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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(終章)

正月、元旦の日の朝早くに、僕はのぞみを迎えに行った。玄関先でのぞみの母親と父親に挨拶をした。父親はにこやかに笑い、「娘とのデート、よろしく頼む」と言った。僕はのぞみにお年玉を渡した。三万円を入れておいた。のぞみにとって大金だったが、構わないだろうと思った。彼女は嬉しそうに、笑った。「これで、新しいゲームと漫画が買える!」とはしゃいでいた。
 電車のなかで僕たちは並んで座った。のぞみはにこにこしている。今日は太陽の日差しがちょうど良い加減で、窓から射し込んでいる。快晴だった。
「まずは、初詣に行くのよね?」
「そうそう。それから、どこかでランチを食べて、ゲームセンターへ行って、カラオケへ行って、僕のマンションへ行く」
「どんなお部屋なの?」
「熱帯魚がいる。ネオンテトラディスカスという魚」
「おさかなさんがいるんだ。楽しみ!」
 彼女は僕の肩にもたれた。
「ねえ、いつ私たち結婚するの? ゆうすけおじちゃんと結婚したいよ・・・・・・」彼女は甘えた口調になった。
「のぞみさえ良ければ、いつでもするよ」と僕ははっきり言った。
 彼女は目をぱちくりさせて、僕を見た。
「え?」
「だから、結婚するって言ったんだ」
「本当に?」
「うん」
 彼女は僕の手を握りしめた。僕にもう迷いはなかった。最初からそうするべきだったのだ。
「のぞみ、嬉しい!!!」彼女は更に身体を密着させた。
「落ち着いて・・・・・・」
「はーい」
 明治神宮で参拝をし、ファミリーレストランでランチを食べて、ゲームセンターへ行き、カラオケ屋で二時間歌った。そして、僕のマンションに戻ったときは、夕暮れだった。太陽の赤いひかりが、束となって窓から入ってくる。のぞみはじっと熱帯魚が入っている水槽を眺めていた。彼女は魚が好きなのだ。由希子の荷物を処分したせいで、部屋はぽっかりと穴が開いたように、空間が浮かびあがっている。
「ずいぶん、広い部屋だね。結婚したら、のぞみはここに住んで良いの?」
「うん。そうだね。その前に、のぞみちゃんのパパとママにご挨拶をしないとね」
「絶対、反対しないと思う。だって、のぞみとゆうすけおじちゃんは元々結婚を約束していたし、日頃からゆうすけおじちゃんの話になると、パパとママはいつも笑顔になるもの」
 僕はグラスにコカコーラを注いだ。のぞみはコカコーラを飲み、笑った。「結婚式がしたい、ウェディングドレスを着たい、子供が欲しい、子供は女の子でもう名前は決めてあるの」
「何て名前なの?」
「まだ教えない!」
 帰りの電車のなかで、はしゃぎ疲れたのかのぞみは眠っていた。よほど嬉しかったのか、笑顔だった。かわいらしい笑顔だ。
 のぞみの家に着いたころには、周囲は真っ暗だった。母親が出迎えた。紅茶の準備が整っていた。父親は新聞を読みながら、テレビのチャンネルを変えている。
「楽しかったかね? 明治神宮は人が凄かっただろう? お疲れ様」
「のぞみ、ゆうすけおじちゃんと結婚するんだよ! 今日、プロポーズされたの!」
「結婚?」父親も母親も、きょとんとした顔をしている。何を言っているのか分からないといった表情だ。「冗談だろ? まったく祐介君は、のぞみに期待を持たせちゃ駄目だよ」
父親は苦笑した。
「本気なんです」僕はちからを込めて、言った。「のぞみさんと結婚させてください。必ず、幸せにしてみせます」
 リビングはしんとなった。
「私としては嬉しいが、本当にのぞみで良いのかね? のぞみは家事もできなければ、料理もできないし、仕事はもちろん不可能だ。子供だって、服薬の影響があるから、作るのは困難だろう、つまり、君に負担がかかりすぎると思うのだが。病が再発するリスクもある」
「子供は作るもん!」のぞみは頬を膨らませた。
「分かっています、だけどのぞみさんが良いんです。僕はやはりのぞみさんが好きです。
愛しています」
「祐介君なら、安心してのぞみを任すことができるよ。私は結婚に賛成だ。お母さんは?」
「祐介さんしかいないと思うわ」
「わーい、晴れて夫婦だね」
「ありがとうございます」
「結婚式の費用は私たちで出そう。のぞみのために貯めていたお金があるんだ。もっとも、のぞみは友達がほとんどいないから、親戚のみを集めた小さな結婚式になるだろうがね。嬉しいよ、本当にありがとう。何から何まで」
