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小説のブログです!

アリスの影と夢

 アリスは夢を作品にし、生活をしている。アリスの夢は、不思議だった。彼女の分身の影が出て、様々なことを行う。影に感情はなく、まるで心を失ったようだ。アリスは影を慈しみ、影のことを思い遣る。影は新しい冒険譚を出ることもあれば、未来世界に身を投じることもある。アリスは深く影を愛した。自分自身のように。

 アリスが影に夢の中で出会ったのは、二年前だ。その頃、アリスは新進のライトノベル作家として活躍していた。最初の夢は、影が女王になり、国を統治するというもので、彼女の作風に合った。彼女はその夢をファンタジーに仕上げた。小説は、本になり、全国に販売された。彼女の懐は潤った。

「問題は、その影は私自身ということなの」と彼女は僕に言った。僕は耳を澄ませた。音楽はワグナーだった。彼女の部屋は広く、観葉植物の木があった。

「影は何をするのか分からないし、後味の悪いものも確かにあった。まるで、私の欲望を投影しているように、私の目には映った」

「夢の中の話だろう?」僕は訊いた。彼女は肩をすくめ、力なく笑った。「夢は密接に、現実世界とリンクしているわ。私は気味の悪い夢が続くようになって、心理学の専門家のところへカウンセリングに行った。その先生は、最新の心理学を用いて、私の夢を解析したわ」

「どうだったの?」

「呪いのようだ、と先生は言った。私は耳を疑った。しかし、彼ははっきりと呪いという言葉を口にした」

 僕は黙っていた。

「影は今も、私の中に生きている。私は自身の分身をこよなく愛す。しかし、彼女は時折、犯罪をおかし、痛快に殺人をする。私は目を覆いたくなる」

 正直に言って、最近のアリスはおかしかったし、不安定だった。僕はなぐさみの言葉を掛けた。彼女はうっすらと笑い、膝を揃えた。

「私は夢を語る仕事をしている。しかし、夢にはもううんざり。最近は、眠りたくないの」と彼女は呟いた。

 

 僕は自宅に戻り、バーボンのロックを作った。今宵、見る夢のことを想った。アルコールは深い酩酊に誘う。僕はゆっくりと目を閉じた。

昨日を愛した僕の理由

 目まぐるしく進み続ける時間に対し、僕は畏敬の念を持った。その最中に、昨日の出来事はより鮮明になった。僕は昨日という時間を思い起こし、一息ついた。

 昨日、僕は美術館にいた。印象派の展覧会だった。マルク・シャガールアメディオモディリアーニの絵を眺めていた。すると、僕の前の女性は気難しそうに絵を見つめ、ため息をついた。女性は若く、美しかった。二十代の後半くらいだった。僕は彼女の顔を覗き込み、「どうかしましたか?」と尋ねた。彼女は軽く咳ばらいをすると、僕の目を見た。

「私は元画家です」と彼女は言った。「大学は美大に進み、コンクールで大賞を受けたこともあります。しかし、ある日、どうしても描くことが出来なくなったんです。理由はよく分かりません」

 僕は黙っていた。

「二十三の時に、筆を折りました。以降、美術館を巡っているんです。失った魂を取り戻すために」

「失った魂を取り戻すために?」僕は驚いて訊いた。

 彼女はゆっくりと頷いた。

 僕たちは知り合ったしるしに、美術館を出るとカフェに行った。彼女はアイスミルクとクロワッサンを頼み、僕はブレンドコーヒーを注文した。美術館の近くにある静かなカフェだ。客は少なかった。

「美術館にはよくいらっしゃるのですか?」と彼女は訊いた。

「月に一度くらい」と僕は返事をした。

「私は毎週のように通っています。マルク・シャガールの遍歴を追っているのです。彼の幻想性は、長いあいだ私を支配しています」

 僕は頷いた。

「描くことが出来なくなり、その美術館通いの傾向は顕著になったのです。幻想を追い求める自身に、ある日、光は射しました。しかし、現実は幻想を駆逐します。往々にあるように」

 僕はブレンドコーヒーを飲み、煙草を一本吸った。

印象派の展覧会が始まると、私は毎週末行きました。そこに、私の欠片があると思った。私はそのピースを重ね合わせるまで、展覧会に行き続けるでしょうね」

 彼女はインテリア・デザインの仕事をしているし、そこに油絵の要素はなかった。僕はどうして彼女が絵を描くことが出来なくなったのか、考えた。才能の消失かもしれないし、機会の損失かもしれない。しばらくすると、彼女は僕の職業を訊いた。僕は学校の教師だと返事をした。そこで会話が終わり、散会した。

 僕は家に戻ると、彼女の眩しい笑顔を思い出した。失った魂を取り戻すために、彼女は美術館に足しげく通っている。僕は自身の魂を確認した。僕の魂は機能性を有し、動作をしている。僕はそのことに安心し、眠りについた。浅い眠りだった。いくつかの夢を見た。朝、目覚めると、僕はその女性のことを思い出した。

簡潔に自己紹介

青井理亜。1979年生まれ。大阪府在住、男。関西大学文学部史学・地理学科卒業、家電量販店の店員を経て、システムエンジニア。30歳のときに、双極性障害を発症、現在は療養生活。好きな作家は村上春樹サマセット・モーム山崎ナオコーラ。好きな音楽は、YUKI、Aimer、YUI。2018年より雑誌社の新人賞に投稿を始める。某音楽系ホームページ、ブログの経験有り。作家を目指しています。

愛ならどこにあっても構わない(終章)

