昨日を愛した僕の理由
目まぐるしく進み続ける時間に対し、僕は畏敬の念を持った。その最中に、昨日の出来事はより鮮明になった。僕は昨日という時間を思い起こし、一息ついた。
昨日、僕は美術館にいた。印象派の展覧会だった。マルク・シャガールやアメディオ・モディリアーニの絵を眺めていた。すると、僕の前の女性は気難しそうに絵を見つめ、ため息をついた。女性は若く、美しかった。二十代の後半くらいだった。僕は彼女の顔を覗き込み、「どうかしましたか?」と尋ねた。彼女は軽く咳ばらいをすると、僕の目を見た。
「私は元画家です」と彼女は言った。「大学は美大に進み、コンクールで大賞を受けたこともあります。しかし、ある日、どうしても描くことが出来なくなったんです。理由はよく分かりません」
僕は黙っていた。
「二十三の時に、筆を折りました。以降、美術館を巡っているんです。失った魂を取り戻すために」
「失った魂を取り戻すために?」僕は驚いて訊いた。
彼女はゆっくりと頷いた。
僕たちは知り合ったしるしに、美術館を出るとカフェに行った。彼女はアイスミルクとクロワッサンを頼み、僕はブレンドコーヒーを注文した。美術館の近くにある静かなカフェだ。客は少なかった。
「美術館にはよくいらっしゃるのですか?」と彼女は訊いた。
「月に一度くらい」と僕は返事をした。
「私は毎週のように通っています。マルク・シャガールの遍歴を追っているのです。彼の幻想性は、長いあいだ私を支配しています」
僕は頷いた。
「描くことが出来なくなり、その美術館通いの傾向は顕著になったのです。幻想を追い求める自身に、ある日、光は射しました。しかし、現実は幻想を駆逐します。往々にあるように」
僕はブレンドコーヒーを飲み、煙草を一本吸った。
「印象派の展覧会が始まると、私は毎週末行きました。そこに、私の欠片があると思った。私はそのピースを重ね合わせるまで、展覧会に行き続けるでしょうね」
彼女はインテリア・デザインの仕事をしているし、そこに油絵の要素はなかった。僕はどうして彼女が絵を描くことが出来なくなったのか、考えた。才能の消失かもしれないし、機会の損失かもしれない。しばらくすると、彼女は僕の職業を訊いた。僕は学校の教師だと返事をした。そこで会話が終わり、散会した。
僕は家に戻ると、彼女の眩しい笑顔を思い出した。失った魂を取り戻すために、彼女は美術館に足しげく通っている。僕は自身の魂を確認した。僕の魂は機能性を有し、動作をしている。僕はそのことに安心し、眠りについた。浅い眠りだった。いくつかの夢を見た。朝、目覚めると、僕はその女性のことを思い出した。