「ずっと前から、祐介さんは家族みたいなものだったから」
「本当の家族になるんだよ!」のぞみは嬉々としていた。
「祐介君の両親に、あらためてご挨拶しないとな」
「式は春頃で良いんじゃないかしら?」
「お姉ちゃん、おめでとう」弟は笑った。
「のぞみ、お料理にお洗濯に頑張るね! よろしくお願いします」彼女は礼儀正しく、頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」僕は丁寧に言った。そして、笑った。
 その日の深夜、僕は実家に電話をした。父親が出た。僕はのぞみと結婚したいということを告げた。彼はしばらく言葉を選んでいたが、反対はしなかった。母親も同様だった。
時刻は夜の十一時を過ぎていた。窓の外を見ると、雨が降っていた。その雨は、由希子と出会ったときの雨に似ていた。執拗で、激しく降り注ぐ雨だった。
 恵比寿のレストランで、両家の顔合わせがあった。と言っても、お互いに良く知っている。僕の両親はのぞみが病気になって以後、彼女の両親とは会っていなかった。僕の父親は中学校の社会の教師で、母親は小学校の先生だった。だから、障害についてはある程度寛容であり、理解があった。ADHD学習障害の子供を受け持ったこともあった。両親はまったく反対しなかった。むしろ、喜ばしいことだと思っているみたいだった。
 のぞみは終始にこやかだ。料理を楽しみ、珍しく酒を飲んだ。僕は胸をなで下ろした。
「祐介君、のぞみをどうかよろしく頼みます」父親は言った。
「頼みます!」のぞみは笑った。
 二月になると、のぞみは僕のマンションに引っ越してきた。デイケアは遠くなるので、やめた。のぞみの荷物はそれほどたくさんなかった。ぬいぐるみやゲーム、漫画に衣類、幾つかのアクセサリー。家具が不足していたため、ロフトで買った。のぞみは料理がしたいと言っていたので、新しくフライパンや鍋を揃えた。エンゲージリングを買った。プラチナの指輪でサファイアをあしらったものだった。のぞみはとても喜び、気に入っていた。住民票を移し、婚姻届けを出し、府中の病院から渋谷のクリニックに病院を変更した。土曜日の診察も行っているところで、三十代前半くらいの男性が医者だった。国立大学の医学部を卒業しているということだった。
「子供を作っても良いものでしょうか?」
 僕はおそるおそる尋ねた。
 医者はくぐもった声で、答えた。
「のぞみさんが今、飲んでいる薬のなかには、胎児に悪影響を及ぼすものがあります。つまり、障害を持ったお子様が生まれる可能性は一般の女性より、ぐんとあがります。諦めた方が良いでしょうね」
「のぞみ、赤ちゃんが欲しいよ」
「申し訳ないですが、何とも言えません」
「分かりました」
 診察室を出て、肩を落としたのぞみを僕は慰めた。薬局で大量の薬をもらった。統合失調症の薬に、気分安定剤睡眠薬、頓服の液体の薬。のぞみは何だか元気がなかった。医者の言葉がショックだったのだろう。僕たちは薬局を出ると、カフェへ行った。僕はホットコーヒーを注文し、彼女はメロンソーダを頼んだ。
「来週は、結婚式場を見に行くよ」僕は明るい声で言った。
「うん。素敵な教会で結婚式がしたいの。カメラマンにいっぱい写真を撮って貰って、ウェディングドレスは真っ白で綺麗なものを着て」
 のぞみはようやく笑った。
 予定通り、結婚式は親戚縁者だけで行うことになった。四月の日曜日に、横浜の教会で式を挙げた。海が一望できる、のぞみが希望した素敵な教会だった。彼女のウェディングドレス姿は、荘厳だった。美しいという言葉を超えて、まったく違う何かを彼女の魂に吹き込んでいた。誓いの言葉を述べ、誓いのサインを行い、誓いのキスを交わした。彼女の唇は、しっとりとしていて、温かだった。僕は不思議と緊張していなかった。彼女の左手の薬指に輝く指輪のひかりをずっと受け止めていた。
 レストランでの披露宴が終わり、僕たちは着替えて帰路についた。のぞみは疲れているようだったが、顔には出さなかった。
「夫婦」と彼女は言った。
「夫婦だね」僕は笑った。そして、キスを交わした。お互いの表情を確かめると、もう一度
キスをした。
のぞみは新妻として、文字通り奮闘していた。朝は卵焼きを作ったり、味噌汁を作ったりして、料理をした。スパゲティなど簡単なものは大丈夫だったが、失敗も良くあった。焼きすぎたり、辛かったり、甘すぎたりと失敗しても、僕は笑顔を作り、食べた。