正月、元旦の日の朝早くに、僕はのぞみを迎えに行った。玄関先でのぞみの母親と父親に挨拶をした。父親はにこやかに笑い、「娘とのデート、よろしく頼む」と言った。僕はのぞみにお年玉を渡した。三万円を入れておいた。のぞみにとって大金だったが、構わないだろうと思った。彼女は嬉しそうに、笑った。「これで、新しいゲームと漫画が買える!」とはしゃいでいた。
 電車のなかで僕たちは並んで座った。のぞみはにこにこしている。今日は太陽の日差しがちょうど良い加減で、窓から射し込んでいる。快晴だった。
「まずは、初詣に行くのよね?」
「そうそう。それから、どこかでランチを食べて、ゲームセンターへ行って、カラオケへ行って、僕のマンションへ行く」
「どんなお部屋なの?」
「熱帯魚がいる。ネオンテトラディスカスという魚」
「おさかなさんがいるんだ。楽しみ!」
 彼女は僕の肩にもたれた。
「ねえ、いつ私たち結婚するの? ゆうすけおじちゃんと結婚したいよ・・・・・・」彼女は甘えた口調になった。
「のぞみさえ良ければ、いつでもするよ」と僕ははっきり言った。
 彼女は目をぱちくりさせて、僕を見た。
「え?」
「だから、結婚するって言ったんだ」
「本当に?」
「うん」
 彼女は僕の手を握りしめた。僕にもう迷いはなかった。最初からそうするべきだったのだ。
「のぞみ、嬉しい!!!」彼女は更に身体を密着させた。
「落ち着いて・・・・・・」
「はーい」
 明治神宮で参拝をし、ファミリーレストランでランチを食べて、ゲームセンターへ行き、カラオケ屋で二時間歌った。そして、僕のマンションに戻ったときは、夕暮れだった。太陽の赤いひかりが、束となって窓から入ってくる。のぞみはじっと熱帯魚が入っている水槽を眺めていた。彼女は魚が好きなのだ。由希子の荷物を処分したせいで、部屋はぽっかりと穴が開いたように、空間が浮かびあがっている。
「ずいぶん、広い部屋だね。結婚したら、のぞみはここに住んで良いの?」
「うん。そうだね。その前に、のぞみちゃんのパパとママにご挨拶をしないとね」
「絶対、反対しないと思う。だって、のぞみとゆうすけおじちゃんは元々結婚を約束していたし、日頃からゆうすけおじちゃんの話になると、パパとママはいつも笑顔になるもの」
 僕はグラスにコカコーラを注いだ。のぞみはコカコーラを飲み、笑った。「結婚式がしたい、ウェディングドレスを着たい、子供が欲しい、子供は女の子でもう名前は決めてあるの」
「何て名前なの?」
「まだ教えない!」
 帰りの電車のなかで、はしゃぎ疲れたのかのぞみは眠っていた。よほど嬉しかったのか、笑顔だった。かわいらしい笑顔だ。
 のぞみの家に着いたころには、周囲は真っ暗だった。母親が出迎えた。紅茶の準備が整っていた。父親は新聞を読みながら、テレビのチャンネルを変えている。
「楽しかったかね? 明治神宮は人が凄かっただろう? お疲れ様」
「のぞみ、ゆうすけおじちゃんと結婚するんだよ! 今日、プロポーズされたの!」
「結婚?」父親も母親も、きょとんとした顔をしている。何を言っているのか分からないといった表情だ。「冗談だろ? まったく祐介君は、のぞみに期待を持たせちゃ駄目だよ」
父親は苦笑した。
「本気なんです」僕はちからを込めて、言った。「のぞみさんと結婚させてください。必ず、幸せにしてみせます」
 リビングはしんとなった。
「私としては嬉しいが、本当にのぞみで良いのかね? のぞみは家事もできなければ、料理もできないし、仕事はもちろん不可能だ。子供だって、服薬の影響があるから、作るのは困難だろう、つまり、君に負担がかかりすぎると思うのだが。病が再発するリスクもある」
「子供は作るもん!」のぞみは頬を膨らませた。
「分かっています、だけどのぞみさんが良いんです。僕はやはりのぞみさんが好きです。
愛しています」
「祐介君なら、安心してのぞみを任すことができるよ。私は結婚に賛成だ。お母さんは?」
「祐介さんしかいないと思うわ」
「わーい、晴れて夫婦だね」
「ありがとうございます」
「結婚式の費用は私たちで出そう。のぞみのために貯めていたお金があるんだ。もっとも、のぞみは友達がほとんどいないから、親戚のみを集めた小さな結婚式になるだろうがね。嬉しいよ、本当にありがとう。何から何まで」
「ずっと前から、祐介さんは家族みたいなものだったから」
「本当の家族になるんだよ!」のぞみは嬉々としていた。
「祐介君の両親に、あらためてご挨拶しないとな」
「式は春頃で良いんじゃないかしら?」
「お姉ちゃん、おめでとう」弟は笑った。
「のぞみ、お料理にお洗濯に頑張るね! よろしくお願いします」彼女は礼儀正しく、頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」僕は丁寧に言った。そして、笑った。
 その日の深夜、僕は実家に電話をした。父親が出た。僕はのぞみと結婚したいということを告げた。彼はしばらく言葉を選んでいたが、反対はしなかった。母親も同様だった。
時刻は夜の十一時を過ぎていた。窓の外を見ると、雨が降っていた。その雨は、由希子と出会ったときの雨に似ていた。執拗で、激しく降り注ぐ雨だった。
 恵比寿のレストランで、両家の顔合わせがあった。と言っても、お互いに良く知っている。僕の両親はのぞみが病気になって以後、彼女の両親とは会っていなかった。僕の父親は中学校の社会の教師で、母親は小学校の先生だった。だから、障害についてはある程度寛容であり、理解があった。ADHD学習障害の子供を受け持ったこともあった。両親はまったく反対しなかった。むしろ、喜ばしいことだと思っているみたいだった。
 のぞみは終始にこやかだ。料理を楽しみ、珍しく酒を飲んだ。僕は胸をなで下ろした。
「祐介君、のぞみをどうかよろしく頼みます」父親は言った。
「頼みます!」のぞみは笑った。
 二月になると、のぞみは僕のマンションに引っ越してきた。デイケアは遠くなるので、やめた。のぞみの荷物はそれほどたくさんなかった。ぬいぐるみやゲーム、漫画に衣類、幾つかのアクセサリー。家具が不足していたため、ロフトで買った。のぞみは料理がしたいと言っていたので、新しくフライパンや鍋を揃えた。エンゲージリングを買った。プラチナの指輪でサファイアをあしらったものだった。のぞみはとても喜び、気に入っていた。住民票を移し、婚姻届けを出し、府中の病院から渋谷のクリニックに病院を変更した。土曜日の診察も行っているところで、三十代前半くらいの男性が医者だった。国立大学の医学部を卒業しているということだった。
「子供を作っても良いものでしょうか?」
 僕はおそるおそる尋ねた。
 医者はくぐもった声で、答えた。
「のぞみさんが今、飲んでいる薬のなかには、胎児に悪影響を及ぼすものがあります。つまり、障害を持ったお子様が生まれる可能性は一般の女性より、ぐんとあがります。諦めた方が良いでしょうね」
「のぞみ、赤ちゃんが欲しいよ」
「申し訳ないですが、何とも言えません」
「分かりました」
 診察室を出て、肩を落としたのぞみを僕は慰めた。薬局で大量の薬をもらった。統合失調症の薬に、気分安定剤睡眠薬、頓服の液体の薬。のぞみは何だか元気がなかった。医者の言葉がショックだったのだろう。僕たちは薬局を出ると、カフェへ行った。僕はホットコーヒーを注文し、彼女はメロンソーダを頼んだ。
「来週は、結婚式場を見に行くよ」僕は明るい声で言った。
「うん。素敵な教会で結婚式がしたいの。カメラマンにいっぱい写真を撮って貰って、ウェディングドレスは真っ白で綺麗なものを着て」
 のぞみはようやく笑った。
 予定通り、結婚式は親戚縁者だけで行うことになった。四月の日曜日に、横浜の教会で式を挙げた。海が一望できる、のぞみが希望した素敵な教会だった。彼女のウェディングドレス姿は、荘厳だった。美しいという言葉を超えて、まったく違う何かを彼女の魂に吹き込んでいた。誓いの言葉を述べ、誓いのサインを行い、誓いのキスを交わした。彼女の唇は、しっとりとしていて、温かだった。僕は不思議と緊張していなかった。彼女の左手の薬指に輝く指輪のひかりをずっと受け止めていた。
 レストランでの披露宴が終わり、僕たちは着替えて帰路についた。のぞみは疲れているようだったが、顔には出さなかった。
「夫婦」と彼女は言った。
「夫婦だね」僕は笑った。そして、キスを交わした。お互いの表情を確かめると、もう一度
キスをした。
のぞみは新妻として、文字通り奮闘していた。朝は卵焼きを作ったり、味噌汁を作ったりして、料理をした。スパゲティなど簡単なものは大丈夫だったが、失敗も良くあった。焼きすぎたり、辛かったり、甘すぎたりと失敗しても、僕は笑顔を作り、食べた。
掃除や洗濯は頑張っていたが、やはり由希子のようにはいかなかった。のぞみなりに、頑張ってやっていた。家事はもちろん僕も手伝った。熱帯魚だけでは寂しかったので、オカメインコを一羽買った。雄だったようで、頬は鮮やかな黄色を帯び始め、機嫌が良いと歌を歌った。のぞみはドラえもんの歌を毎日教えていた。オカメインコの名前は、こなつと名付けた。こなつは羽を切っていなかったので、部屋じゅう飛び回った。籠に入れると、ピーピー鳴いてうるさかった。のぞみはずいぶん、こなつと仲良くなり、気に入っていた。こなつものぞみに良く懐いていた。
 夏には、新婚旅行として伊豆に行った。知り合いのつてだった。快適に泊まることができるペンションで、五十代の夫妻が経営していた。料理も美味しいらしいし、温泉もあった。本当は海外でも良かったのだが、のぞみは病気を抱えていたし、海外でトラブルがあっては困る。彼女は温泉に浸かりたいと希望したので、伊豆のペンションになった。
 夕食は、スズキのパイ包み焼きや、サーロインのステーキ、サラダにコーンスープ、フランスパンといったものだったが、とても美味しかった。昼間のうちに、海水浴を楽しみ、僕たちは少し疲れていた。
露天風呂に入り、テラスで読書をした。のぞみは、テレビを眺めていた。幸せだった。
星はところどころ、輝きを放っていた。月が雲のあいだに隠れ、辺りは薄暗かった。本を
閉じた。時計を見ると、夜の十時だった。僕はのぞみに、寝る前の薬と睡眠薬を飲ませた。
「おやすみなさい」と僕は言った。
「おやすみ、ゆうすけおじちゃん」
 結婚してからも、彼女は僕のことをゆうすけおじちゃんと呼んだ。癖が抜けないらしかった。僕にはそのことがおかしかった。僕は自動販売機でビールを買うと、ダイニングで飲んだ。静かだった。虫の鳴き声が、外から響いていた。
 夏希とは連絡をとっていなかった。彼女と何を話せば良いのか分からなかった。岩崎は、仲良く夏希と付き合っている。彼とも、あの一件以降、どことなく距離があいてしまっていた。仕事が終わって、飲みに行くこともなくなった。話すこともなく、目を合わすこともなかった。
 時々、あのバーへ行くが、由里とはどういうわけか会わなかった。彼女はいったいどこへ行ってしまったのだろう。そして、由希子は今頃いったい何をしているのだろうか。僕はビールを飲み干した。部屋に戻った。のぞみは寝息を立てていた。彼女は孤独じゃないのだろうか・・・・・・。
 僕は少しずつ孤独になっていた。孤独にさいなまれていったと言っても良かった。のぞみがいるというのに、どうしてこんな気持ちを抱くのだろう。僕が望んだ生活だった。あらゆるものが、前進をゆっくりと停止し、留まっている。まるで、まどろみのなかにいるみたいだ。
「神様」と僕は口にした。そして、眠りについた。

