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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(9)

 

 

秋が終わり、冬がやってきた。十一月の初旬になった。岩崎と夏希は、仲良くやっていた。彼らと僕と由希子の四人で、ダブルデートに行ったりもした。由希子は製薬会社の仕事をこなしていた。帰りが遅くなることも多くなった。僕は料理の勉強を始めた。簡単な料理なら作ることができた。由希子は夜の十時過ぎに帰宅することもあったし、もっと遅くなることもあった。そんなに遅くまで、会社で何をやっているのだろうと不思議に思った。
 のぞみの家に遊びに行ったとき、さゆりがいた。三人で遊ぶ約束をしていたのだ。確かに美しい女の子だった。髪は短いが、黒々としていてつやがあり、両方の目が綺麗で印象的だった。話した感じも、特に障害があるとは分からなかったし、至って普通だ。僕たちはトランプゲームをした。スピード、神経衰弱、大富豪。楽しかった。さゆりは屈託なく、時折、笑顔を見せる。
「さゆりちゃんには、年上の恋人がいるんだよ。大阪に住んでいてなかなか会えないんだって」
「何歳くらいの?」
「三十五歳!」のぞみは嬉々として言った。「おじさんだよね、でも、かっこいいし、優しいんだって」
「学習塾の事務をしているのです、インターネットで知り合って。ほら、こういった病気の人って、なかなか友達ができないし、恋人はなおのことだから。良くインターネットで人とコミュニケーションをとっているんです。スカイプとか、ラインとかツイッターとか。メンタルの人々が集まったスカイプの会議に参加することもあります」
 さゆりは透明なアップルジュースを飲み、微かに笑った。
「友達が少ないの?」
「リアルでは」
「そうか。僕とも友達になろうよ。時々、遊びに行こうね」
「ありがとうございます」
「駄目だよ、いくらかわいいからって、さゆりちゃんを好きになっちゃ。ゆうすけおじちゃんには、のぞみがいるんだからね」
「お二人は付き合っているのですか?」彼女は驚いたような表情になった。
 僕が返答に迷っていると、のぞみが「うん! そうそう」と笑った。
「祐介さんは健常者ですよね? 健常者の恋人を見つけないのですか? 私の彼は軽度の障害を持っています。アスペルガー症候群です。塾の事務といっても、障害者枠です」
「健常者の恋人?」僕はその言葉を繰り返した。
「普通はそうしますよ」
「ゆうすけおじちゃんは浮気をしているの! 由希子っていう名前なんだって。私の方がかわいいんだよ、ほんと!」
「やっぱり、そうですよね」さゆりの言葉は、奇妙な質量を帯びて僕の心に溶けていった。
 のぞみは当然、僕の心の温度差に気付いていなかった。健常者の恋人を見つける? 僕はのぞみを障害者と思ったことは一度もない。のぞみだって自分のことをそんなふうには思っていないだろうが、現実には、障害者手帳を交付され、障害者年金を受給している。さゆりは、自分を障害者として強く意識している。二人の病気へのスタンスは違った。
 帰り道、僕はさゆりの言葉によって、様々なことを考えさせられたし、表現することのできない気持ちになった。新宿駅近くのスターバックスに寄って、スターバックスラテを注文し、雑誌を読んでいた。時刻は夜の八時だった。夏希から電話が入った。
「もしもし、祐介さんですか?」
「うん、どうしたの?」
「今、どこにいます?」夏希の声はいつもと違った。どことなく、切迫した雰囲気だ。
「新宿のスターバックス、雑誌を読んでいるよ」
「会いたいんです、今からそちらへ行っても構わないですか?」
「うん。良いよ。何分くらいで着く?」
「四十分くらいかな、待っていてくださいね」
