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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(6)

大学生活は二年目に入っていた。日々は牧歌的だった。美紀は隆人とうまくやっている様子だったし、僕とのぞみの関係は良好だった。春には桜を見に行ったし、夏には海へ行った。夏休みに、僕は引っ越しのアルバイトをしていた。体力を付けたかったのと、給料が良かったというのが理由だった。のぞみはキャンペーンガールのアルバイトを行った。スーパーの試食コーナーで、ウインナーを炒めたり、ベーコンを盛ったりして、商品を案内するという仕事だった。誰にでもできる簡単なものだった。夏に働いて、秋の連休に北海道へ行こうと、二人で言っていた。僕は運転免許を持っていたので、向こうでレンタカーを借りて、温泉を回ろうと話していた。
 例ののぞみの体調不良はなくなっていた。精神も良好のようだった。一時的に、体調を崩していたに過ぎなかったのだ。彼女は健康そのものだった。僕は何度か彼女の両親に会ったが、特に変わったことはないと言っていた。僕は安心した。胸騒ぎもしなくなった。夏の終わりに差しかかっていた。のぞみは、僕の部屋に来ていた。コーヒーを飲み、音楽を聴いていた。レディオヘッドとかコールドプレイを彼女は好んでいたので、かけてやっていた。そのステレオは父親から譲ってもらったもので、わりと良い音が出た。その日ののぞみはやけに饒舌だった。彼女はアルバイトのことを語り、大学のことを話し、両親との関係を言った。
「お父さんもお母さんも忙しいから、あまり私に構ってくれないのよ。私よりも、弟の方
がかわいいみたい、そりゃ弟は国公立の大学を狙えるくらい頭が良いし、分かるけどね。
酷いわよね、私のことを自分たちの子供じゃない、とか言うの・・・・・・」
「まさか」
「本当よ、これ」彼女は口を酸っぱくして主張した。
「自分たちの子供じゃない、自分たちの子供じゃない、自分たちの子供じゃない」のぞみは繰り返し言った。
「きっと、機嫌が悪かったんだよ。許してあげなよ」
「あんな家、帰りたくないわ。とりあえず、今日だけはここに泊めてよ」
「それは構わないけど、親にはきちんと連絡するんだよ」
「分かったわ、今から連絡するね」
 彼女は自宅に電話をした。仲が悪いという様子もなく、淡々とした口調だった。その日は雨が降っていた。長い雨だった。そうか、のぞみは冗談を言っていたのだ、と僕は思った。何か理由を付けて、僕の家に泊まりたかったのだろう。
 その日の夜はデリバリーのピザを取って、食べた。映画を二本観た。恋愛の映画だったが、のぞみはすぐに涙を流した。泣く場面でもないのに、おかしいなと感じた。涙腺が脆くなっているのかもしれない。映画の出来は普通だった。そんなに泣くほどの映画ではなかった。
 夜の十一時になった。ピザだけでは少なかったので、コンビニエンスストアに二人で行った。雨はまだ降り続いていた。空は雲に覆われていて、真っ暗だった。コンビニエンスストアでは、唐揚げ弁当とサンドウィッチを買った。通りは、人が少なかった。常夜灯が微かなひかりを届けていた。道の途中で、彼女は立ち止まった。傘の下から離れ、雨に当たっていた。そこは小さな神社だった。古く、冷たくひかり輝いていた。
「雨に濡れると、風邪を引くよ」
 のぞみは立ち尽くしていた。激しく黒い雨が、柔らかい地面を穿っていた。遠くの方で雷のひかりがあり、音が鳴った。彼女の服は既に濡れ始め、ブラジャーの紐が透けて見えた。異様な光景だった。何故、動こうとしないのだろうか。
「何をしているの?」僕は怒鳴った。すると、のぞみは突然我にかえったように、表情を戻しながら僕の方に振り向いた。
「ごめんね・・・・・・」弱々しい声だった。彼女は再び僕の傘の下に入った。今日ののぞみは何だかおかしかった。普段とは違った感じがした。こういう日もあるのかな、と楽天的に捉えていた。