さゆりは時々、僕たちのマンションまで遊びにきた。彼女がやってくると、のぞみは明るくなり、嬉しそうだった。デイケアでのぞみがいないから、寂しいとかそういったことを言った。僕たちはトランプをしたり、カラオケに行ったり、ファミリーレストランで夕食をとったりした。
「お二人とも、幸せそうで何よりです、羨ましいです本当に」
「毎日楽しいんだよ。ゆうすけおじちゃんがお仕事行っているあいだは、ちょっと寂しいけど、こなつちゃんと遊んでいるから!」
「できるだけ早く帰ってくるようにしているんだけどね。料理は少しずつ上手くなっているし、結婚して良かったよ」
「でも、のぞみ、子供が欲しいな・・・・・・」
僕は黙った。のぞみは寂しそうな目をした。
「どうして、私たちはこんなにも不完全なんでしょうね?」とさゆりが言った。とても小さな声だったが、きっぱりとした口調だった。
「不完全?」僕は訊いた。
「私の飲んでいる薬のひとつはコンサータと呼ばれています。知っていますか?」
知らない、と僕は言った。
「簡単に言うと、覚醒剤みたいなものです」重々しい言葉だった。「のぞみさんが飲んでいる薬のなかには、劇薬指定のものがあります。抗精神薬は、本当に危ういのです。ベンゾゼアゼピン系睡眠薬サイレースアメリカでは所持しているだけで逮捕されます。ハルシオンは全英やブラジルで禁止され、ジプレキサアメリカで薬害の大規模な裁判となり原告が勝訴しています。すべて、のぞみさんが飲んでいる薬です・・・・・・。もし祐介さんがのぞみさんの立場となったら、飲みたいですか? 毎日気持ち良く飲み続けることができますか?」
 僕は何も言えなかった。さゆりは続けた。「統合失調症の患者の平均寿命は六十歳です。また、精神障害の患者は全国に四百万人いて、働いているのはわずか五万人です。知っていましたか?」
 僕は首を横に振った。
「祐介さんは理解がある人だと思います。優しいし、本当にのぞみさんのことを愛している。だけど、その理解を超える日がやってくる可能性もあるのです」
 さゆりを駅まで送り、マンションに戻った。のぞみはシャワーを浴びていた。シャワーの音は、リビングまで届いていた。僕はさゆりの言葉をひとつひとつ点検していた。理解とはいったい何だろうか・・・・・・。僕は本当にのぞみのことを理解していると言えるのだろうか。
 そして、その日がやってきた。

 十二月の冷たい朝だった。その日、目が覚めると、のぞみはリビングにいた。珍しく、朝食の準備はしていなかった。仕事に行かなくてはいけないので、僕は仕方なく、レトルトの食品を温めて、食べた。コーヒーは自分で作った。
のぞみはひたすらテレビを見つめていた。ニュース番組だった。朝のニュース。交通渋滞が首都高であり、北海道地方で強い揺れの地震があった。大阪の地下鉄で人身事故があり、電車が停まっていた。政治家の政治的混迷が報道され、女性のキャスターは厳しい口調で、糾弾していた。
「会社は怖い人でいっぱいだから、お仕事は休んだ方が良いわ」
「怖い人?」
「マフィア」
 何を言っているのか分からなかった。冗談を言っているのだと思った。
「のぞみ、そういうわけにはいかないんだよ。ズル休みすると、クビになっちゃうからね」
 彼女はニュースを凝視していた。普段、アニメとか子供向け番組しか興味がないのに、おかしな様子だった。僕は首を傾げた。彼女はそれ以上、何も言わなかった。胸騒ぎがあったけども、会社に行った。
 午前中の仕事が終わり、昼ご飯を食べた。同じチームの同僚と食べていた。喫煙所で
煙草を吸い、席に戻った。十二時五十分だった。電話が入った。のぞみだった。
「はい」
「盗聴器が仕かけられているの、家にいたくない・・・・・・」彼女の声は震えていた。
「ちょっと待ってくれ。今日は何だかおかしいよ、変だ。調子が悪いのなら、一緒にお医者様のところに・・・・・・」
「私はもう普通の女の子なの! お医者様のところになんか行かない!」
 電話が切れた。彼女の言葉は、しばらく耳に留まっていた。僕は部長に言って、会社を早退した。タクシーに乗って、自宅に向かった。何度かけても、のぞみは電話に出なかった。ラインでメッセージを送ってみたが、未読のままだった。
 マンションに戻った。僕は目を疑った。カーテンは切り裂かれ、観葉植物の鉢は逆さまになり、ベッドの上には包丁が転がっていた。のぞみはどこにもいなかった。僕は彼女が使っている引き出しを開けた。すると、大量の処方薬が出てきた。彼女は薬を飲んでいなかったのだ。いったい、いつからだろうか。僕はさゆりの言葉を思い出していた。のぞみが飲んでいる薬のなかには、海外では取り扱い禁止となっているものもあった。薬害裁判となったものもあった。のぞみは辛かったのだ、薬を飲み続けることが。何より、子供が欲しかったのだろう。愕然となった。膝が震えた。僕は深呼吸を何度か行った、落ち着く必要があった。 僕はのぞみの父親に電話をした。彼は行方を知らなかった。僕はさゆりに電話をした。さゆりも行方を知らなかった。僕は警察署へ行って、事情を話し、捜索願を出した。女性の若い警察官は親身になって、話を聞いてくれた。僕は、ほとんど泣きそうになっていた。会社に電話をし、説明した。しばらくの休みをもらった。クリニックに電話をし、医者につないでもらった。
「入院ということになるでしょうね、在宅医療では難しいでしょう。易怒性と言って、怒りやすくなっているのかもしれないですし、幻覚を見て、幻聴があるでしょうね。府中の病院に空きベッドがあるか確認をとった方が良いです」
 僕はその通りにした。空きベッドはあった。入院? 頭が真っ白になった。僕は言葉を失った。夜の十一時過ぎまで、警察署にいた。若い女性警察官はずっと付き添ってくれた。中年の男性警察官は、心配そうな表情を浮かべた。親子丼を差し入れされたが、ほとんど食べることができなかった。
「居所が分かりましたら、すぐにお知らせします」と彼らは言った。僕はマンションに戻った。明かりがついていた。ドアが開いていた。リビングにのぞみがいた。彼女は何をするわけでもなく、ぼんやりと白い壁を見つめていた。
「心配したよ」
「ごめんなさい」いつもののぞみの声と表情だったので、ほっとした。
「明日、病院へ行こう、薬を飲んでいなかったんだね?」
 彼女は返事をしなかった。
「責めたりはしないよ」
「私のことを愛している?」
「うん」
「薬はもう飲みたくないの、朝は酷かったけど今は落ち着いているし」
「のぞみ・・・・・・」僕はどうして良いのか分からなくなった。彼女は涙を流していた。うっすらとした涙は、静かに流れ落ちた。
「とにかく、今日は寝なさい」
「分かった」
 僕はのぞみの父親に電話をした。彼は知らせを聞いて、安堵した。病院には連れて行った方が良いと主張した。僕も同じ意見だった。さゆりに電話し、警察署に電話をした。のぞみはベッドのなかで、すやすやと眠っている。
 翌日、のぞみはまた不安定になった。電波がどうのとか、金星人がどうとか、いろいろなことを言い始めた。彼女は深く混乱していたし、叫び回った。興奮状態だった。僕は警察に事情を説明し、府中の病院までパトカーで運んでもらうようにお願いした。のぞみはパトカーが病院に向かっていることを知ると、泣き叫んだ。その悲痛な声は、鼓膜にこびりついた。
 入院の手続きを行った。医者曰く、入院期間は三ヶ月間の見込みですが、退院時期は今のところ未定とのことだった。
「薬を飲み続けることが難しいのであれば、注射などいかがですかね?」と医者は僕に言
った。
「注射ですか?」
リスパダール・コンスタ、ゼプリオンなど統合失調症患者向けの注射が開発されていま
す。ゼプリオンは一ヶ月に一回、通院の際に打つだけで良いですし、お勧めです。インヴ
ェガの注射版です」
「少し、考えさせてください」
 僕は医者の顔を見た。彼は、まだ若そうだった。
「薬を止める方法はないのですか?」
 医者は目を細めた。僕をじっと見つめた。
「すべての薬をですか?」
「はい」
「飲み薬を止めて、注射もせずに、睡眠薬まで飲まずに日々を暮らすということですか?」
「そうです」
 彼は困ったような顔をした。「わずかの患者さんは薬を止めても、寛解状態を維持することができます。しかし、ほんの一握りです。のぞみさんの場合、無理です。不可能ですね。症状は再発しています。今回、自己判断で断薬しましたが、本来は危険なことです。命を落とすことになってもおかしくない。この病気は、薬とうまく付き合っていくことが大事なんです、ご理解ください」
 僕は何も言えなかった。
 マンションに戻ると、より寂しさが増した。病院は携帯電話が持ち込み禁止で、のぞみとは連絡が取れないし、そもそも備え付けの電話は許可をもらっていない。許可が出るのは、彼女の精神状態がもっと良くなってからだろう。僕はとりあえず、部屋の片付けを始めた。片付けが終わると、風呂に入った。アルコールをとる気にはなれなかったので、コカコーラを飲み、椅子に座った。
 のぞみだって戦っているのだ、と僕は思った。