 電話はふっつりと切れた。いったい、何の用だろう? 岩崎のことで相談があるのかな、とも思った。僕はレジへ行ってスターバックスラテをもう一度注文し、レシートを受け取った。おとぎ話に出てくるようなかわいらしいランプの下で、ドリンクが出てくるのを待った。ドリンクを受け取ると、テーブルにそれを置いた。煙草が吸いたかったので、喫煙所に行き、メビウスを一本吸った。
 席に戻ると、雑誌を眺めながら夏希を待った。店内は混み合っていた。夏希は予定より早く、スターバックスにやってきた。表情は浮かなかった。あまり、楽しくない話題なのかもしれない。
「お待たせしました、すいません、急に」
「良いよ。レジへ行ってきなよ。コーヒー代は奢るし」
「ありがとうございます」
 十分後に、彼女はドリンクを持って戻った。コートを脱ぎ、黒いセーター姿になった。首元には細い金色のネックレスが輝いている。
 僕はスターバックスラテを飲み、彼女の様子を伺っていた。彼女はプラダのハンドバッグから、何かを取り出した。写真だった。
「現像してきたんです、大変なことだと思って」
 僕はその写真を手に取った。スーツ姿の由希子と知らない男が腕を組んで映っている。男の容姿は、特段美男子というわけでもなかった。年齢は四十代くらいだろう。中年の男だ。僕は動転した。何なんだ、この男はいったい・・・・・・。
「由希子お姉ちゃん、最近帰りが遅かったりとかしないですか?」
 僕はしばらく経ってから、答えた。
「そうだね。十時、十一時を過ぎることもある。仕事だと言っていたよ」
「浮気をしているんです」彼女は重々しい口調で言った。
「まさか」
「お姉ちゃん、ホテルに入っていったんですよ、この男の人と」
 僕は絶句した。頭が真っ白になった。
「何かの見間違いだろう?」
「そうじゃないんです、だいたい妹なのに、見間違うわけがないです」夏希は、表情を消しながら言った。
「でも、どうして? 僕にいったい何の不満があるのだろう? 由希子はそんな女の子じゃなかった」
「その写真はあげます。お姉ちゃんと良く話し合ってください。私は将来、祐介さんと由希子お姉ちゃんは結婚すると思っているし、結婚には賛成です。だけど、別に男の人がいたとなったら、話は全然違ってきます。由希子お姉ちゃんはそんな人じゃありません。何か、理由があると思うのです」
 僕は呆然と、その写真を眺めていた。
「一週間ちょっと前に、渋谷の街を歩いていたら、偶然出会ったんです。由希子お姉ちゃんは私に気付かなかった。私が問い糾してみようとも思ったけど、祐介さんの方が良いかなと思って」
「ありがとう」
 彼女はドリンクを飲み干した。「それじゃ、私、帰りますね。ごちそうさま」
 僕は席に取り残された。いつか、由希子が涙を流しながら帰ってきた日を思い出した。お互いの秘密について、考えてみた。僕は席を立った。マンションに戻らなくてはならない。外に出ると、冷たい風は強く吹いていた。僕の足取りは重たかった。

 十二月になった。僕は由希子に問い糾すことがなかなかできなかった。彼女は相変わらず、遅くに帰ってくるし、休日はどこかに出かけることもあった。探偵事務所に依頼しようとも考えてみたが、気が進まなかった。僕は彼女がいないときに、その写真を眺めた。男はどこにでもいるようなサラリーマンで、由希子と腕を組んでいる。背景には渋谷のホテル街と無名の集合的な人々。僕は煙草を吸った。岩崎に相談しようとも思ったが、止めておいた。これは僕と由希子の問題なのだ。岩崎を巻き込むのは間違っている。彼も混乱するかもしれない。
 土曜日の朝だった。僕たちは久しぶりにデートへ行った。上野の美術館を回り、タイ料理のレストランでグリーンカレーのランチを食べ、ビールを飲んだ。由希子はいつになく
饒舌だった。明るかったし、綺麗だった。
