかもしれないな、と思った。カフェを出て、電車に乗ってマンションに帰った。由希子はやはりいなかった。僕はシャワーを浴び、一息ついた。部屋は妙に、しんとしていた。奇妙な空気のこわばりだった。何故だろうか。僕は首を傾げた。
 時間は水銀のように重たく、流れていく。九時半になり、九時四十分になった。僕は由希子にもう一度電話をした。彼女は出なかった。何か、不吉な出来事があったのかもしれない。不安が頭をもたげた。僕は神経を落ち着けるために、煙草を一本吸った。あとは、部屋のなかで、何をするわけでもなく、じっとしていた。
 目を閉じて、深呼吸を行った。時計を見ると、十一時半だった。いくらなんでも、遅すぎる。探しに行った方が良いのだろうか、だけど、いったいどこに。
 そのとき、ドアが開いた。もちろん、由希子だった。
「おかえり、何度も電話をしたんだよ」
 彼女は何も言わなかった。視線は宙を漂っていた。虚ろな目だった。様子が明らかにおかしかった。
 しばらく、玄関で立ち尽くしていた。靴を脱ごうとしなかった。左手にはハンドバッグの紐が絡まっていた。
「由希子、いったいどうしたの?」僕は彼女の肩を持った。彼女の身体は小刻みに震えていた。まるで、何かに怯えているみたいだった。
 目を潤ませたと思うと、静かに涙を流した。透明な液体は頬を伝って、しずくとなり、床に流れ落ちていく。僕は動揺した。そんな由希子を見たのは初めてだったからだ。
「ごめんなさい、寝るね」彼女は呟くように言った。微かに、作り笑いをした。
「嫌なことでもあったの?」
 彼女は僕の問いに答えず、ようやく靴を脱いで寝室に入り、ベッドのなかに潜り込んだ。僕もベッドに入った。彼女はじっと壁を見つめていた。目を開けていた。眠ることができないみたいだった。
「何があったの?」
「何でもないの」彼女はすぐに言葉を返した。
「何でもないってことはないだろう」僕は怒気を込めて、言った。「言いにくいことなのか?」
 由希子は黙っていた。
 しばらくのあいだ、沈黙が降りた。彼女は僕の顔を見た。
「ところで、岩崎さんと、夏希はどうなったの?」
「あの二人なら、仲良くなったよ。相思相愛みたいだった。たぶん、付き合っていくんじゃないかな」
「良かった」
 由希子は幾分落ち着いたみたいだった。「夏希にもようやく春が来たわね。嬉しいわ、まるで自分のことのように」
 僕はそれ以上、追求することを止めた。由希子の表情が元に戻っていたからだ。僕は少
しだけ、安心した。
 僕はキッチンへ行って、コカコーラを飲んだ。喉が渇いていたのだ。僕が抱えている秘密と、由希子が抱えている秘密はいったいどちらが重たいのだろうか。分からなかった。僕は首を振った。由希子だって、のぞみくらいの重たさの何かを抱えて生きているのかもしれない。僕が知らないだけなのだ。寝室に戻ると、由希子は疲れていたのか、ぐっすりと眠っていた。あどけない顔だった。
 僕は自然と笑顔になった。

 岩崎と夏希はやがて付き合い始めた。毎週どこかにデートへ行っているらしかった。岩崎は幸せそうだった。最初は大丈夫かなと不安だったが、心配ないようだ。一ヶ月は穏やかに過ぎていった。由希子におかしな様子はなかった。あの日の夜はいったい何だったのだろうか。僕は時々、思い返してみたが、分からなかった。そうこうしているうちに、のぞみとの約束の日がやってきた。良く晴れた、日曜日だった。僕は午前中にのぞみの家へ行った。家にはあがらなかった。母親と父親は珍しく不在だった。のぞみはお出かけの用意をしていた。黄色のナップサックを背負って、目を丸くしていた。
「私は、毎日、カレンダーを眺めて、待っていたの。ようやく、この日がやってきたね! 本当に楽しみにしていたから」
「そうだね。僕も待ち遠しかったよ。初めての二人でデートだから、緊張するなあ」
「心臓がバクバクいっているの、さっきから」
僕は笑った。
「街に行くんでしょう?」
「新宿って街だよ。大きな街なんだ。いろいろな建物が建っているし、いろいろな人がいるよ」
「のぞみ、行ったことないから楽しみだな」
「行こうか」
「うん」
 道を歩いているあいだ、僕はのぞみの手を握っていた。彼女の手は温かだった。駅に着いたときに、のぞみは僕の腕に絡み付いた。
「今日はたくさん甘えるの、良いでしょ、ゆうすけおじちゃん」
 僕は券売機で切符を買った。
「好きなだけ、甘えても良いよ」
「わーい。ありがとう、ね、キスして良い? ほっぺたに」
「駄目だよ、人前だし」
「人前じゃなかったら、良いの?」
「良いよ、今日は特別だからね。ママとパパには内緒だよ」
「何でそんな迷惑そうな顔をするのよ? 本当は嬉しいくせに。のぞみのことが好きで好