毎週、土曜日の昼間には必ず面会に行った。冷たい雨の日も、もっと酷い天気のときも必ず行った。のぞみは、ほとんど言葉を口にしなかった。表情が奇妙に平板だった。だから、僕が一方的に話をした。感情鈍麻というらしかった。以前の明るかったのぞみに戻って欲しい。僕は切に願っていた。
 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。彼女は少しずつ、笑うようになった。僕の話が特段、面白いというわけじゃないのに、彼女は僕の姿を認めると、笑みをこぼす。僕は嬉しかった。少しずつ、声を出すようになった。話をぽつりぽつりとすることもあった。状態が良くなったので、彼女は大部屋に移った。三ヶ月が経過していた。
「そろそろ、外泊を許可しても良いです。受け入れの準備は大丈夫ですか?」と医者が言った。「精神状態は良好です。外泊が成功すれば、退院を許可しましょう」
「ありがとうございます。それでは、来週の土曜日に迎えに来ます。午後の一時くらいです」
「分かりました。看護師に伝えておきます」
 僕は胸が高鳴った。これ以上、嬉しいことはなかった。のぞみがもうすぐ退院できる。僕はのぞみの父親に電話をした。彼も喜んでいた。「このたびは、娘がご迷惑をかけて、本
当に申し訳がなかった」と詫びた。
「いいえ、僕こそ分かってあげることができていなかった、理解が足りなかったと思います」
「祐介君は、十分に理解しているし、立派な夫だと思うよ」
「同じ病を抱えた者同士じゃないと、たぶん理解なんてできないんです。いや、それでも
理解にはほど遠いかもしれない」
「なるほどね」
「退院したら、パーティーをしませんか? そちらまでお連れします」
「ああ。ありがとう。お母さんにも伝えておくよ」
 外泊の日、のぞみはテンションが高かった。もう、元通りだ。あと、一息だった。僕は彼女とリビングで時間を過ごした。映画のDVDを二本観た。アニメの映画だった。のぞみは笑顔で、アニメを眺めていた。彼女の手は、僕の手を握っていた。夕方にはファミリーレストランへ行って、夕食を食べた。のぞみは煮込みハンバーグを食べ、僕はボンゴレのスパゲティを食べた。彼女は病院のなかのことを何度か語った。看護師は優しいらしかった。のぞみの悩みを聞いてくれたり、トランプやオセロを一緒にしたり。患者とはテーブルを囲み、おやつを食べて談笑していた。入院生活だからトラブルもあった。その際にも、看護師は機敏に動いた。僕はそういった話を聞いていた。良い病院だと思った。
「のぞみ」僕はベッドのなかで彼女と手をつないでいた。「お薬は仕方ないんだよ、好きで飲んでいる人はいない」
「分かっている。ごめんね。心配かけて」
「お医者様に相談しながら、子供作ろうか?」
「ほんと?」
「うん、大変なことだと思うけど」
「ありがとう、のぞみ嬉しい!」
 僕たちはキスを交わした。唇と唇を合わせ、キスをした。
「普通っていったいなんだろうね? 私は普通じゃないのかな?」と彼女は言った。
「あまり考えなくても良いと思うよ」
「分かった。そうする! おやすみ」
 外泊が終わり、一週間後にのぞみは退院した。退院した日は木曜日だった。僕は会社を休み、彼女を迎えに行った。のぞみは笑っていた。嬉しそうだった。週末の土曜日には、のぞみの実家で、パーティーを行った。飾り付けをし、ケーキを買ってきて、母親は料理を作った。父親はクラシックギターでいくつかの曲を演奏した。ビートルズの曲だった。
「のぞみ、赤ちゃんを産むの!」
「本当かい? 祐介君」
「はい、医者と相談しながらですが。おそらく、薬の量を減らして、リスクを軽減すると思います」
「孫の顔が見られるわけだ、夢みたいだな、お母さん」
「ええ」
「今晩は泊まっていきなさい、パジャマや寝室は用意してある」
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「わーい」
 のぞみが寝静まったのは夜の十時だった。僕は父親と飲み交わしていた。彼は富乃宝山という芋焼酎をお湯割りで飲んでいた。僕も同じものを飲んだ。
「のぞみは本当に幸せだと思う、君のような人と出会えて」
「そうですかね、もっと優しい人はいるかもしれません」
「いないよ、おそらく・・・・・・」
 彼は焼酎を飲み、ソフトイカを食べた。「結婚して良かったかね、正直なところどうなんだ?」
「分かりません」
「分からないか、そりゃそうだろう。私も分からん、親としてできる限りのことはしたつもりだが、分からないんだ。最初は何故うちの娘に限って、と思った。呪ったよ、運命を、病を。憎んでも仕方がなかった。のぞみは記憶を失ったままだし、知能は小学校中学年くらいだ。多くのものを失った。無くしたというべきなのかな・・・・・・。でもね、ないならなりなりに、やっていくしかないんだよ」
 僕は彼が言わんとしていることが、理解できた。
「そうですね。僕も最善を尽くします」
「ありがとう」
「そろそろ寝ますね、おやすみなさい」
「おやすみ」父親は笑った。
 寝室の窓から、月のあかりが射し込んでいた。柔らかいひかりだ。僕はのぞみの寝顔を見た。彼女はぬいぐるみを抱いて眠っていた。とても幸せそうだった。僕はベッドに入り、彼女の手を握った。そして、目を閉じて、ゆっくりと眠りに入った。
 のぞみの退院に合わせて、仕事を辞めた。貯金はある程度あったし、IT系なので再就職には困らないだろう、と思った。僕はのぞみとの時間の共有を選択した。彼女はすっかり元ののぞみに戻っていた。一緒に料理をしたり、掃除をしたり、映画を観たりした。彼女は幸せそうだった。良く笑うようになった。
 のぞみが再入院し退院してからの方が、ずっと絆が深まったような気がする。彼女が笑うまでには時間がかかったし、彼女が言葉を発するまでには相応の時間がかかった。だから、元に戻ったことは本当に嬉しかった。週に一度は、渋谷や六本木、池袋などのレストランで食事をした。のぞみは少しだがアルコールをとった。ほんのりと頬を赤らめた。かわいらしかった。
 季節は夏になっていた。海を観に行ったり、水族館へ行ったりした。山に登ることもあった。のぞみはこんがりと日焼けした。彼女は僕との時間を楽しんでいた。相変わらず無邪気だった。何も心配していないという様子だ。
「ゆうすけおじちゃん、もうすぐお仕事探し始めるんでしょ?」
「そうだね、いつまでも遊んでばかりはいられないよ」
「のぞみ、また一人になるね・・・・・・」
「お仕事行っているあいだは、こなつちゃんと遊んでおいで。残業はできるだけしないよ
うにするから」
「うん。分かった」
 彼女の表情には一抹の寂しさが浮かび上がっていた。僕は彼女の肩を抱いた。肩は温かかった。
のぞみは風呂に入った。僕は缶のビールを飲みながら、小説を読んだ。海外のミステリー小説だ。耳が寂しかったので、音楽をかけた。
僕は煙草が切れそうだったので、コンビニエンスストアに行こうとマンションを出た。午後の七時半だ。エレベーターで降り、エントランスをくぐると、人影があった。僕の良く知った女の子が立っていた。彼女はにっこりと微笑み、僕の方に近寄った。
「こんばんは」と彼女は言った。由希子だった。