 ブティックで買い物をして帰ってきた。彼女はたくさんの洋服を買った。製薬会社に入ってから、しばらくして金遣いが荒くなった。クレジットカードを使うようになり、病的に商品を購入した。洋服やアクセサリーが中心だった。いったいどこからそんなお金が出てくるのか不思議だったが、きっとスポンサーはあの男だろう。
 スーパーで買い物を済ませ、由希子は夕食の準備をした。包丁の音が、リズム良く耳に
届いた。僕はリビングで待っていた。香りが漂ってきた。
 静かだったので、音楽をかけた。僕は落ち着かなかった。じりじりと時間だけが経って
いく。
 意を決した。
「男がいるのか?」自分でも驚くぐらいスムーズに言うことができた。口にしてみると、あっけなかった。彼女は包丁を持つ手を止めた。ゆっくりと、僕の方を振り向いた。彼女の目には、何も浮かび上がってはいなかった。黒い瞳は蛍光灯のひかりを吸い込んでいる。茶色のエプロンを脱いだ。ガスコンロの火を消した。
「何も問い詰めようと思っているわけじゃないんだ・・・・・・。ただ、わけを知りたくて。僕
のことが嫌いなのか?」
 そうじゃないわ、と彼女は言った。目をうっすらと閉じていた。「そっか、知られたくない秘密だったんだけどな」
「夏希ちゃんが教えてくれたんだ。写真だってある」
「コーヒー、飲む?」
「うん」
 ティファールでお湯を沸かしているあいだ、僕たちは無言だった。由希子は微妙な表情を浮かべていた。僕は言葉が出てこなかった。彼女といったい何について、話をすれば良いのだろうか。分からなくなっていた。
 コーヒーを飲みながら、由希子はぽつりぽつりと話をした。相手は製薬会社専務の叔父の義理の弟で、同じ製薬会社の課長のポストに就き、妻子はあり、そして由希子との肉体関係はあった。僕は予想していたものの、事実として突きつけられると、吐きそうになった。嫉妬ではなかった。絶望でもなかった。ただ、黒い虚無がやってきた。
「叔父さんは知っているのか? このことを」
「知っているわ、不倫相手になることが、製薬会社の仕事を続ける条件だったの。最初は拒絶した。私には祐介いるし、無理な話だった。だけど、向こうはずいぶん私のことを気に入っていた。叔父は言った。私を仕事上、将来的に重要なポジションにつけるし、手間賃も与える。弟は君のことがとても好きなんだ。愛していると言っていた。手間賃はびっくりするくらいのお金だったけど、すぐに慣れていった。同時に、私の心は失われていったの、不倫をしていても何とも思わなくなっていった」
「あの日の涙は?」
 彼女はコーヒーをひとくち飲んだ。「初めて、抱かれたの・・・・・・。茫然自失で、涙が止まらなくて」
「馬鹿なことをしたね、本当に」
「私、変わったわよね。自分でも分からないの、止めることができないのよ。相手を愛しているのかもしれないと思うと、本当に自分のことが嫌になるの。私の心が暗い川のようにどこかに流れていく」
 僕は煙草に火を点けた。「君の言っていた秘密ってこのことかい?」
 彼女は肯定した。
「あなたの秘密っていったい何なの? 私は知りたい、フェアじゃないわ。時々、行き先も告げずに、どこへ行っているの?」
「分かった、話すよ」
 のぞみのことを初めてまともに話した。出会いや、愛の育み、突然の病気、記憶を失ったこと、一度は別れを告げたが、会い続けたことなど。今でものぞみとの日々を忘れることはできなかった。のぞみのことを愛しているのかもしれない、と最後に告げた。由希子は声をあげて、泣き始めた。胸が締め付けられる。鼓膜がぴりぴりと痛み、喉が渇く。大粒の涙が、流れていく。僕は黙って見ているしかなかった。
「お互い様じゃないの」
 僕は何も言わなかった。確かにその通りだ。
「少し考えさせて。あなたはファミリーレストランへ行って時間を潰してきて。十一時になったら、戻って来ても良いわよ」