 雨に濡れたのぞみは、バスタオルで身体を拭き、着替えた。着替えたと言っても、僕のジャージの上下を貸してあげただけだった。身体の小さなのぞみには、ぶかぶかだった。写真に収めたいくらいに、似合っていなかった。僕が笑っていると、のぞみもおかしそうに笑った。素敵な笑顔だった。僕たちはコンビニエンスストアで買ってきた弁当やサンドウィッチを食べた。冷蔵庫からメロンソーダを持ってきて、二人で分け合った。マリメッコのマグカップに注いだ。赤い花柄がのぞみのマグで、青いマグが僕のものだった。テーブルを挟んで座っていたのに、いつの間にか僕の隣にのぞみは座っていた。僕の身体にもたれかかった。彼女の温かな体温がどこまでも伝わってきた。押し黙った。静かで親密な空気が流れていた。
「ねえ、近々結婚しようよ。式もハネムーンも何も要らないから。祐介と一緒にいたいの・・・・・・。もう、これ以上我慢することができないのよ、私」
「駄目だよ、まだ学生だからね」
 彼女は僕の手に左手を重ねた。そして、握りしめた。
「さっきの神様が言っていたの、君たちは早く結婚しなさい、一刻も早くってね。神様って、祐介も信じているわよね?」彼女の声は柔らかく、優しかった。微笑みを絶やさず、口元は薄ピンク色に甘くひかり輝いていた。
「さっきの神様って、あの小さな神社の?」
「そう」彼女はゆっくりと目を閉じた。しばらく目を瞑っていた。僕は彼女の唇に口づけを交わした。しっとりとしたキスだった。いつもと感触が違った、どうしてだろう? いつもののぞみなのに・・・・・・。
「疲れたわ、眠っても良いかしら?」
「うん。僕はまだ起きているけど」
「起きていて、何をするの?」
「何をするわけでもないよ、ただ、まだ眠れないだけ」
 彼女は笑った。それじゃ、おやすみなさい、と彼女は言った。僕は明かりを消して、リビングへ行った。傍らには小説を持っていた。その夜がすべての始まりだった、そして物事の終わりはずっと先にあった。終わりという言葉は不適当だ、終わりなどなかった。半永久的に続く種類のものだった。のぞみが生きている限り、それは続くのだ。
 その日の夜、結局寝室に戻ったのは二時過ぎだった。雨はその頃には止んでいた。雷も収まった。のぞみは寝息を立てて、眠っていた。僕は起こさないように、そうっとベッドに入った。頭はすっかり冴え渡っていた。僕は何度か深呼吸を行った。そして目を閉じた。やがて、深い眠りがやってきた。気がつくと、朝だった。
 のぞみは先に目を覚ましていた。じっと、窓の外を見つめていた。身動きひとつしなかった。空は青々とし、晴れ渡っていた。真夏の太陽の強烈なひかりが射し込んでいた。
「おはよう」と僕は言った。のぞみはようやくこちらに振り向いた。
「やっと起きたのね、退屈だったわ。朝の五時に目が覚めたから・・・・・・」彼女は苦笑した。
 今の時間は、九時過ぎだった。
「朝の五時に起きて、いったい何をしていたの?」
「ずっと空を眺めていたわ、あなたも子供の頃は同じことをしていたでしょ? いつか話してくれたわよね、子供の頃は友達がいなくて、空ばかり眺めていたって。真似てみただけ。楽しいわね。自分がとてもちっぽけな存在に思えてくるわ」
 僕は黙っていた。喉が渇いたので、テーブルの上にあったコカコーラのペットボトルの蓋をひねって開けた。ひとくち飲んだ。
「最近は、空を見ていないな・・・・・・」
「童心にかえって、たまには見上げるのも良いわよ」
「今度、星空を見に行こうか。軽井沢はずいぶん綺麗だと聞いたことがある」
「素敵ね、北海道行くのを止めて、軽井沢にしようよ」
「九月の連休に行こうよ、ホテルは予約しておく」
「テニスもしようね」のぞみは笑った。
 僕たちはリビングに移動し、朝食を取った。かりかりに焼いたトーストに、ハムエッグだった。母親も父親も外出中で、僕とのぞみの二人きりだ。
「朝食が終わったら、お散歩しない?」
「良いよ、裏山を登ろうか?」
「そうね、まるでピクニックみたいね」彼女はくすりと笑った。
 僕はお米を炊飯器で炊いた。のぞみがおにぎりを作った。梅やおかか、昆布を入れた。水筒には、冷たいお茶を入れて、ビニールのピクニックシートを折りたたんでリュックのなかにまとめた。裏山だから、本格的な山登りというわけじゃないし、この程度で準備は十分だった。
 山は低くなだらかだった。木々は生い茂り、草の匂いが強かった。虫の鳴く声が、辺りに響き回っていた。人通りは、ほとんどなかった。時折、車が走って行った。モーター音やタイヤの軋む音が聞こえた。太陽はじりじりとしていて、暑かった。汗をかいたので、タオルで拭った。のぞみは、目を細めて、無言で歩いていた。