 暗い夜道を歩いた。僕は先を歩き、由希子はついてきた。駅前に近づくに従って、次第に明るくなっていく。由希子は黙っていた。僕はまっすぐに前を見ていた。由希子との記憶が、駆け巡る。懐かしい日々。いったい、どうして今頃になって、姿を現しただろうか。しばらく歩くと、カフェがあったので、そこに入った。僕たちは椅子に腰を下ろした。彼女はメニュー表を見て、オレンジジュースを注文した。僕はアイスコーヒーを頼んだ。ウェイトレスはかしこまりました、と言って頭を下げ、去っていった。
「ずいぶん、久しぶりね。懐かしくなって、マンションの前まで来てみたの。あなたに会えるかもしれないって。しばらく待ってみた。ほんの、十分か十五分、すぐに帰るつもりだったし、期待はしていなかった。だけど、会うことができた」
「心配していたよ、あの日からずっと」
「ずっと?」
「そう」
 店内の客はまばらだった。空間ばかりが目立つ。僕は煙草を取り出して、火を点けた。最後の一本だった。
「仙台に住んでいるの、いろいろあって最後には仙台に行った。良いところよ、緑は豊かだし、人々は温かいし。そこでカフェを営んでいるの、夫婦で。カフェ海音が懐かしいわ」
「結婚したんだ?」
 彼女は微かに微笑んだ。「うん。あなたは?」
「結婚したよ」
「のぞみさんと?」
「うん」
 アイスコーヒーとオレンジジュースが届く。ご注文はお揃いでしょうか、とウェイトレスは訊く。僕は返事をする。彼女は踵を返して、去っていく。
 由希子はオレンジジュースが入ったグラスにストローを差して、吸った。にっこりと笑った。
「幸せなの? あなたは?」
「そうだね、大変なこともあったけど、今は幸せだ。満足している」
 彼女はその先を尋ねなかった。何も訊かなかったし、僕は話そうかどうか迷っていた。緩やかな時間の流れだった。奥の席の人は、熱心に小説か何かを読んでいる。
「偶然、主人に出会ったの。仙台のカフェに毎日通っていた。ホテル住まいは変わらなかったけど、行く先がなかった。私は仙台を気に入っていたし、しばらくはここに留まってみようと思っていた。やることがなかったから、カフェで来る日も来る日も小説を読んでいたのよ。すると、ある日、話しかけてくれて。『良かったら、お話しませんか?』ってね。嬉しかった、心の底から。彼は、私の孤独をどこまでも癒してくれた。そんなにかっこいいわけじゃないけど、心を許せる相手となった。すぐに付き合い始めた。同棲をスタートさせた。自然と、結婚を意識するようになった。そして、結婚した。ささやかな結婚式を行って、タヒチへ新婚旅行に行った」
 彼女は、またオレンジジュースを飲み、僕の方を見た。「事情があって子供はいないの」
「僕のところは、子供を作ろうとしている。うまくいくかどうか分からない。のぞみは服薬
をしているから、障害を持った子供が生まれてくる可能性だってある」
「のぞみさんが強く、望んでいるの?」
「うん」
 僕はアイスコーヒーを飲んだ。「夏希ちゃんとは連絡を取っているの?」
「取っていないの、あの子は何も知らない。あなたは?」
「何となく、距離があいてしまってね」
「そうか」
「岩崎とはたぶんうまくいっているだろうね。僕は仕事を辞めたんだ。のぞみが入院して、大変だった。今は違う会社に勤めている」
「どうして入院したの?」
「薬を止めていたんだ。精神がおかしくなった」僕は重々しい口調で、言った。「のぞみにとって、薬を飲み続けることは辛かった。僕はそれを分かってあげることができていなかった。同じ障害を持ったのぞみの友達に聞くと、いろいろと薬に問題があるらしくてね、何より彼女は普通の女の子に戻りたかったみたいだ」
「今は理解しているの?」
「前よりはずっと、理解するようになったよ」
「そうなんだ」そう言って、由希子は微笑した。「私は祐介に出会って、良かった。あなたがいたからこそ、今があるの。あのとき、渋谷のカフェで話しかけてくれなかったら、もっと違った未来にいたはず。今よりも、おそらく暗く険しい道を歩いていたと思うの、あの頃は精神状態が優れなかったし、ひっそりと SOS 信号を出していた」
「僕も君と出会っていなかったら、今の未来はなかったと思う」
 彼女はにっこりと笑った。明るい笑顔だった。
「良かった、幸せそうで」
「ありがとう」
「おなかすいていない?」
「ううん。それに、もう行かなくちゃ」彼女は席を立ち上がった。「偶然会うことができてよかった。もう、顔を合わすことはないと思う」
「寂しくなるね」
「仕方ないわよ」
 僕たちはカフェを出た。駅まで彼女を送っていった。彼女は、改札口の内側から大きく手を振った。「さようなら」
「さようなら」
 そして、プラットフォームへ続く階段を上っていった。僕はコンビニエンスストアに行って、煙草を一箱買った。
 マンションに戻ると、のぞみが座って絵本を読んでいた。微笑ましい光景だった。
「どこに行っていたの?」
「煙草を買いに」
「遅かったね」
「ばったり、知り合いに会ってね。ちょっと、話をしていた」
「何の話?」
「お互いの幸せについて」
「そっか・・・・・・」彼女はまた絵本に目をやった。

結婚して五年が経った。僕たちのあいだには、三歳の娘がひとりいる。あどけなく、かわいらしい娘は、少しだが言葉を話すようになった。名前は、かおりといった。柏木かおり。のぞみが付けた名前だったが、僕も賛成だった。何故、その名前にしたのかまでは教えてくれなかった。「それは、秘密なのよ、絶対に教えないから」と彼女は笑った。
 かおりは健康な赤ん坊として生まれた。障害を持って生まれてくることはなかったし、薬の悪影響が及んだこともなかった。運が良かったのかもしれない、あるいは、本当に神様はいるのかもしれない。祈りは通じたのだ。かおりは普通の女の子だった。
 日々は充実していた。のぞみは子育てに精一杯だが、幸せそうだった。彼女の実家も喜んだ。孫を連れて行くと、決まって笑顔になった。僕の実家に連れて行くこともあった。僕の両親も喜んでいた。かおりの存在は、果てしなく大きかったし、僕たち家族の中心になっていた。
 時々、うまくいきすぎている、と思うことがある。どこかで、落とし穴が待っているのではないか、また何か持ち上がるのではないか、と。しかし、のぞみの笑顔を見て、かおりのあどけない姿を見つめているうちに、その疑念は、つまらないことのように感じた。きっと、このまま、上手くいくだろう、と僕は思った。
公園でのひとときだった。家族三人で、近くの公園に遊びに来ている。春の朗らかな陽気で、太陽は優しく輝いていた。向こうの方で、子供たちが遊んでいる。僕は、ベンチに座っていた。
緑の葉を茂らせた木々は、風に揺れている。
「かおり、のどは渇いていない? 大丈夫?」とのぞみは訊いた。
「うん、だいじょうぶ。ママ、あっちでブランコに乗ろうよ」
「はーい」
 かおりはてくてくと歩き、ブランコに近寄っていく。のぞみが後ろを付いて回る。僕はにこやかに、その様子を見つめている。
 ここが僕たちの着地点なんだ。この場所を置いてほかにはなく、この場所でなくてはならなかった。高校二年生のとき、のぞみと初めて付き合ったときから、決まっていたような気がする。きっとそうなのだ。
僕は彼女たちが遊んでいるブランコまでゆっくりと歩いていった。彼女たちは日々成長
していたし、僕も成長していた。
僕は笑顔を作った。
「今日は、パパが夕ご飯を作るね」
「煮込みハンバーグがいい!!!」のぞみとかおりは口を揃えて言った。彼女たちは、笑顔
になった。
「うん」僕はそう言って、かおりの頭を撫でた。

 

愛ならどこにあっても構わない(10)

 

 