 置き時計を見ると、八時二十五分だった。分かった、と僕は言って、靴を履いた。外の空気は、冷たかった。僕はできる限り、何も考えなかった。分からなかった。いろいろなことが、本当に分からなかった。
 ファミリーレストランから戻ってくると、由希子はいなかった。姿を消した。僕は電話をかけたが、彼女は電源を落としていた。部屋をあさってみると、彼女の通帳や印鑑が消えている。衣類などを持っていった形跡はなかった。僕は夏希に電話をして事情を説明した。彼女は心配してくれた。お姉ちゃんが連絡してきたら、すぐに知らせると言った。真夜中の街を探し歩きながら、僕たちはもう駄目かもしれないな、と思った。お互いの秘密は致命的だった。

由希子のいない生活は、寂しかった。冬の寒い時期だったし、渋谷の街はクリスマスムードで、赤や黄色の装飾がところせましと並んでいた。ネオンは輝き、イリュミネーションは鮮やかだった。仕方がなかった。由希子も悪かったし、僕も迂闊だったのだ。クリスマスには、のぞみの家でクリスマスパーティーを行った。母親が料理を作り、のぞみとさゆりは飾り付けをし、父親はクラシックギターでジョンレノンの『ハッピークリスマス』を弾いた。ギターの腕は見事なものだった。クラッカーが鳴り、ろうそくの炎が揺れ、のぞみがそれを吹き消した。僕はのぞみとさゆりにクリスマスプレゼントを渡した。のぞみにはティファニーのシルバーネックレスで、さゆりには小指にはめる指輪だった。二人とも喜んでいた。
 食卓にはチキン料理が並び、ムール貝と野菜のパエリアが色を添えた。料理はいつもながら美味しかった。のぞみの母親も料理が上手だった。僕はビールを飲み、料理を食べた。
「のぞみちゃん、今度僕のマンションで遊ばないかな?」
「どうして? いつも断っていたじゃん。それは、駄目だって」
 由希子はもう戻ってこないだろう。僕は笑顔を作った。
「祐介さん、確か由希子さんと同居しているんじゃ・・・・・・」
「事情があって、彼女は出て行ったんです」
「そっか」とのぞみは言った。「由希子さんとはもう付き合っていないの?」
「そうかもしれない」
「じゃ、今は恋人、私だけだね!」
「また、良い人見つかりますよ」母親は苦笑した。
「だから、のぞみがいるの!」のぞみは不満そうに言った。笑い合った。
食事が終わると、のぞみの部屋に行った。のぞみはトイレへ行くと言った。「先に、部屋
へ行っておいて」
さゆりと二人で、部屋に入った。
「あの、失礼かもしれませんが、本気でのぞみちゃんと付き合っていくのですか?」
「分からない。気持ちの整理がすぐにはつかないし、のぞみちゃんと付き合って良いのかも考えることができないよ」
「祐介さんはやっぱり健常者の人を恋人にしたいですよね」
「のぞみちゃんのことを障害者と思ってはいないんだ。そういった考え方はないな」
 さゆりは僕の目を見つめた。透き通るような純粋な目だった。
「だけど、私たちは障害者です。周りの目は、いつもそのようにあります。祐介さんみたいに、優しい人ばかりじゃないです、本当に」
僕は視線をそらした。
「辛いことが多いの?」
「とっても」と彼女は声に出して、言った。「結局、大阪の彼とは別れたんです。行き違いが多くて。年も離れていたし、難しかった」
「そうか」
「私たちはどこまでも孤独なんです、普通の人よりもずっと。抱えているものは重たいし、一緒に受け止めてくれる人は少なくて」
僕は何て言ったら良いのか分からなかった。
そのとき、のぞみが帰ってきた。
「たっだいま!」
「おかえり」さゆりと僕は言った。
「お正月に、遊びに行って良い? お年玉ちょうだいね、初詣行こうよ」
「うんうん、分かったよ」
「のぞみちゃん、一緒に折り紙しようよ」
「はーい、パンダさん作るね!」