 途中、休憩所に寄った。休憩所と言っても木製のベンチと屋根があるだけで、蒸し暑さには変わりがなかった。僕たちはベンチに座った。影になっているので、幾分涼しかった。僕は水筒に入ったお茶をのぞみに飲ませた。彼女は汗を手で拭いた。左手の甲の汗は、しずくとなって、輝いていた。
「もう少し登ると、景色が良いよ。そうだね、あと三十分くらいは歩くかな。疲れた?」
 のぞみは首を横に振った。彼女はにこにこしていたが、何故か言葉を発さなかった。しばらく休憩すると、また歩き始めた。僕は彼女の左手を握っていた。車が何台か通り過ぎ、まとまった音を幾つか残していった。
 高台に辿り着いた。僕はシートを広げて、座った。のぞみは立ったまま、景色を見つめていた。じっとしていた。動きらしい動きはなかった。
「見晴らしが良いだろう、僕はここの景色が好きで、子供の頃は良くやってきたものだった」
 ようやく、のぞみは腰を下ろした。すがすがしい風が吹いていった。昨夜の雨の影響か、空気は湿り気があり、分厚い雲があった。
「星には、神様が宿っているって知っている?」のぞみは、僕の方を見て、そう尋ねた。
「星?」
 彼女はリュックサックのなかから、アルミホイルに包まれたおにぎりを取り出して、食べた。
木星とか金星とか、水星とかアンドロメダ星雲とか」
「そこに神様がいるの? 聞いたこともないな・・・・・・」
「私、星の神様と話をすることができるの。本当に、楽しいわ。毎日が」
「いったいどんなことを話すんだい?」
「それは秘密よ、私たちだけに分かるの。きっと、あなたには分からないし、理解できないと思う」
「昨日も神社の神様がどうのとか言っていたね」
「そうね」彼女は短く言葉を切った。そして、再び黙ってしまった。不可解な笑顔だけが、印象に残った。

 慎治のアパートメントは、外装がはげ落ち、汚かった。鉄の階段は錆び付き、踏むと音がぎしぎしと鳴った。由希子のバッグには、手切れ金の二百万円が入っていた。僕は半分出すと言ったが、私たちの問題だからと言って聞かなかった。彼女は不安そうな表情を浮かべていた。チャイムを鳴らした、はーいと間延びした声。慎治が出てきた。痩せていて、頬がこけている、お世辞にも美男子とは言えなかったが、かと言ってルックスが悪いわけではなかった。服装はジャージだった。部屋は散らかっており、乱雑だった。玄関にはしなびたスニーカーが横たわっていた。
「慎治君、突然ごめんなさいね」
「とりあえず、あがってください。どうせ、夏希のことでしょう。そちらの男性は?」
「柏木です。付き添いでやって来ました」
「ども」
 僕たちは部屋にあがった。彼はインスタントコーヒーを入れた。
「砂糖とミルクはどうします?」
「ブラックでお願いします」
「私も」
「りょーかい」
 彼の髪は肩のところまで伸び、ずいぶん散髪に行っていないみたいだった。シンクには洗い物がたんまりと溜まっていて、汚かった。テレビの液晶はドットがところどころ欠けていた。ステレオはボーズの良いものがあった。音楽が好きなのだろう。CDアルバムは数百枚。あとは目立った家具や電化製品はなかった。
 アイロン台のような簡素な白いテーブルを挟んで、僕たちと慎治は向かい合った。
「音楽が好きなんですね」と僕は言った。
「セックスピストルズとかストーンローゼズとか、フーとか。昔の音楽ばかりです。ところで、何の用ですか? 暇だから、時間はいくらでも取れますけど」
「実はね、夏希と一緒に暮らすことを諦めて欲しいの・・・・・・。申し訳ないわね」
 彼は一瞬、表情を崩した。すぐに、戻した。冷静なタイプかもしれない。
「何故ですか?」
「君に夏希ちゃんはずいぶんとお金を貸していると聞いています。間違いないですね?」
「夏希には助けてもらっています、正直に言うと返すあてがないです。いずれ、働いて返したいと思っていますが」
「働くと言っても、続いた試しがないそうですね。一ヶ月か二ヶ月くらいで決まってクビ
になり、ときどき日雇いの仕事で日銭を稼いでいる」
「夢があるんです」
「どんな?」
「いつか、俺の音楽で武道館を満員にしたい。今は生活苦からギターを売ってしまったけど、働いて、また買い戻して。夏希は俺の夢に乗ってくれているのです。あの子は、本当に、素直で良い子です」
 僕はコーヒーをすすった。彼はわかばという煙草に火を点けた。割安の煙草だった。