秋が終わり、冬がやってきた。十一月の初旬になった。岩崎と夏希は、仲良くやっていた。彼らと僕と由希子の四人で、ダブルデートに行ったりもした。由希子は製薬会社の仕事をこなしていた。帰りが遅くなることも多くなった。僕は料理の勉強を始めた。簡単な料理なら作ることができた。由希子は夜の十時過ぎに帰宅することもあったし、もっと遅くなることもあった。そんなに遅くまで、会社で何をやっているのだろうと不思議に思った。
 のぞみの家に遊びに行ったとき、さゆりがいた。三人で遊ぶ約束をしていたのだ。確かに美しい女の子だった。髪は短いが、黒々としていてつやがあり、両方の目が綺麗で印象的だった。話した感じも、特に障害があるとは分からなかったし、至って普通だ。僕たちはトランプゲームをした。スピード、神経衰弱、大富豪。楽しかった。さゆりは屈託なく、時折、笑顔を見せる。
「さゆりちゃんには、年上の恋人がいるんだよ。大阪に住んでいてなかなか会えないんだって」
「何歳くらいの?」
「三十五歳!」のぞみは嬉々として言った。「おじさんだよね、でも、かっこいいし、優しいんだって」
「学習塾の事務をしているのです、インターネットで知り合って。ほら、こういった病気の人って、なかなか友達ができないし、恋人はなおのことだから。良くインターネットで人とコミュニケーションをとっているんです。スカイプとか、ラインとかツイッターとか。メンタルの人々が集まったスカイプの会議に参加することもあります」
 さゆりは透明なアップルジュースを飲み、微かに笑った。
「友達が少ないの?」
「リアルでは」
「そうか。僕とも友達になろうよ。時々、遊びに行こうね」
「ありがとうございます」
「駄目だよ、いくらかわいいからって、さゆりちゃんを好きになっちゃ。ゆうすけおじちゃんには、のぞみがいるんだからね」
「お二人は付き合っているのですか?」彼女は驚いたような表情になった。
 僕が返答に迷っていると、のぞみが「うん! そうそう」と笑った。
「祐介さんは健常者ですよね? 健常者の恋人を見つけないのですか? 私の彼は軽度の障害を持っています。アスペルガー症候群です。塾の事務といっても、障害者枠です」
「健常者の恋人?」僕はその言葉を繰り返した。
「普通はそうしますよ」
「ゆうすけおじちゃんは浮気をしているの! 由希子っていう名前なんだって。私の方がかわいいんだよ、ほんと!」
「やっぱり、そうですよね」さゆりの言葉は、奇妙な質量を帯びて僕の心に溶けていった。
 のぞみは当然、僕の心の温度差に気付いていなかった。健常者の恋人を見つける? 僕はのぞみを障害者と思ったことは一度もない。のぞみだって自分のことをそんなふうには思っていないだろうが、現実には、障害者手帳を交付され、障害者年金を受給している。さゆりは、自分を障害者として強く意識している。二人の病気へのスタンスは違った。
 帰り道、僕はさゆりの言葉によって、様々なことを考えさせられたし、表現することのできない気持ちになった。新宿駅近くのスターバックスに寄って、スターバックスラテを注文し、雑誌を読んでいた。時刻は夜の八時だった。夏希から電話が入った。
「もしもし、祐介さんですか?」
「うん、どうしたの?」
「今、どこにいます?」夏希の声はいつもと違った。どことなく、切迫した雰囲気だ。
「新宿のスターバックス、雑誌を読んでいるよ」
「会いたいんです、今からそちらへ行っても構わないですか?」
「うん。良いよ。何分くらいで着く?」
「四十分くらいかな、待っていてくださいね」
 電話はふっつりと切れた。いったい、何の用だろう? 岩崎のことで相談があるのかな、とも思った。僕はレジへ行ってスターバックスラテをもう一度注文し、レシートを受け取った。おとぎ話に出てくるようなかわいらしいランプの下で、ドリンクが出てくるのを待った。ドリンクを受け取ると、テーブルにそれを置いた。煙草が吸いたかったので、喫煙所に行き、メビウスを一本吸った。
 席に戻ると、雑誌を眺めながら夏希を待った。店内は混み合っていた。夏希は予定より早く、スターバックスにやってきた。表情は浮かなかった。あまり、楽しくない話題なのかもしれない。
「お待たせしました、すいません、急に」
「良いよ。レジへ行ってきなよ。コーヒー代は奢るし」
「ありがとうございます」
 十分後に、彼女はドリンクを持って戻った。コートを脱ぎ、黒いセーター姿になった。首元には細い金色のネックレスが輝いている。
 僕はスターバックスラテを飲み、彼女の様子を伺っていた。彼女はプラダのハンドバッグから、何かを取り出した。写真だった。
「現像してきたんです、大変なことだと思って」
 僕はその写真を手に取った。スーツ姿の由希子と知らない男が腕を組んで映っている。男の容姿は、特段美男子というわけでもなかった。年齢は四十代くらいだろう。中年の男だ。僕は動転した。何なんだ、この男はいったい・・・・・・。
「由希子お姉ちゃん、最近帰りが遅かったりとかしないですか?」
 僕はしばらく経ってから、答えた。
「そうだね。十時、十一時を過ぎることもある。仕事だと言っていたよ」
「浮気をしているんです」彼女は重々しい口調で言った。
「まさか」
「お姉ちゃん、ホテルに入っていったんですよ、この男の人と」
 僕は絶句した。頭が真っ白になった。
「何かの見間違いだろう?」
「そうじゃないんです、だいたい妹なのに、見間違うわけがないです」夏希は、表情を消しながら言った。
「でも、どうして? 僕にいったい何の不満があるのだろう? 由希子はそんな女の子じゃなかった」
「その写真はあげます。お姉ちゃんと良く話し合ってください。私は将来、祐介さんと由希子お姉ちゃんは結婚すると思っているし、結婚には賛成です。だけど、別に男の人がいたとなったら、話は全然違ってきます。由希子お姉ちゃんはそんな人じゃありません。何か、理由があると思うのです」
 僕は呆然と、その写真を眺めていた。
「一週間ちょっと前に、渋谷の街を歩いていたら、偶然出会ったんです。由希子お姉ちゃんは私に気付かなかった。私が問い糾してみようとも思ったけど、祐介さんの方が良いかなと思って」
「ありがとう」
 彼女はドリンクを飲み干した。「それじゃ、私、帰りますね。ごちそうさま」
 僕は席に取り残された。いつか、由希子が涙を流しながら帰ってきた日を思い出した。お互いの秘密について、考えてみた。僕は席を立った。マンションに戻らなくてはならない。外に出ると、冷たい風は強く吹いていた。僕の足取りは重たかった。

 十二月になった。僕は由希子に問い糾すことがなかなかできなかった。彼女は相変わらず、遅くに帰ってくるし、休日はどこかに出かけることもあった。探偵事務所に依頼しようとも考えてみたが、気が進まなかった。僕は彼女がいないときに、その写真を眺めた。男はどこにでもいるようなサラリーマンで、由希子と腕を組んでいる。背景には渋谷のホテル街と無名の集合的な人々。僕は煙草を吸った。岩崎に相談しようとも思ったが、止めておいた。これは僕と由希子の問題なのだ。岩崎を巻き込むのは間違っている。彼も混乱するかもしれない。
 土曜日の朝だった。僕たちは久しぶりにデートへ行った。上野の美術館を回り、タイ料理のレストランでグリーンカレーのランチを食べ、ビールを飲んだ。由希子はいつになく
饒舌だった。明るかったし、綺麗だった。
 ブティックで買い物をして帰ってきた。彼女はたくさんの洋服を買った。製薬会社に入ってから、しばらくして金遣いが荒くなった。クレジットカードを使うようになり、病的に商品を購入した。洋服やアクセサリーが中心だった。いったいどこからそんなお金が出てくるのか不思議だったが、きっとスポンサーはあの男だろう。
 スーパーで買い物を済ませ、由希子は夕食の準備をした。包丁の音が、リズム良く耳に
届いた。僕はリビングで待っていた。香りが漂ってきた。
 静かだったので、音楽をかけた。僕は落ち着かなかった。じりじりと時間だけが経って
いく。
 意を決した。
「男がいるのか?」自分でも驚くぐらいスムーズに言うことができた。口にしてみると、あっけなかった。彼女は包丁を持つ手を止めた。ゆっくりと、僕の方を振り向いた。彼女の目には、何も浮かび上がってはいなかった。黒い瞳は蛍光灯のひかりを吸い込んでいる。茶色のエプロンを脱いだ。ガスコンロの火を消した。
「何も問い詰めようと思っているわけじゃないんだ・・・・・・。ただ、わけを知りたくて。僕
のことが嫌いなのか?」
 そうじゃないわ、と彼女は言った。目をうっすらと閉じていた。「そっか、知られたくない秘密だったんだけどな」
「夏希ちゃんが教えてくれたんだ。写真だってある」
「コーヒー、飲む?」
「うん」
 ティファールでお湯を沸かしているあいだ、僕たちは無言だった。由希子は微妙な表情を浮かべていた。僕は言葉が出てこなかった。彼女といったい何について、話をすれば良いのだろうか。分からなくなっていた。
 コーヒーを飲みながら、由希子はぽつりぽつりと話をした。相手は製薬会社専務の叔父の義理の弟で、同じ製薬会社の課長のポストに就き、妻子はあり、そして由希子との肉体関係はあった。僕は予想していたものの、事実として突きつけられると、吐きそうになった。嫉妬ではなかった。絶望でもなかった。ただ、黒い虚無がやってきた。
「叔父さんは知っているのか? このことを」
「知っているわ、不倫相手になることが、製薬会社の仕事を続ける条件だったの。最初は拒絶した。私には祐介いるし、無理な話だった。だけど、向こうはずいぶん私のことを気に入っていた。叔父は言った。私を仕事上、将来的に重要なポジションにつけるし、手間賃も与える。弟は君のことがとても好きなんだ。愛していると言っていた。手間賃はびっくりするくらいのお金だったけど、すぐに慣れていった。同時に、私の心は失われていったの、不倫をしていても何とも思わなくなっていった」
「あの日の涙は?」
 彼女はコーヒーをひとくち飲んだ。「初めて、抱かれたの・・・・・・。茫然自失で、涙が止まらなくて」
「馬鹿なことをしたね、本当に」
「私、変わったわよね。自分でも分からないの、止めることができないのよ。相手を愛しているのかもしれないと思うと、本当に自分のことが嫌になるの。私の心が暗い川のようにどこかに流れていく」
 僕は煙草に火を点けた。「君の言っていた秘密ってこのことかい?」
 彼女は肯定した。
「あなたの秘密っていったい何なの? 私は知りたい、フェアじゃないわ。時々、行き先も告げずに、どこへ行っているの?」
「分かった、話すよ」
 のぞみのことを初めてまともに話した。出会いや、愛の育み、突然の病気、記憶を失ったこと、一度は別れを告げたが、会い続けたことなど。今でものぞみとの日々を忘れることはできなかった。のぞみのことを愛しているのかもしれない、と最後に告げた。由希子は声をあげて、泣き始めた。胸が締め付けられる。鼓膜がぴりぴりと痛み、喉が渇く。大粒の涙が、流れていく。僕は黙って見ているしかなかった。
「お互い様じゃないの」
 僕は何も言わなかった。確かにその通りだ。
「少し考えさせて。あなたはファミリーレストランへ行って時間を潰してきて。十一時になったら、戻って来ても良いわよ」
 置き時計を見ると、八時二十五分だった。分かった、と僕は言って、靴を履いた。外の空気は、冷たかった。僕はできる限り、何も考えなかった。分からなかった。いろいろなことが、本当に分からなかった。
 ファミリーレストランから戻ってくると、由希子はいなかった。姿を消した。僕は電話をかけたが、彼女は電源を落としていた。部屋をあさってみると、彼女の通帳や印鑑が消えている。衣類などを持っていった形跡はなかった。僕は夏希に電話をして事情を説明した。彼女は心配してくれた。お姉ちゃんが連絡してきたら、すぐに知らせると言った。真夜中の街を探し歩きながら、僕たちはもう駄目かもしれないな、と思った。お互いの秘密は致命的だった。