 夕方になったので、僕はマンションに戻った。食事を作るのが面倒だったので、ファミリーレストランでハンバーグとサラダを食べた。ビールを飲み、ため息を付いた。由希子の不在は、鉛のように重たく、のしかかっていた。気をそらそうとしても、駄目だった。僕の傍には、常に由希子がいたから。
 ファミリーレストランを出て、しばらく歩いた。ショットバーで、ブランデーを注文した。入ったことのないショットバーだった。深い青の壁に、ダークレッドのカウンター、バーテンダーは若かった。僕と同い年くらいに見えた。金色の頭に、ピアスを身につけている。女性客がひとりいる。顔立ちは整っていて、ふっくらとしている。彼女も若そうだった。エナメルのバックがテーブルの上で輝いている。バーテンダー若い女性は仲良さそうに話をしている。いったい、何の話をしているのだろうか。
「良かったら、こっちに来て話しませんか?」と若い女性が言った。彼女はにっこりと笑
った。綺麗な女の子だった。
「お邪魔でしたら、すいません」バーテンダーは言った。
「邪魔じゃないよ、一人で退屈していたところなんだ」
 僕は立ち上がって、席を移動した。
「こんばんは。私の名前は、由里。年齢は秘密。仕事はオフィスレディー。丸の内で働いているの」
「僕は柏木祐介。この近くに住んでいるよ。品川でシステムエンジニアの仕事をしている」
「その哀愁漂う背中、さては、振られたわね?」
「そうだね、そのようなものだよ」僕は苦笑いをした。「彼女が出て行った。お互いに悪いことをしていたからね」
「そうですか」
「仕方ないわね」彼女はオレンジ色のアルコールが入ったカクテルグラスを傾けた。ルージュが怪しく輝く。「一人でいると、押しつぶされそうになるでしょう? 好きであればあるほどそうなのよね」
「柏木さんは、当店初めてですよね? ここは一人客が多いんです。あまりカップルとか
団体客は来ないので、安心していつでもいらしてください」
「すると、由里さんも独り身なの?」
「二十五年間、誰とも付き合ったことがないわ。あ、年齢がバレちゃった。好きになれないの、男の人を。どうしてかはよく分からない」
「一度も好きになったことがないの?」僕は驚いて訊いた。
「あるわよ。一人だけ。高校二年生のときだったわね、結局、恋は実らなかった。素敵な人だったわ、まるで一流ホテルのコンシェルジュみたいに、私に接してくれるの。私はバスケットボール部のマネージャーで、彼は部員でエースだった。ある事情で恋を諦めたときに、悟ったの。もう、他の人を好きになることはないなって。そういう感覚って分かる? この人以外には、興味がないというか、絶対にこの人じゃないと駄目。だけど、実らない
のよね。ついてないわ・・・・・・」
 彼女は大げさにため息をついた。少し酔っているみたいだった。頬が赤い。
「似たような経験をしてきたからね、よく分かるよ」と僕は言った。そして、ブランデー
に口をつけた。
「話してみて」
「長くなるから、止めておくよ」
「まあ良いわ、似たもの同士なのね」彼女は笑った。「続きを話して良いかしら?」
 僕は頷いた。
「グラスがあいているね、僕が奢るから何か飲みなよ」
 彼女はしばらく迷っていたが、カナディアンクラブのロックを注文した。バーテンダーは氷を用意し、グラスに入れ、その上にカナディアンクラブを注いだ。僕たちは、乾杯をした。店内は音楽が流れていた。コールドプレイの『イエロー』だった。
「理由があって、その人に恋をできなくなった。理由は何であるのかまでは、述べないけど、とにかく、恋をするわけにはいかなくなったの。私は、毎日夜になると涙を流したわ。すべてが終わってしまったような気分になった」
「私は、その理由を知っています。とても哀しいことだった」
 僕は何も言わなかった。ビールを注文し、ナッツを頼んだ。バーテンダーは、機敏に動作し、僕のテーブルにはそれらが並んだ。彼女は見計らったように、話を始めた。