掃除や洗濯は頑張っていたが、やはり由希子のようにはいかなかった。のぞみなりに、頑張ってやっていた。家事はもちろん僕も手伝った。熱帯魚だけでは寂しかったので、オカメインコを一羽買った。雄だったようで、頬は鮮やかな黄色を帯び始め、機嫌が良いと歌を歌った。のぞみはドラえもんの歌を毎日教えていた。オカメインコの名前は、こなつと名付けた。こなつは羽を切っていなかったので、部屋じゅう飛び回った。籠に入れると、ピーピー鳴いてうるさかった。のぞみはずいぶん、こなつと仲良くなり、気に入っていた。こなつものぞみに良く懐いていた。
 夏には、新婚旅行として伊豆に行った。知り合いのつてだった。快適に泊まることができるペンションで、五十代の夫妻が経営していた。料理も美味しいらしいし、温泉もあった。本当は海外でも良かったのだが、のぞみは病気を抱えていたし、海外でトラブルがあっては困る。彼女は温泉に浸かりたいと希望したので、伊豆のペンションになった。
 夕食は、スズキのパイ包み焼きや、サーロインのステーキ、サラダにコーンスープ、フランスパンといったものだったが、とても美味しかった。昼間のうちに、海水浴を楽しみ、僕たちは少し疲れていた。
露天風呂に入り、テラスで読書をした。のぞみは、テレビを眺めていた。幸せだった。
星はところどころ、輝きを放っていた。月が雲のあいだに隠れ、辺りは薄暗かった。本を
閉じた。時計を見ると、夜の十時だった。僕はのぞみに、寝る前の薬と睡眠薬を飲ませた。
「おやすみなさい」と僕は言った。
「おやすみ、ゆうすけおじちゃん」
 結婚してからも、彼女は僕のことをゆうすけおじちゃんと呼んだ。癖が抜けないらしかった。僕にはそのことがおかしかった。僕は自動販売機でビールを買うと、ダイニングで飲んだ。静かだった。虫の鳴き声が、外から響いていた。
 夏希とは連絡をとっていなかった。彼女と何を話せば良いのか分からなかった。岩崎は、仲良く夏希と付き合っている。彼とも、あの一件以降、どことなく距離があいてしまっていた。仕事が終わって、飲みに行くこともなくなった。話すこともなく、目を合わすこともなかった。
 時々、あのバーへ行くが、由里とはどういうわけか会わなかった。彼女はいったいどこへ行ってしまったのだろう。そして、由希子は今頃いったい何をしているのだろうか。僕はビールを飲み干した。部屋に戻った。のぞみは寝息を立てていた。彼女は孤独じゃないのだろうか・・・・・・。
 僕は少しずつ孤独になっていた。孤独にさいなまれていったと言っても良かった。のぞみがいるというのに、どうしてこんな気持ちを抱くのだろう。僕が望んだ生活だった。あらゆるものが、前進をゆっくりと停止し、留まっている。まるで、まどろみのなかにいるみたいだ。
「神様」と僕は口にした。そして、眠りについた。

さゆりは時々、僕たちのマンションまで遊びにきた。彼女がやってくると、のぞみは明るくなり、嬉しそうだった。デイケアでのぞみがいないから、寂しいとかそういったことを言った。僕たちはトランプをしたり、カラオケに行ったり、ファミリーレストランで夕食をとったりした。
「お二人とも、幸せそうで何よりです、羨ましいです本当に」
「毎日楽しいんだよ。ゆうすけおじちゃんがお仕事行っているあいだは、ちょっと寂しいけど、こなつちゃんと遊んでいるから!」
「できるだけ早く帰ってくるようにしているんだけどね。料理は少しずつ上手くなっているし、結婚して良かったよ」
「でも、のぞみ、子供が欲しいな・・・・・・」
僕は黙った。のぞみは寂しそうな目をした。
「どうして、私たちはこんなにも不完全なんでしょうね?」とさゆりが言った。とても小さな声だったが、きっぱりとした口調だった。
「不完全?」僕は訊いた。
「私の飲んでいる薬のひとつはコンサータと呼ばれています。知っていますか?」
知らない、と僕は言った。
「簡単に言うと、覚醒剤みたいなものです」重々しい言葉だった。「のぞみさんが飲んでいる薬のなかには、劇薬指定のものがあります。抗精神薬は、本当に危ういのです。ベンゾゼアゼピン系睡眠薬サイレースアメリカでは所持しているだけで逮捕されます。ハルシオンは全英やブラジルで禁止され、ジプレキサアメリカで薬害の大規模な裁判となり原告が勝訴しています。すべて、のぞみさんが飲んでいる薬です・・・・・・。もし祐介さんがのぞみさんの立場となったら、飲みたいですか? 毎日気持ち良く飲み続けることができますか?」