きでたまらないくせに」
 のぞみのテンションは終始高かった。
「分かったよ、嬉しいよ」本心だった。のぞみはにっこりと笑って、改札を通った。電車のなかで、のぞみはデイケアの話をした。わりと楽しく過ごしているようだった。トランプ遊びをしたり、バスケットボールをしたりしている。お昼ご飯は、一緒に食べる仲の良い女の子がいた。さゆりという名前だった。軽度の発達障害。病名はADHDだ。年齢は十九歳で、若かった。
「さゆりちゃん、とても美人なのよ。私よりもずっと」
「へえ」
「今度ゆうすけおじちゃんが私の部屋に来るときは、家に呼ぶから。とってもかわいいわよ。性格も穏やかだし、仲良しなの。やっと、友達ができた。嬉しい」
「何度か部屋で遊んだの?」
「うん、二回。家が近所なの。さゆりちゃんの家に遊びに行くこともある。とてもお金持ちなの。かっこいい車が何台も停まっていて、大きなお犬さんが眠っていて、玄関の水槽にはおさかなさんがたくさん泳いでいるのよ。ママも綺麗なの。まるで奇跡みたいな親子」
 どうしてそんな子が病気なのだろう、と僕は思った。とにかく、のぞみに友達ができて良かった。僕は安心した。
「友達ってなかなか良いものだろう?」
「そうね。もっと早く出会いたかった。のぞみはずっと一人だったから、寂しかったの。ゲームは飽きたし、漫画は何回も読み直したし」
やがて、電車は新宿に着いた。プラットフォームから見える光景に、のぞみは息を呑んだ。「ビルが高い、大きい、何もかもが大きい!!!」
記憶を失う前、のぞみは数え切れないくらい新宿に足を運んでいた。記憶を失うというのは、何とも言えないことだった。彼女は、病気以前のことはほとんど覚えていなかった。はしゃいでいるのぞみの腕を引っ張って、改札口を通った。僕はホテルのバイキングを予約していた。そこなら美味しい料理や、甘いケーキをたらふく食べることができる。
 バイキングはホテルの三十五階で催されていた。エレベーターに乗って、会場に向かった。受付で手続きを済ませた。なかに入ると、フロアはたくさんの人で賑わっていた。シャンデリアが鮮やかなひかりの束となって、降り注いでいた。テーブルには白い花が活けてあり、窓の外の景色が美しく広がっていた。空はどこまでも青く、雲は穏やかだった。見事な天気だ。のぞみはしばらくその美しい景色を見つめていた。料理に目もくれなかった。
「どうしたの?」
「何だか、懐かしい感じがするの。真っ青な空と、太陽の輝き。昔、こんな気分になったことがあったと思う。ずっと昔、きっと私が記憶を失う前に」
「昔?」
「それ以上は思い出すことができないの。頭の奥が、ずきずきと痛み始めるようで、怖いのよ」
 のぞみは憂鬱そうな表情を浮かべていた。香りの良い、美味そうな料理を目の前にして
も、もうはしゃいではいなかった。
「具合でも悪いの?」
「急に、食欲がなくなっちゃった。デザートのケーキだけ食べるね」
 彼女はデザートのコーナーへ行って、ケーキを選び始めた。黄色や薄い赤など、いろとりどりのケーキが並んであった。まるで宝石箱みたいだった。
 僕はバイキングコーナーに行って、リゾットやスパゲティをよそった。チキンの照り焼きと、サラダを皿に盛った。のぞみは小さなケーキを食べ終えると、肩を落として、じっとしている。
 僕は声をかけた。のぞみは笑っているばかりだった。笑顔はどこか形づくられていて、不自然だった。表情には、心なしか影が射している。
「ごめんね、せっかくのデートなのに。もう少ししたら、良くなるから」
「良いよ、たまにはそういったこともある。君は病人なんだ」
「そんなふうに言わないでよ」
「悪かったね」
「ごめん」
 僕は彼女の様子を眺めながら、料理を食べた。料理は、とても美味しかった。のぞみは手をつないできた。温かくて真っ白な手だ。僕はそのほっそりとした指先を撫でた。彼女は首を振った。
「ケーキ、美味しいね!」口をモグモグさせながら、のぞみは笑った。いつもの彼女が戻ってきた。
「好きなだけ、食べて良いんだよ」
「ゆうすけおじちゃん、ケーキ一緒に選びに行こうよ、本当に美味しいの」
のぞみは僕の手を引っ張って、移動した。彼女は嬉しそうだった。開放感に溢れていたし、笑顔が素敵だった。彼女はケーキを五つも選んだ。僕はチョコレートケーキとチーズケーキを皿に取った。香りの良い紅茶をティーカップに入れた。彼女はフレッシュ・オレンジジュースを注いだ。僕たちのテーブルは、窓の傍で太陽の陽光がふんだんに降り注いでいた。
「ご飯を食べたら、どこに行くの?」
「そうだね、ゲームセンターはどうだい? カラオケボックスでも良いよ」
「ゲーセン行って、カラオケ行こうよ」