「心のネジが飛んでしまったの、私の頭は崩壊寸前だった。精神科に連れて行かれ、何だったか病名を付けられて、薬が処方されたわ。薬は怖かった、自分が自分でなくなるような感じだった。私はますますふさぎ込むようになった。親も友人も、誰も私を救ってはくれなかった」
「薬を飲むのは大変だね、副作用もあるし」
「いろいろあって、今は持ち直している。薬は飲んでいないし、精神科には行っていない。時々、カウンセリングに通っている程度」
「持ち直したきっかけは何だったのだろう?」
「時間ね。膨大な時間を過ごしていくうちに、すり減っていた心がよみがえってきたの。少しずつ呼吸を始めた。動き出した」
「なるほど、僕にも時間が必要かもしれないね」
「時間は偉大ね、何もかもが過ぎ去っていくの」
 由里は銀色の腕時計を見て、しかめ面をした。「もう、こんな時間、行かなきゃ・・・・・・」
「短い時間だったけど、ありがとう」
「また、ここで会えると良いわね。週末には良くいるから、話そうよ」
 彼女は立ち上がると、会計を済ませた。そして、そそくさと出て行った。入れ替わりに、男性が一人入ってきた。初老の男だった。僕はこの男を見たことがあった。どこで会ったのかまでは思い出せなかった。彼は席に座ると、ヘネシーのロックを注文した。僕の方を一度見て、視線を外した。
 時間か、と僕は思った。由希子が出て行ってから、そう時間は経っていなかった。別れたと決まったわけではなかったが、時間の問題だろう。僕も悪かったし、由希子も悪かった。気持ちを切り替えなくてはならない。
「何か飲まれますか?」
「いや、もう帰るよ」
「チェックですね、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 会計を済ますと、僕は店を出た。アルコールはちっとも僕を癒してはくれなかった。余計に、僕の心は混乱していた。由希子とはこのまま終わるのだろうか。あっけないものだった。由希子との日々が、フィルムのように駆け巡った。僕は家路についた。クリスマスの夜は、寒かったし、イリュミネーションや飾り付けや音楽は他人のようだった。住宅街は暗がりだった。滑らかな闇が、広がっていた。マンションに辿り着いた。郵便受けに、手紙が入っていた。ライトブルーの便箋だ。裏には、由希子の名前が書いてあった。僕は部屋に戻ると、コーヒーを作った。酔いはまだ醒めていなかったし、落ち着きたい気分だった。手紙はテーブルの上に置いた。
コーヒーができあがったので、それをすすりながら、煙草を吸った。吸い終わると、ダイニングの椅子に座って、その手紙を読み始めた。
 祐介、突然出て行ってごめんなさい。そうするしかなかったの。そうしてしまうのが私としても一番楽だったし、あなたとしても前へ進めるだろうと思った。製薬会社には行かなかった方が良かったと後悔している。あなたと一緒に過ごしながらカフェ海音の店員を続けていたほうが、幸せだったと思う・・・・・・。あの会社はすぐに辞めたわ。不倫が露呈したの。これで私は社内にいることができなくなった。彼は火消しに必死だった。ずいぶんとお金をそのことに使っていたし、使おうとしていた。奥さんをなだめて、何とか離婚せずに済んだ。私には、一千万円の手切れ金を渡そうとした。あのバンドマンのように、お金を突き返そうかと思ったけど、結局、受け取った。私は確かに由希子じゃなくなっていた、変わってしまった。だから、あなたが知っている由希子、あなたが愛した由希子はもうこの世のどこにもいないわけ。それがこの手紙のひとつのポイント。夏希とも連絡を取らないことに決めたの。良くないことだから。今の私は、何をしたいのか分からない。ホテルを泊まり歩いている。転々としながら、自己を掘り下げていっている。このままじゃいけないんだ、何とかしなくちゃいけないんだって。だけど、心が奮い立たないの。ホテルの部屋のふかふかのベッドの上で、正座をしながら、瞑想のようなものをしている。祐介との日々を思い出し、ため息をついている。アルコールはしばらくとっていない。アルコールを飲むと、もっと精神が下降していくような気がするから。そして、こんな生活は長く続けることができないのは分かっている。だけど、いったい、何をして良いのか、本当に分からないの。