 僕は何も言えなかった。さゆりは続けた。「統合失調症の患者の平均寿命は六十歳です。また、精神障害の患者は全国に四百万人いて、働いているのはわずか五万人です。知っていましたか?」
 僕は首を横に振った。
「祐介さんは理解がある人だと思います。優しいし、本当にのぞみさんのことを愛している。だけど、その理解を超える日がやってくる可能性もあるのです」
 さゆりを駅まで送り、マンションに戻った。のぞみはシャワーを浴びていた。シャワーの音は、リビングまで届いていた。僕はさゆりの言葉をひとつひとつ点検していた。理解とはいったい何だろうか・・・・・・。僕は本当にのぞみのことを理解していると言えるのだろうか。
 そして、その日がやってきた。

 十二月の冷たい朝だった。その日、目が覚めると、のぞみはリビングにいた。珍しく、朝食の準備はしていなかった。仕事に行かなくてはいけないので、僕は仕方なく、レトルトの食品を温めて、食べた。コーヒーは自分で作った。
のぞみはひたすらテレビを見つめていた。ニュース番組だった。朝のニュース。交通渋滞が首都高であり、北海道地方で強い揺れの地震があった。大阪の地下鉄で人身事故があり、電車が停まっていた。政治家の政治的混迷が報道され、女性のキャスターは厳しい口調で、糾弾していた。
「会社は怖い人でいっぱいだから、お仕事は休んだ方が良いわ」
「怖い人?」
「マフィア」
 何を言っているのか分からなかった。冗談を言っているのだと思った。
「のぞみ、そういうわけにはいかないんだよ。ズル休みすると、クビになっちゃうからね」
 彼女はニュースを凝視していた。普段、アニメとか子供向け番組しか興味がないのに、おかしな様子だった。僕は首を傾げた。彼女はそれ以上、何も言わなかった。胸騒ぎがあったけども、会社に行った。
 午前中の仕事が終わり、昼ご飯を食べた。同じチームの同僚と食べていた。喫煙所で
煙草を吸い、席に戻った。十二時五十分だった。電話が入った。のぞみだった。
「はい」
「盗聴器が仕かけられているの、家にいたくない・・・・・・」彼女の声は震えていた。
「ちょっと待ってくれ。今日は何だかおかしいよ、変だ。調子が悪いのなら、一緒にお医者様のところに・・・・・・」
「私はもう普通の女の子なの! お医者様のところになんか行かない!」
 電話が切れた。彼女の言葉は、しばらく耳に留まっていた。僕は部長に言って、会社を早退した。タクシーに乗って、自宅に向かった。何度かけても、のぞみは電話に出なかった。ラインでメッセージを送ってみたが、未読のままだった。
 マンションに戻った。僕は目を疑った。カーテンは切り裂かれ、観葉植物の鉢は逆さまになり、ベッドの上には包丁が転がっていた。のぞみはどこにもいなかった。僕は彼女が使っている引き出しを開けた。すると、大量の処方薬が出てきた。彼女は薬を飲んでいなかったのだ。いったい、いつからだろうか。僕はさゆりの言葉を思い出していた。のぞみが飲んでいる薬のなかには、海外では取り扱い禁止となっているものもあった。薬害裁判となったものもあった。のぞみは辛かったのだ、薬を飲み続けることが。何より、子供が欲しかったのだろう。愕然となった。膝が震えた。僕は深呼吸を何度か行った、落ち着く必要があった。 僕はのぞみの父親に電話をした。彼は行方を知らなかった。僕はさゆりに電話をした。さゆりも行方を知らなかった。僕は警察署へ行って、事情を話し、捜索願を出した。女性の若い警察官は親身になって、話を聞いてくれた。僕は、ほとんど泣きそうになっていた。会社に電話をし、説明した。しばらくの休みをもらった。クリニックに電話をし、医者につないでもらった。
「入院ということになるでしょうね、在宅医療では難しいでしょう。易怒性と言って、怒りやすくなっているのかもしれないですし、幻覚を見て、幻聴があるでしょうね。府中の病院に空きベッドがあるか確認をとった方が良いです」
 僕はその通りにした。空きベッドはあった。入院? 頭が真っ白になった。僕は言葉を失った。夜の十一時過ぎまで、警察署にいた。若い女性警察官はずっと付き添ってくれた。中年の男性警察官は、心配そうな表情を浮かべた。親子丼を差し入れされたが、ほとんど食べることができなかった。
「居所が分かりましたら、すぐにお知らせします」と彼らは言った。僕はマンションに戻った。明かりがついていた。ドアが開いていた。リビングにのぞみがいた。彼女は何をするわけでもなく、ぼんやりと白い壁を見つめていた。