由希子のいない生活は、寂しかった。冬の寒い時期だったし、渋谷の街はクリスマスムードで、赤や黄色の装飾がところせましと並んでいた。ネオンは輝き、イリュミネーションは鮮やかだった。仕方がなかった。由希子も悪かったし、僕も迂闊だったのだ。クリスマスには、のぞみの家でクリスマスパーティーを行った。母親が料理を作り、のぞみとさゆりは飾り付けをし、父親はクラシックギターでジョンレノンの『ハッピークリスマス』を弾いた。ギターの腕は見事なものだった。クラッカーが鳴り、ろうそくの炎が揺れ、のぞみがそれを吹き消した。僕はのぞみとさゆりにクリスマスプレゼントを渡した。のぞみにはティファニーのシルバーネックレスで、さゆりには小指にはめる指輪だった。二人とも喜んでいた。
 食卓にはチキン料理が並び、ムール貝と野菜のパエリアが色を添えた。料理はいつもながら美味しかった。のぞみの母親も料理が上手だった。僕はビールを飲み、料理を食べた。
「のぞみちゃん、今度僕のマンションで遊ばないかな?」
「どうして? いつも断っていたじゃん。それは、駄目だって」
 由希子はもう戻ってこないだろう。僕は笑顔を作った。
「祐介さん、確か由希子さんと同居しているんじゃ・・・・・・」
「事情があって、彼女は出て行ったんです」
「そっか」とのぞみは言った。「由希子さんとはもう付き合っていないの?」
「そうかもしれない」
「じゃ、今は恋人、私だけだね!」
「また、良い人見つかりますよ」母親は苦笑した。
「だから、のぞみがいるの!」のぞみは不満そうに言った。笑い合った。
食事が終わると、のぞみの部屋に行った。のぞみはトイレへ行くと言った。「先に、部屋
へ行っておいて」
さゆりと二人で、部屋に入った。
「あの、失礼かもしれませんが、本気でのぞみちゃんと付き合っていくのですか?」
「分からない。気持ちの整理がすぐにはつかないし、のぞみちゃんと付き合って良いのかも考えることができないよ」
「祐介さんはやっぱり健常者の人を恋人にしたいですよね」
「のぞみちゃんのことを障害者と思ってはいないんだ。そういった考え方はないな」
 さゆりは僕の目を見つめた。透き通るような純粋な目だった。
「だけど、私たちは障害者です。周りの目は、いつもそのようにあります。祐介さんみたいに、優しい人ばかりじゃないです、本当に」
僕は視線をそらした。
「辛いことが多いの?」
「とっても」と彼女は声に出して、言った。「結局、大阪の彼とは別れたんです。行き違いが多くて。年も離れていたし、難しかった」
「そうか」
「私たちはどこまでも孤独なんです、普通の人よりもずっと。抱えているものは重たいし、一緒に受け止めてくれる人は少なくて」
僕は何て言ったら良いのか分からなかった。
そのとき、のぞみが帰ってきた。
「たっだいま!」
「おかえり」さゆりと僕は言った。
「お正月に、遊びに行って良い? お年玉ちょうだいね、初詣行こうよ」
「うんうん、分かったよ」
「のぞみちゃん、一緒に折り紙しようよ」
「はーい、パンダさん作るね!」
 夕方になったので、僕はマンションに戻った。食事を作るのが面倒だったので、ファミリーレストランでハンバーグとサラダを食べた。ビールを飲み、ため息を付いた。由希子の不在は、鉛のように重たく、のしかかっていた。気をそらそうとしても、駄目だった。僕の傍には、常に由希子がいたから。
 ファミリーレストランを出て、しばらく歩いた。ショットバーで、ブランデーを注文した。入ったことのないショットバーだった。深い青の壁に、ダークレッドのカウンター、バーテンダーは若かった。僕と同い年くらいに見えた。金色の頭に、ピアスを身につけている。女性客がひとりいる。顔立ちは整っていて、ふっくらとしている。彼女も若そうだった。エナメルのバックがテーブルの上で輝いている。バーテンダー若い女性は仲良さそうに話をしている。いったい、何の話をしているのだろうか。
「良かったら、こっちに来て話しませんか?」と若い女性が言った。彼女はにっこりと笑
った。綺麗な女の子だった。
「お邪魔でしたら、すいません」バーテンダーは言った。
「邪魔じゃないよ、一人で退屈していたところなんだ」
 僕は立ち上がって、席を移動した。
「こんばんは。私の名前は、由里。年齢は秘密。仕事はオフィスレディー。丸の内で働いているの」
「僕は柏木祐介。この近くに住んでいるよ。品川でシステムエンジニアの仕事をしている」
「その哀愁漂う背中、さては、振られたわね?」
「そうだね、そのようなものだよ」僕は苦笑いをした。「彼女が出て行った。お互いに悪いことをしていたからね」
「そうですか」
「仕方ないわね」彼女はオレンジ色のアルコールが入ったカクテルグラスを傾けた。ルージュが怪しく輝く。「一人でいると、押しつぶされそうになるでしょう? 好きであればあるほどそうなのよね」
「柏木さんは、当店初めてですよね? ここは一人客が多いんです。あまりカップルとか
団体客は来ないので、安心していつでもいらしてください」
「すると、由里さんも独り身なの?」
「二十五年間、誰とも付き合ったことがないわ。あ、年齢がバレちゃった。好きになれないの、男の人を。どうしてかはよく分からない」
「一度も好きになったことがないの?」僕は驚いて訊いた。
「あるわよ。一人だけ。高校二年生のときだったわね、結局、恋は実らなかった。素敵な人だったわ、まるで一流ホテルのコンシェルジュみたいに、私に接してくれるの。私はバスケットボール部のマネージャーで、彼は部員でエースだった。ある事情で恋を諦めたときに、悟ったの。もう、他の人を好きになることはないなって。そういう感覚って分かる? この人以外には、興味がないというか、絶対にこの人じゃないと駄目。だけど、実らない
のよね。ついてないわ・・・・・・」
 彼女は大げさにため息をついた。少し酔っているみたいだった。頬が赤い。
「似たような経験をしてきたからね、よく分かるよ」と僕は言った。そして、ブランデー
に口をつけた。
「話してみて」
「長くなるから、止めておくよ」
「まあ良いわ、似たもの同士なのね」彼女は笑った。「続きを話して良いかしら?」
 僕は頷いた。
「グラスがあいているね、僕が奢るから何か飲みなよ」
 彼女はしばらく迷っていたが、カナディアンクラブのロックを注文した。バーテンダーは氷を用意し、グラスに入れ、その上にカナディアンクラブを注いだ。僕たちは、乾杯をした。店内は音楽が流れていた。コールドプレイの『イエロー』だった。
「理由があって、その人に恋をできなくなった。理由は何であるのかまでは、述べないけど、とにかく、恋をするわけにはいかなくなったの。私は、毎日夜になると涙を流したわ。すべてが終わってしまったような気分になった」
「私は、その理由を知っています。とても哀しいことだった」
 僕は何も言わなかった。ビールを注文し、ナッツを頼んだ。バーテンダーは、機敏に動作し、僕のテーブルにはそれらが並んだ。彼女は見計らったように、話を始めた。
「心のネジが飛んでしまったの、私の頭は崩壊寸前だった。精神科に連れて行かれ、何だったか病名を付けられて、薬が処方されたわ。薬は怖かった、自分が自分でなくなるような感じだった。私はますますふさぎ込むようになった。親も友人も、誰も私を救ってはくれなかった」
「薬を飲むのは大変だね、副作用もあるし」
「いろいろあって、今は持ち直している。薬は飲んでいないし、精神科には行っていない。時々、カウンセリングに通っている程度」
「持ち直したきっかけは何だったのだろう?」
「時間ね。膨大な時間を過ごしていくうちに、すり減っていた心がよみがえってきたの。少しずつ呼吸を始めた。動き出した」
「なるほど、僕にも時間が必要かもしれないね」
「時間は偉大ね、何もかもが過ぎ去っていくの」
 由里は銀色の腕時計を見て、しかめ面をした。「もう、こんな時間、行かなきゃ・・・・・・」
「短い時間だったけど、ありがとう」
「また、ここで会えると良いわね。週末には良くいるから、話そうよ」
 彼女は立ち上がると、会計を済ませた。そして、そそくさと出て行った。入れ替わりに、男性が一人入ってきた。初老の男だった。僕はこの男を見たことがあった。どこで会ったのかまでは思い出せなかった。彼は席に座ると、ヘネシーのロックを注文した。僕の方を一度見て、視線を外した。
 時間か、と僕は思った。由希子が出て行ってから、そう時間は経っていなかった。別れたと決まったわけではなかったが、時間の問題だろう。僕も悪かったし、由希子も悪かった。気持ちを切り替えなくてはならない。