「働かないんじゃなくて、うまく働くことができないんです」
「どうして?」
社会不安障害なんです、対人恐怖、赤面恐怖、閉所恐怖、その他いろいろ。精神科へ行って薬を飲んでいますが、あまり変わりません。青森の田舎から出てきて、夢を見て上京して、何も成果なしじゃ帰れませんから」
 彼は美味そうに、煙草を吸った。
「率直に言うと、別れて欲しいんです。失礼は承知ですが、手切れ金として二百万円を用意しました。二百万円があれば、音楽活動の夢を再開することができるんじゃないですか?」
由希子の口調は強かった。目には厳しいものが宿っていた。彼女の妹への思い遣りは、凄まじいものがあった。
「愛しているんです、これでも」彼は弱々しく、言った。煙草の火をもみ消した。「それに、夏希が働いてくれたら、俺は音楽活動に専念できるし・・・・・・」
「それ以上頼ったら、駄目だよ」僕は諭すように言った。
「別れてあげて欲しいのです、あなたでは夏希を幸せにできないと思う」
「しばらく考えさせてください、二十分で良いです」
「分かりました」
「音楽をかけても良いですか?」
「どうぞ」
 彼はストーン・ローゼズのアルバムを取り出して、オーディオデッキにセットした。再生ボタンを押した。広がっていく音は、僕の家のものより質が良かった。薄い壁なのに、彼は構わずに爆音で流した。よく近所の人が苦情を言いに来ないものだと不思議だった。
「音は大きいものに限ります」彼の表情は幾分明るくなっていた。
 僕は何も言わなかった。煙草を一本吸った。由希子はじっとしていた。表情を取り繕い、曇った窓のガラスを眺めていた。僕は何故か慎治に親近感が湧いた。どうしてだろうか。この若者は、そんなに悪い人間じゃないのかもしれない、と僕は思った。
 二十分が経過した。音楽は止まった。元の静かな部屋に戻った。彼は姿勢を糺した。
「由希子さんに心配をかけさせて、本当に申し訳ありませんでした。よくよく考えてみると、彼女に養ってもらって音楽を続けようというのは甘い考えだと思います。別れます。金輪際、会いません」
「ありがとうございます」由希子は肩のちからが抜けたようだった。
「ただし、二百万円は受け取れません。これを受け取ったら、バンドマンとしてのプライドが潰れてしまうと思うのです。夏希への借金は、いつか必ずお返しします。夏希へは、俺が別れを告げます。由希子さんたちがやってきたことは言いません」
「でも、良いのですか? あなたは満足に働くことが難しいのでしょう?」
「自分のちからで何とかして見せます」
 由希子は二百万円をバッグのなかに仕舞った。
「武道館、いつか満杯にできると良いね」と僕は笑った。
「はい、そのときは招待しますので!」
 慎治の目は、輝いていた。
 僕たちはアパートメントを出た。帰りの電車のなかで、由希子と話をした。
「良い子じゃないか」と僕は言った。
「良い子だけど、生活能力がないと致命的よ」
社会不安障害は厄介だからね。困っている人は多いらしい」
「精神科って案外、役に立たないのね」
「そうかもしれないね」
「ところで、岩崎さんは元気?」
「二日ばかり会社を休んでいたけど、今では出社しているよ。時々、寂しそうな顔をしているけど、大丈夫だと思う」
「そう」
 由希子は疲れてしまったらしく、珍しく料理をしたがらなかった。僕たちは駅前のそば屋に行って、冷たいそばを食べ、ビールを飲んだ。由希子は無口だった。棚の上にのったテレビの音が、響いていた。客は僕たちのほかにいなかった。
「最近は、トンネルの夢を見るのかい?」
「見なくなったわね、そう言えば」
「あのときは引っ越したばかりだったから緊張していたんだよ」
「その代わり、温かい夢も見ない。朝に起きると、すべて忘れているの、欠片すら残っていないのよ。夢を見たかどうか分からないのよね」
「カフェで働く時間を減らしてみたらどうだい? きっと疲れているんだよ」
「カフェ海音は好きだから、減らしたくないな・・・・・・。だけど、私もそろそろ就職活動を始めても良いかもしれないわね。前に進んでいるような感じがしないの、ちっとも」
「君は頭が良いし、悪くない選択肢だと思うよ」
 僕はそばを食べ終わると、ビールの残りを飲んだ。彼女は割り箸を見つめていた。テレビは野球中継を映していた。巨人が勝ち、ヤクルトは負けていた。