「心配したよ」
「ごめんなさい」いつもののぞみの声と表情だったので、ほっとした。
「明日、病院へ行こう、薬を飲んでいなかったんだね?」
 彼女は返事をしなかった。
「責めたりはしないよ」
「私のことを愛している?」
「うん」
「薬はもう飲みたくないの、朝は酷かったけど今は落ち着いているし」
「のぞみ・・・・・・」僕はどうして良いのか分からなくなった。彼女は涙を流していた。うっすらとした涙は、静かに流れ落ちた。
「とにかく、今日は寝なさい」
「分かった」
 僕はのぞみの父親に電話をした。彼は知らせを聞いて、安堵した。病院には連れて行った方が良いと主張した。僕も同じ意見だった。さゆりに電話し、警察署に電話をした。のぞみはベッドのなかで、すやすやと眠っている。
 翌日、のぞみはまた不安定になった。電波がどうのとか、金星人がどうとか、いろいろなことを言い始めた。彼女は深く混乱していたし、叫び回った。興奮状態だった。僕は警察に事情を説明し、府中の病院までパトカーで運んでもらうようにお願いした。のぞみはパトカーが病院に向かっていることを知ると、泣き叫んだ。その悲痛な声は、鼓膜にこびりついた。
 入院の手続きを行った。医者曰く、入院期間は三ヶ月間の見込みですが、退院時期は今のところ未定とのことだった。
「薬を飲み続けることが難しいのであれば、注射などいかがですかね?」と医者は僕に言
った。
「注射ですか?」
リスパダール・コンスタ、ゼプリオンなど統合失調症患者向けの注射が開発されていま
す。ゼプリオンは一ヶ月に一回、通院の際に打つだけで良いですし、お勧めです。インヴ
ェガの注射版です」
「少し、考えさせてください」
 僕は医者の顔を見た。彼は、まだ若そうだった。
「薬を止める方法はないのですか?」
 医者は目を細めた。僕をじっと見つめた。
「すべての薬をですか?」
「はい」
「飲み薬を止めて、注射もせずに、睡眠薬まで飲まずに日々を暮らすということですか?」
「そうです」
 彼は困ったような顔をした。「わずかの患者さんは薬を止めても、寛解状態を維持することができます。しかし、ほんの一握りです。のぞみさんの場合、無理です。不可能ですね。症状は再発しています。今回、自己判断で断薬しましたが、本来は危険なことです。命を落とすことになってもおかしくない。この病気は、薬とうまく付き合っていくことが大事なんです、ご理解ください」
 僕は何も言えなかった。
 マンションに戻ると、より寂しさが増した。病院は携帯電話が持ち込み禁止で、のぞみとは連絡が取れないし、そもそも備え付けの電話は許可をもらっていない。許可が出るのは、彼女の精神状態がもっと良くなってからだろう。僕はとりあえず、部屋の片付けを始めた。片付けが終わると、風呂に入った。アルコールをとる気にはなれなかったので、コカコーラを飲み、椅子に座った。
 のぞみだって戦っているのだ、と僕は思った。

毎週、土曜日の昼間には必ず面会に行った。冷たい雨の日も、もっと酷い天気のときも必ず行った。のぞみは、ほとんど言葉を口にしなかった。表情が奇妙に平板だった。だから、僕が一方的に話をした。感情鈍麻というらしかった。以前の明るかったのぞみに戻って欲しい。僕は切に願っていた。
 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。彼女は少しずつ、笑うようになった。僕の話が特段、面白いというわけじゃないのに、彼女は僕の姿を認めると、笑みをこぼす。僕は嬉しかった。少しずつ、声を出すようになった。話をぽつりぽつりとすることもあった。状態が良くなったので、彼女は大部屋に移った。三ヶ月が経過していた。
「そろそろ、外泊を許可しても良いです。受け入れの準備は大丈夫ですか?」と医者が言った。「精神状態は良好です。外泊が成功すれば、退院を許可しましょう」
「ありがとうございます。それでは、来週の土曜日に迎えに来ます。午後の一時くらいです」
「分かりました。看護師に伝えておきます」
 僕は胸が高鳴った。これ以上、嬉しいことはなかった。のぞみがもうすぐ退院できる。僕はのぞみの父親に電話をした。彼も喜んでいた。「このたびは、娘がご迷惑をかけて、本
当に申し訳がなかった」と詫びた。
「いいえ、僕こそ分かってあげることができていなかった、理解が足りなかったと思います」