別れましょう、私たち。それが一番正しいと思う。どうしようもなかったのよ。部屋の荷物は置いていって悪かったけど、今更、引き取りに行くわけにもいかないから、夏希にプレゼントしてあげて。夏希が要らないと言ったものは、業者を使って、処分して。
最後に、のぞみさんのこと。私は彼女のことを悪く思っていないわ・・・・・・。不幸だったし、不運だった。のぞみさんは記憶を失い、障害を持っているかもしれないけど、きっと守ってあげるのは祐介しかいないし、彼女もそれを願っている。かつて、結婚の約束をしていたんでしょう? 結婚してあげたら良いんじゃないかしら? だって、好きなんでしょう、愛しているんでしょう? あなたとのぞみさんなら新婚生活を楽しく、過ごすことができると思う。 祐介、今までありがとう。本当にありがとう。そして、さようなら。
 僕はその手紙を二度、読み直し便箋に仕舞った。由希子の言葉は、深く心に刺さった。僕はのぞみのことが好きだったと思っていた。いや、違った。のぞみのことがずっと好きなのだ。現在進行形で、彼女のことを愛している。僕は心に決めた。
 僕は夏希に電話をして、由希子から手紙があり、僕たちは正式に別れたことを告げ、それから荷物を取りに来て欲しいと言った。
「今、岩崎さんと渋谷にいるんです。とりあえず、そちらに伺っても良いですか? 荷物を引き取りに行くのは、また後日調整します」
「どのくらい時間がかかる?」
「二十分くらいかな」
 僕は部屋の掃除をしながら、彼女たちを待った。キッチンを片付け、グラスを洗い、掃除機をかけ、テーブルを布で拭いた。チャイムが鳴った。
「はい」
「夏希です」
 僕はドアを開けた。「入って」
「お邪魔します」
 僕は由希子の手紙をまず夏希に見せ、それから岩崎に見せた。彼女たちはしばらく言葉を発しなかった。表情には、微妙な影があった。
「ホテルを転々としていたら、居所が分からないですね」
「お前たち、本当に別れたんだな。事情は夏希ちゃんから聞いていたよ、もったいないことをしたね。ところで、のぞみさんというのはどういう女性なんだ? 記憶を失い、とか手紙には書いてあったが」
 僕は時間をかけて、のぞみのことを説明した。彼女たちは神妙な表情で僕の話を聞いていた。
「要するに、恋人が統合失調症にかかって、記憶を失い、小学校中学年程度の知能になった。一端別れたものの、忘れられないまま、由希子さんと付き合っていたわけか? しかも、ちょくちょくのぞみさんと会っていた」
「その通りだね」僕はため息をついた。
「由希子さんも悪かったけど、柏木はもっと悪いな・・・・・・。由希子さんの気持ちを踏みにじったわけだ」
「終わったことだから、もう仕方ないですよ」
「のぞみさんと付き合っていくしかないね。結婚したらどうだ? 俺は式には行かないけどね」
 僕は黙っていた。うまく答えることができなかった。
「だって、障害者だろう?」岩崎は切って捨てるように言った。僕は気がつくと、岩崎の頬を思い切り、殴っていた。岩崎は頬を抑えながら、倒れた。大きな音がした。鼓膜に響いた。右の拳が酷く痛んだ。人を殴ったのは、初めての経験だった。
「お前に何が分かるんだよ! 帰れ!」
 彼の鞄を玄関に放り投げた。岩崎は、尻もちをつきながら呆然としている。夏希は、身動きひとつしなかった。
「柏木、俺が悪かった。この通りだ、許してくれ。不適切な発言だった」