「祐介は私のことをどう思っているの? 好きとかそういうのじゃなくて、その先」
「つまり、結婚ということ?」
 彼女は頷いた。
 僕は言葉に詰まった。不意の質問だったからだ。
「まあ、同棲も始まったばかりだし、返答することはできないわよね。当然だわ」
「将来的には、結婚したいと思っているよ」
「ありがとう」由希子はくすりと笑った。「夏希にも良い相手が見つかることを願っているんだけど」
「夏希ちゃんは綺麗だから、そのうちに見つかるよ」
 僕たちは店を出て、手をつないでマンションに戻った。部屋に入ると、着信が鳴った。由希子の携帯電話にかかってきた。
 うん、うん、と由希子が相槌を打った。会話らしい会話はなかった。
「夏希がこのマンションの前にいるから、部屋に入れて欲しいって」
「構わないよ」
 僕と由希子は外に出て、夏希を迎えに行った。夏希はグリーンのカーディガンを着て、タイトスカートを履いていた。髪は明るい赤に染まっていた。目を真っ赤に腫らしていた。よほど、哀しかったのだろう。
「由希子お姉ちゃん、慎治に振られたの、お前とはもう二度と会いたくないって。同棲楽
しみにしていたのに、私、何も悪いことをしていないのに」
「とにかく、部屋にあがりましょう。話を聞いてあげるから」
 夏希は涙ながらに、彼の夢を本気で応援していたことを話した。路上でギターを演奏していたときに、偶然通りかかって知り合ったらしかった。流行の音楽しか知らない夏希にとって、慎治の音楽は未知の世界だった。素敵なロックだと思った。気がつくと、好きになっていた。彼は確かに駄目人間だけど、良いところもたくさんあったの、と彼女は身振り手振りで説明した。
「私、これからどうやって生きていけば良いのかしら? 慎治抜きの生活なんて、考えることができないよ」
「きっと、良い人が見つかるわよ」
「そうかな? 私って男運がないから」
「おなかはすいていないの? 簡単な料理なら作れるけど」
「大丈夫。シャワーを貸して。今夜はここに泊まっていっても良い? 家に一人でいると気が狂いそうなの」
「どうぞ」と僕は言った。
 夏希がバスルームに入っているあいだ、由希子は僕に言った。
「岩崎さんを紹介してあげたらいいじゃないの? あの人なら信頼できるし、真面目だしぴったりだわ。私も安心よ」
「岩崎はしばらく、一人でいたいって言っていたからな・・・・・・」
「タイミングを見て、訊いてみてよ。お願い」
「分かった」
 僕はコーヒーを飲みながら、煙草を吸った。夏希はバスルームから出てきた。赤い派手な下着姿で歩いていた。僕は驚いた。
「ちょっと、夏希。ここはあなたの家じゃないのだから、服くらい着なさいよ」
「ごめん、お姉ちゃんの服を借りようと思って」
「祐介が目のやり場に困っているじゃないの」由希子はため息をついた。そして、クローゼットから服を引っ張り出して、夏希に渡した。
「シャワーを浴びたら、ずいぶんすっきりとしたわ。ありがとう。いつもお姉ちゃんに心
配をかけさせているわね」
「祐介の会社の人を紹介してあげるから、そのうちね」由希子はにっこりと笑った。
「本当に? 私、一人じゃ生きていけないのよね。浮気はもうしないし、真面目に働くから紹介してよ」
「しっかりした誠実そうな人よ」
「でも、私バカだから、その人が気に入ってくれるかな?」目を丸くして、夏希は言った。
「その人は、恋人を失ったばかりでね。傷がまだ癒えていないんだ」
「失った?」
「実は、亡くなったんだ」僕は小さな声で言った。
「そうか」夏希はうつむいた。「簡単には、切り替えることができないよね。やっぱり、私
は男運がないや」
「とにかく、話はしてみるよ」
「ありがとうね、祐介さん。今夜は泣き疲れたから、もう寝るね。おやすみなさい」
「おやすみ」と僕たちは言った。夏希はすぐに眠ったようだった。時刻は夜の九時半を少し過ぎたあたりだった。
「就職のことだけど、製薬会社にコネがあるの。専務が私の叔父でね。困ったときはちからになるって言っているし、給料は悪くないから。一度は就職してみるのも良いかなって思っているのよ」
「合わなかったら、また戻ってやり直せば良いよ」
 ありがとう、あなたって本当に優しいのね。ほかの女の子にもてないか、心配になっちゃう。彼女は甘い言葉で言った。僕は彼女の肩を抱き寄せ、キスをした。甘酸っぱい味わいが、口のなかに広がった。