「祐介君は、十分に理解しているし、立派な夫だと思うよ」
「同じ病を抱えた者同士じゃないと、たぶん理解なんてできないんです。いや、それでも
理解にはほど遠いかもしれない」
「なるほどね」
「退院したら、パーティーをしませんか? そちらまでお連れします」
「ああ。ありがとう。お母さんにも伝えておくよ」
 外泊の日、のぞみはテンションが高かった。もう、元通りだ。あと、一息だった。僕は彼女とリビングで時間を過ごした。映画のDVDを二本観た。アニメの映画だった。のぞみは笑顔で、アニメを眺めていた。彼女の手は、僕の手を握っていた。夕方にはファミリーレストランへ行って、夕食を食べた。のぞみは煮込みハンバーグを食べ、僕はボンゴレのスパゲティを食べた。彼女は病院のなかのことを何度か語った。看護師は優しいらしかった。のぞみの悩みを聞いてくれたり、トランプやオセロを一緒にしたり。患者とはテーブルを囲み、おやつを食べて談笑していた。入院生活だからトラブルもあった。その際にも、看護師は機敏に動いた。僕はそういった話を聞いていた。良い病院だと思った。
「のぞみ」僕はベッドのなかで彼女と手をつないでいた。「お薬は仕方ないんだよ、好きで飲んでいる人はいない」
「分かっている。ごめんね。心配かけて」
「お医者様に相談しながら、子供作ろうか?」
「ほんと?」
「うん、大変なことだと思うけど」
「ありがとう、のぞみ嬉しい!」
 僕たちはキスを交わした。唇と唇を合わせ、キスをした。
「普通っていったいなんだろうね? 私は普通じゃないのかな?」と彼女は言った。
「あまり考えなくても良いと思うよ」
「分かった。そうする! おやすみ」
 外泊が終わり、一週間後にのぞみは退院した。退院した日は木曜日だった。僕は会社を休み、彼女を迎えに行った。のぞみは笑っていた。嬉しそうだった。週末の土曜日には、のぞみの実家で、パーティーを行った。飾り付けをし、ケーキを買ってきて、母親は料理を作った。父親はクラシックギターでいくつかの曲を演奏した。ビートルズの曲だった。
「のぞみ、赤ちゃんを産むの!」
「本当かい? 祐介君」
「はい、医者と相談しながらですが。おそらく、薬の量を減らして、リスクを軽減すると思います」
「孫の顔が見られるわけだ、夢みたいだな、お母さん」
「ええ」
「今晩は泊まっていきなさい、パジャマや寝室は用意してある」
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「わーい」
 のぞみが寝静まったのは夜の十時だった。僕は父親と飲み交わしていた。彼は富乃宝山という芋焼酎をお湯割りで飲んでいた。僕も同じものを飲んだ。
「のぞみは本当に幸せだと思う、君のような人と出会えて」
「そうですかね、もっと優しい人はいるかもしれません」
「いないよ、おそらく・・・・・・」
 彼は焼酎を飲み、ソフトイカを食べた。「結婚して良かったかね、正直なところどうなんだ?」
「分かりません」
「分からないか、そりゃそうだろう。私も分からん、親としてできる限りのことはしたつもりだが、分からないんだ。最初は何故うちの娘に限って、と思った。呪ったよ、運命を、病を。憎んでも仕方がなかった。のぞみは記憶を失ったままだし、知能は小学校中学年くらいだ。多くのものを失った。無くしたというべきなのかな・・・・・・。でもね、ないならなりなりに、やっていくしかないんだよ」
 僕は彼が言わんとしていることが、理解できた。
「そうですね。僕も最善を尽くします」
「ありがとう」
「そろそろ寝ますね、おやすみなさい」
「おやすみ」父親は笑った。
 寝室の窓から、月のあかりが射し込んでいた。柔らかいひかりだ。僕はのぞみの寝顔を見た。彼女はぬいぐるみを抱いて眠っていた。とても幸せそうだった。僕はベッドに入り、彼女の手を握った。そして、目を閉じて、ゆっくりと眠りに入った。
 のぞみの退院に合わせて、仕事を辞めた。貯金はある程度あったし、IT系なので再就職には困らないだろう、と思った。僕はのぞみとの時間の共有を選択した。彼女はすっかり元ののぞみに戻っていた。一緒に料理をしたり、掃除をしたり、映画を観たりした。彼女は幸せそうだった。良く笑うようになった。
 のぞみが再入院し退院してからの方が、ずっと絆が深まったような気がする。彼女が笑うまでには時間がかかったし、彼女が言葉を発するまでには相応の時間がかかった。だから、元に戻ったことは本当に嬉しかった。週に一度は、渋谷や六本木、池袋などのレストランで食事をした。のぞみは少しだがアルコールをとった。ほんのりと頬を赤らめた。かわいらしかった。