「のぞみが記憶を失ってから、ずっと僕の心は震えて、混乱しているんだ。殴って申し訳なかった。ひとりでいたいから、とりあえず、今夜は帰ってくれないか? 夏希ちゃんは荷物をどうする?」
「高価そうなバッグとかアクセサリーばかりだから、売ったらけっこうなお金になるんじゃないかしら? 祐介さんが売ったら良いです。私は必要ない。売ったお金は祐介さんが使って良いと思います」
 彼女たちは帰りの支度を始めた。靴を履いて、夏樹は振り向いた。「由希子お姉ちゃんと祐介さんお似合いだったし、絶対に結婚すると思っていたの。残念でした」
 僕はソファに身を沈めた。明かりをつけたまま、目を閉じた。眠りはやってこなかった。眠りたくないのだ。ただ、何もする気が起きなかった。僕は部屋のなかで、ぼうっと過ごしていた。朝が来るのをじっと待った。朝が来ても、何も変わらないというのに。
 由希子の衣服やバッグ、アクセサリーはすべて売った。夏希が言った通り、けっこうな金額になった。僕は定期預金の口座を作って、そのままそっくり放り込んだ。土曜日に、先日のバーへ行った。由里が座っていた。時刻は七時半くらいだった。客はほかにいなかった。
 僕は由里に挨拶すると、ビールを注文した。彼女は青い色のカクテルを飲んでいる。グリーンのセーターに、この前と同じ銀色の腕時計を身につけていた。胸元に、ネックレスがひかっている。
「祐介さん、また会ったわね。ここの店が気に入ったの?」
「そうだね」
「過ごしやすいところよ、ここ」
「ありがとうございます」バーテンダーはそう言って、ビールをコースターの上に置いた。僕たちは乾杯をした。
「なにか進展があったの?」
「恋人と正式に別れたんだ」
「辛い?」
「とっても」僕は目立たないようにため息をついた。
 彼女は微笑み、僕の視線を受け止めた。
「私はもう傷つきたくないから、恋することを止めたんだ。あなたはこれからどうするの?」
「好きな女性がいる」
「すると、前に進むわけね。それが良いわよ。景色が変わっていくと思う」
「だが、頭のなかが酷く混乱している」
「分かるわよ、それ」
 彼女はシガーケースから煙草を取り出した。ピンク色の細長い煙草だった。それに火を点けて、煙を吸って吐き出した。
「その、今好きな女性に求めているものっていったい何かしら? 安らぎ、幸福、いろいろとあるけど」
 僕はそれについて、少しばかり考えてみた。
「分からない、ただ、どうしようもなく、惹き付けられるんだ」
「あなたはきっと正しいのよ、正しい道を歩もうとしている。羨ましいな、私は前に進むことを止めてしまったから・・・・・・」
 彼女はブラッディ・メアリを注文した。バーテンダーはカクテルを作った。店内にはフィオナ・アップルの『クリミナル』が流れている。
 しばらく何も話さなかった。彼女は酒を楽しんでいるようだったし、僕は考えがまとまらなかった。ビールを飲み干すと、ブランデーを注文した。彼女はバーテンダーと談笑を始めた。僕はその話題に加わらなかった。静かな時の流れだった。アルコールのせいもあって、リラックスし始めていた。時刻は夜の九時だった。
「私は、これから人と会うから店を出るわね、お話しできて楽しかったわ」
「ありがとう」
「それじゃ」彼女は手を振った。
 僕はブランデーを三杯飲んだ。バーテンダーはサッカーの中継を眺めている。静かで、落ち着くことができる店だ。
「気に入って頂けましたか、このお店は?」
「リラックスできるし、お酒は美味しい。雰囲気も好きだよ」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです」
 時間が徐々に過ぎ去っていく。九時半になった。僕は席を立って、勘定を払った。外に出ると、冷たい空気が流れていた。月は空の上に隠れ、透明な風が強く吹いている。由希子は今頃いったい、どこにいるのだろうか、と僕は思った。