「分かった。カラオケは二時間くらいで良い?」
「うん」
 僕は紅茶をすすった。新鮮なリーブの匂いが強かった。色合いも美しい。のぞみは、美味しそうにケーキを食べていた。
「新宿って街は凄いね!」
「気に入ったの?」
「うん」
「今度、ママに連れてきて貰うと良いよ」
「そうだね、ママは優しいし大好き。パパは釣りばっかりやっているけど、面白いんだよ。
パパが釣ってくるおさかなさんは新鮮で美味しいんだ」
「のぞみちゃんは幸せだと思うよ。家族は優しいし、お友達もできたし」
「うん」彼女はにこにこしていた。
 ゲームセンターでは一緒にUFOキャッチャーをやった。のぞみはスヌーピーのぬいぐるみが欲しかったけども、アームのちからが弱すぎて、二千円使ったが取れなかった。モグラ叩きを一緒にした。のぞみとの対戦成績は二勝二敗、僕は本気でやったが、彼女は俊敏な動きをして、舌を巻いた。太鼓の達人では、安室奈美恵の曲や宇多田ヒカルの曲を叩いた。僕はリラックスしていた。純粋にこのデートを楽しみ、笑い合った。のぞみも楽しそうだった。僕たちはしばしば談笑した。時間はあっという間に、過ぎ去っていく。カラオケボックスで歌を歌い、ジュースを飲んだ。僕はアセロラジュースを飲み、彼女はコカコーラを飲んだ。のぞみとは交代で歌った。彼女は音楽が好きだった。そのことは、記憶を失う以前と変化はなかった。
 新宿に別れを告げ、電車に乗って府中市に戻った。時刻は夕方の六時だった。太陽は陰り、小鳥の声が遠くから耳に届いた。僕たちは家の近くの公園に入った。公園は、数人の子供たちがいて、母親たちは話をしていた。シーソーがあり、ブランコがあった。綺麗に塗装された緑色のジャングルジムがあった。のぞみはベンチに腰を下ろした。僕は辺りを見回して、ゆっくりと座った。
「楽しかった、本当に」
「僕も楽しかったよ、のぞみちゃんと一緒にいれるから幸せだな」
「ねえ、行きの約束を覚えている?」
「もちろん、覚えているよ」僕は笑った。頬を差し出した。彼女は僕の首筋に手を回すと、唇と唇を合わせた。懐かしい、のぞみとのキス。僕たちはしばらくそうしていた。気がつくと、彼女の背中に手をやっていた。抱き締めていた。とても温かくて、小さくて、涙が出そうだった。いろいろなものがこみあげてきた。彼女は記憶を失った。病にかかった。
同時に、僕も失った。失ったものは、大きかった。
 のぞみは手を解いた。僕は彼女を見つめた。本当に、美しかった。ため息が出るくらい
に。
「おなかすいた!」彼女は甲高い声をあげた。僕は笑った。
「行こうか」
「うん」
 のぞみの家に戻ると、母親が料理をしている最中だった。玄関には父親が出てきて、「おかえり」と笑った。弟も顔を出した。
「たっだいまー!」のぞみは大きな声で言った。食卓を家族で囲んでいるとき、僕は本当に幸せだった。手のなかからするすると逃れていったものを、再び掴んだような気がした。由希子とはまた違った感情の流れがそこにあった。懐かしく、温かく、そして眩しい太陽のひかりで刷新されていくような感触がいつの間にか僕の心に宿っていた。
 夜の八時になった。
「そろそろ帰るね」
「またね。今度は、さゆりちゃんも呼ぶから、三人で遊ぼうね!」
「楽しみにしておくよ」
「祐介さん、本当に今日はありがとうございました」母親は礼を言った。
「そんなに感謝しないでください、僕も楽しいんです。本当に」
「精神の病気は差別も多い。世間から白い目で見られることもある。我々家族だって、受け入れることにずいぶん時間がかかった。君は立派だよ」
「好きなんです、のぞみちゃんのことが」僕はそう述べると、ドアのノブをひねって、帰
路についた。
「ばいばい」のぞみは笑っていた。本当に、無邪気だった。帰り道で、僕は公園のベンチに座った。誰も人はいなかった。常夜灯のひかりがこうこうと輝いていて、公園を人工的な色合いに染めていた。さっき、ここでのぞみとキスをした。僕はその感触を昔の記憶と重ね合わせ、地面の土を眺めていた。自然と涙がこみあげてきた。何もかもが分からなくなっていた。どうして、こんなことが起きたのだろう、理不尽だった、納得がいかなかったし、沸々と怒りのようなものがこみあげてきた。
 毎日、神様に祈っている。のぞみの病気が治り、記憶が元に戻りますように、と。もし、記憶が戻って、病が治ったとしたら、僕はいったいどうするだろう? 由希子と別れるのか? 僕は首を振った。由希子とは別れたくなかった。
 ひとつの感情は、また違った感情のうねりを生み、結局、頭のなかはくしゃくしゃのままだった。のぞみは、今、本当に幸せなのだろうか。僕は自分の幸せが分からなくなっていた。