 季節は夏になっていた。海を観に行ったり、水族館へ行ったりした。山に登ることもあった。のぞみはこんがりと日焼けした。彼女は僕との時間を楽しんでいた。相変わらず無邪気だった。何も心配していないという様子だ。
「ゆうすけおじちゃん、もうすぐお仕事探し始めるんでしょ?」
「そうだね、いつまでも遊んでばかりはいられないよ」
「のぞみ、また一人になるね・・・・・・」
「お仕事行っているあいだは、こなつちゃんと遊んでおいで。残業はできるだけしないよ
うにするから」
「うん。分かった」
 彼女の表情には一抹の寂しさが浮かび上がっていた。僕は彼女の肩を抱いた。肩は温かかった。
のぞみは風呂に入った。僕は缶のビールを飲みながら、小説を読んだ。海外のミステリー小説だ。耳が寂しかったので、音楽をかけた。
僕は煙草が切れそうだったので、コンビニエンスストアに行こうとマンションを出た。午後の七時半だ。エレベーターで降り、エントランスをくぐると、人影があった。僕の良く知った女の子が立っていた。彼女はにっこりと微笑み、僕の方に近寄った。
「こんばんは」と彼女は言った。由希子だった。

 暗い夜道を歩いた。僕は先を歩き、由希子はついてきた。駅前に近づくに従って、次第に明るくなっていく。由希子は黙っていた。僕はまっすぐに前を見ていた。由希子との記憶が、駆け巡る。懐かしい日々。いったい、どうして今頃になって、姿を現しただろうか。しばらく歩くと、カフェがあったので、そこに入った。僕たちは椅子に腰を下ろした。彼女はメニュー表を見て、オレンジジュースを注文した。僕はアイスコーヒーを頼んだ。ウェイトレスはかしこまりました、と言って頭を下げ、去っていった。
「ずいぶん、久しぶりね。懐かしくなって、マンションの前まで来てみたの。あなたに会えるかもしれないって。しばらく待ってみた。ほんの、十分か十五分、すぐに帰るつもりだったし、期待はしていなかった。だけど、会うことができた」
「心配していたよ、あの日からずっと」
「ずっと?」
「そう」
 店内の客はまばらだった。空間ばかりが目立つ。僕は煙草を取り出して、火を点けた。最後の一本だった。
「仙台に住んでいるの、いろいろあって最後には仙台に行った。良いところよ、緑は豊かだし、人々は温かいし。そこでカフェを営んでいるの、夫婦で。カフェ海音が懐かしいわ」
「結婚したんだ?」
 彼女は微かに微笑んだ。「うん。あなたは?」
「結婚したよ」
「のぞみさんと?」
「うん」
 アイスコーヒーとオレンジジュースが届く。ご注文はお揃いでしょうか、とウェイトレスは訊く。僕は返事をする。彼女は踵を返して、去っていく。
 由希子はオレンジジュースが入ったグラスにストローを差して、吸った。にっこりと笑った。
「幸せなの? あなたは?」
「そうだね、大変なこともあったけど、今は幸せだ。満足している」
 彼女はその先を尋ねなかった。何も訊かなかったし、僕は話そうかどうか迷っていた。緩やかな時間の流れだった。奥の席の人は、熱心に小説か何かを読んでいる。
「偶然、主人に出会ったの。仙台のカフェに毎日通っていた。ホテル住まいは変わらなかったけど、行く先がなかった。私は仙台を気に入っていたし、しばらくはここに留まってみようと思っていた。やることがなかったから、カフェで来る日も来る日も小説を読んでいたのよ。すると、ある日、話しかけてくれて。『良かったら、お話しませんか?』ってね。嬉しかった、心の底から。彼は、私の孤独をどこまでも癒してくれた。そんなにかっこいいわけじゃないけど、心を許せる相手となった。すぐに付き合い始めた。同棲をスタートさせた。自然と、結婚を意識するようになった。そして、結婚した。ささやかな結婚式を行って、タヒチへ新婚旅行に行った」
 彼女は、またオレンジジュースを飲み、僕の方を見た。「事情があって子供はいないの」
「僕のところは、子供を作ろうとしている。うまくいくかどうか分からない。のぞみは服薬
をしているから、障害を持った子供が生まれてくる可能性だってある」
「のぞみさんが強く、望んでいるの?」
「うん」
 僕はアイスコーヒーを飲んだ。「夏希ちゃんとは連絡を取っているの?」
「取っていないの、あの子は何も知らない。あなたは?」
「何となく、距離があいてしまってね」
「そうか」
「岩崎とはたぶんうまくいっているだろうね。僕は仕事を辞めたんだ。のぞみが入院して、大変だった。今は違う会社に勤めている」
「どうして入院したの?」
「薬を止めていたんだ。精神がおかしくなった」僕は重々しい口調で、言った。「のぞみにとって、薬を飲み続けることは辛かった。僕はそれを分かってあげることができていなかった。同じ障害を持ったのぞみの友達に聞くと、いろいろと薬に問題があるらしくてね、何より彼女は普通の女の子に戻りたかったみたいだ」
「今は理解しているの?」
「前よりはずっと、理解するようになったよ」
「そうなんだ」そう言って、由希子は微笑した。「私は祐介に出会って、良かった。あなたがいたからこそ、今があるの。あのとき、渋谷のカフェで話しかけてくれなかったら、もっと違った未来にいたはず。今よりも、おそらく暗く険しい道を歩いていたと思うの、あの頃は精神状態が優れなかったし、ひっそりと SOS 信号を出していた」
「僕も君と出会っていなかったら、今の未来はなかったと思う」
 彼女はにっこりと笑った。明るい笑顔だった。
「良かった、幸せそうで」
「ありがとう」
「おなかすいていない?」
「ううん。それに、もう行かなくちゃ」彼女は席を立ち上がった。「偶然会うことができてよかった。もう、顔を合わすことはないと思う」
「寂しくなるね」
「仕方ないわよ」
 僕たちはカフェを出た。駅まで彼女を送っていった。彼女は、改札口の内側から大きく手を振った。「さようなら」
「さようなら」
 そして、プラットフォームへ続く階段を上っていった。僕はコンビニエンスストアに行って、煙草を一箱買った。
 マンションに戻ると、のぞみが座って絵本を読んでいた。微笑ましい光景だった。
「どこに行っていたの?」
「煙草を買いに」
「遅かったね」
「ばったり、知り合いに会ってね。ちょっと、話をしていた」
「何の話?」
「お互いの幸せについて」
「そっか・・・・・・」彼女はまた絵本に目をやった。

結婚して五年が経った。僕たちのあいだには、三歳の娘がひとりいる。あどけなく、かわいらしい娘は、少しだが言葉を話すようになった。名前は、かおりといった。柏木かおり。のぞみが付けた名前だったが、僕も賛成だった。何故、その名前にしたのかまでは教えてくれなかった。「それは、秘密なのよ、絶対に教えないから」と彼女は笑った。
 かおりは健康な赤ん坊として生まれた。障害を持って生まれてくることはなかったし、薬の悪影響が及んだこともなかった。運が良かったのかもしれない、あるいは、本当に神様はいるのかもしれない。祈りは通じたのだ。かおりは普通の女の子だった。
 日々は充実していた。のぞみは子育てに精一杯だが、幸せそうだった。彼女の実家も喜んだ。孫を連れて行くと、決まって笑顔になった。僕の実家に連れて行くこともあった。僕の両親も喜んでいた。かおりの存在は、果てしなく大きかったし、僕たち家族の中心になっていた。
 時々、うまくいきすぎている、と思うことがある。どこかで、落とし穴が待っているのではないか、また何か持ち上がるのではないか、と。しかし、のぞみの笑顔を見て、かおりのあどけない姿を見つめているうちに、その疑念は、つまらないことのように感じた。きっと、このまま、上手くいくだろう、と僕は思った。
公園でのひとときだった。家族三人で、近くの公園に遊びに来ている。春の朗らかな陽気で、太陽は優しく輝いていた。向こうの方で、子供たちが遊んでいる。僕は、ベンチに座っていた。
緑の葉を茂らせた木々は、風に揺れている。
「かおり、のどは渇いていない? 大丈夫?」とのぞみは訊いた。
「うん、だいじょうぶ。ママ、あっちでブランコに乗ろうよ」
「はーい」
 かおりはてくてくと歩き、ブランコに近寄っていく。のぞみが後ろを付いて回る。僕はにこやかに、その様子を見つめている。
 ここが僕たちの着地点なんだ。この場所を置いてほかにはなく、この場所でなくてはならなかった。高校二年生のとき、のぞみと初めて付き合ったときから、決まっていたような気がする。きっとそうなのだ。
僕は彼女たちが遊んでいるブランコまでゆっくりと歩いていった。彼女たちは日々成長
していたし、僕も成長していた。
僕は笑顔を作った。
「今日は、パパが夕ご飯を作るね」
「煮込みハンバーグがいい!!!」のぞみとかおりは口を揃えて言った。彼女たちは、笑顔
になった。
「うん」僕はそう言って、かおりの頭を撫でた。