「何か飲まれますか?」
「いや、もう帰るよ」
「チェックですね、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 会計を済ますと、僕は店を出た。アルコールはちっとも僕を癒してはくれなかった。余計に、僕の心は混乱していた。由希子とはこのまま終わるのだろうか。あっけないものだった。由希子との日々が、フィルムのように駆け巡った。僕は家路についた。クリスマスの夜は、寒かったし、イリュミネーションや飾り付けや音楽は他人のようだった。住宅街は暗がりだった。滑らかな闇が、広がっていた。マンションに辿り着いた。郵便受けに、手紙が入っていた。ライトブルーの便箋だ。裏には、由希子の名前が書いてあった。僕は部屋に戻ると、コーヒーを作った。酔いはまだ醒めていなかったし、落ち着きたい気分だった。手紙はテーブルの上に置いた。
コーヒーができあがったので、それをすすりながら、煙草を吸った。吸い終わると、ダイニングの椅子に座って、その手紙を読み始めた。
 祐介、突然出て行ってごめんなさい。そうするしかなかったの。そうしてしまうのが私としても一番楽だったし、あなたとしても前へ進めるだろうと思った。製薬会社には行かなかった方が良かったと後悔している。あなたと一緒に過ごしながらカフェ海音の店員を続けていたほうが、幸せだったと思う・・・・・・。あの会社はすぐに辞めたわ。不倫が露呈したの。これで私は社内にいることができなくなった。彼は火消しに必死だった。ずいぶんとお金をそのことに使っていたし、使おうとしていた。奥さんをなだめて、何とか離婚せずに済んだ。私には、一千万円の手切れ金を渡そうとした。あのバンドマンのように、お金を突き返そうかと思ったけど、結局、受け取った。私は確かに由希子じゃなくなっていた、変わってしまった。だから、あなたが知っている由希子、あなたが愛した由希子はもうこの世のどこにもいないわけ。それがこの手紙のひとつのポイント。夏希とも連絡を取らないことに決めたの。良くないことだから。今の私は、何をしたいのか分からない。ホテルを泊まり歩いている。転々としながら、自己を掘り下げていっている。このままじゃいけないんだ、何とかしなくちゃいけないんだって。だけど、心が奮い立たないの。ホテルの部屋のふかふかのベッドの上で、正座をしながら、瞑想のようなものをしている。祐介との日々を思い出し、ため息をついている。アルコールはしばらくとっていない。アルコールを飲むと、もっと精神が下降していくような気がするから。そして、こんな生活は長く続けることができないのは分かっている。だけど、いったい、何をして良いのか、本当に分からないの。
別れましょう、私たち。それが一番正しいと思う。どうしようもなかったのよ。部屋の荷物は置いていって悪かったけど、今更、引き取りに行くわけにもいかないから、夏希にプレゼントしてあげて。夏希が要らないと言ったものは、業者を使って、処分して。
最後に、のぞみさんのこと。私は彼女のことを悪く思っていないわ・・・・・・。不幸だったし、不運だった。のぞみさんは記憶を失い、障害を持っているかもしれないけど、きっと守ってあげるのは祐介しかいないし、彼女もそれを願っている。かつて、結婚の約束をしていたんでしょう? 結婚してあげたら良いんじゃないかしら? だって、好きなんでしょう、愛しているんでしょう? あなたとのぞみさんなら新婚生活を楽しく、過ごすことができると思う。 祐介、今までありがとう。本当にありがとう。そして、さようなら。
 僕はその手紙を二度、読み直し便箋に仕舞った。由希子の言葉は、深く心に刺さった。僕はのぞみのことが好きだったと思っていた。いや、違った。のぞみのことがずっと好きなのだ。現在進行形で、彼女のことを愛している。僕は心に決めた。
 僕は夏希に電話をして、由希子から手紙があり、僕たちは正式に別れたことを告げ、それから荷物を取りに来て欲しいと言った。
「今、岩崎さんと渋谷にいるんです。とりあえず、そちらに伺っても良いですか? 荷物を引き取りに行くのは、また後日調整します」
「どのくらい時間がかかる?」
「二十分くらいかな」
 僕は部屋の掃除をしながら、彼女たちを待った。キッチンを片付け、グラスを洗い、掃除機をかけ、テーブルを布で拭いた。チャイムが鳴った。
「はい」
「夏希です」
 僕はドアを開けた。「入って」
「お邪魔します」
 僕は由希子の手紙をまず夏希に見せ、それから岩崎に見せた。彼女たちはしばらく言葉を発しなかった。表情には、微妙な影があった。
「ホテルを転々としていたら、居所が分からないですね」
「お前たち、本当に別れたんだな。事情は夏希ちゃんから聞いていたよ、もったいないことをしたね。ところで、のぞみさんというのはどういう女性なんだ? 記憶を失い、とか手紙には書いてあったが」
 僕は時間をかけて、のぞみのことを説明した。彼女たちは神妙な表情で僕の話を聞いていた。
「要するに、恋人が統合失調症にかかって、記憶を失い、小学校中学年程度の知能になった。一端別れたものの、忘れられないまま、由希子さんと付き合っていたわけか? しかも、ちょくちょくのぞみさんと会っていた」
「その通りだね」僕はため息をついた。
「由希子さんも悪かったけど、柏木はもっと悪いな・・・・・・。由希子さんの気持ちを踏みにじったわけだ」
「終わったことだから、もう仕方ないですよ」
「のぞみさんと付き合っていくしかないね。結婚したらどうだ? 俺は式には行かないけどね」
 僕は黙っていた。うまく答えることができなかった。
「だって、障害者だろう?」岩崎は切って捨てるように言った。僕は気がつくと、岩崎の頬を思い切り、殴っていた。岩崎は頬を抑えながら、倒れた。大きな音がした。鼓膜に響いた。右の拳が酷く痛んだ。人を殴ったのは、初めての経験だった。
「お前に何が分かるんだよ! 帰れ!」
 彼の鞄を玄関に放り投げた。岩崎は、尻もちをつきながら呆然としている。夏希は、身動きひとつしなかった。
「柏木、俺が悪かった。この通りだ、許してくれ。不適切な発言だった」
「のぞみが記憶を失ってから、ずっと僕の心は震えて、混乱しているんだ。殴って申し訳なかった。ひとりでいたいから、とりあえず、今夜は帰ってくれないか? 夏希ちゃんは荷物をどうする?」
「高価そうなバッグとかアクセサリーばかりだから、売ったらけっこうなお金になるんじゃないかしら? 祐介さんが売ったら良いです。私は必要ない。売ったお金は祐介さんが使って良いと思います」
 彼女たちは帰りの支度を始めた。靴を履いて、夏樹は振り向いた。「由希子お姉ちゃんと祐介さんお似合いだったし、絶対に結婚すると思っていたの。残念でした」
 僕はソファに身を沈めた。明かりをつけたまま、目を閉じた。眠りはやってこなかった。眠りたくないのだ。ただ、何もする気が起きなかった。僕は部屋のなかで、ぼうっと過ごしていた。朝が来るのをじっと待った。朝が来ても、何も変わらないというのに。
 由希子の衣服やバッグ、アクセサリーはすべて売った。夏希が言った通り、けっこうな金額になった。僕は定期預金の口座を作って、そのままそっくり放り込んだ。土曜日に、先日のバーへ行った。由里が座っていた。時刻は七時半くらいだった。客はほかにいなかった。
 僕は由里に挨拶すると、ビールを注文した。彼女は青い色のカクテルを飲んでいる。グリーンのセーターに、この前と同じ銀色の腕時計を身につけていた。胸元に、ネックレスがひかっている。
「祐介さん、また会ったわね。ここの店が気に入ったの?」
「そうだね」
「過ごしやすいところよ、ここ」
「ありがとうございます」バーテンダーはそう言って、ビールをコースターの上に置いた。僕たちは乾杯をした。
「なにか進展があったの?」
「恋人と正式に別れたんだ」
「辛い?」
「とっても」僕は目立たないようにため息をついた。
 彼女は微笑み、僕の視線を受け止めた。
「私はもう傷つきたくないから、恋することを止めたんだ。あなたはこれからどうするの?」
「好きな女性がいる」
「すると、前に進むわけね。それが良いわよ。景色が変わっていくと思う」
「だが、頭のなかが酷く混乱している」
「分かるわよ、それ」
 彼女はシガーケースから煙草を取り出した。ピンク色の細長い煙草だった。それに火を点けて、煙を吸って吐き出した。
「その、今好きな女性に求めているものっていったい何かしら? 安らぎ、幸福、いろいろとあるけど」
 僕はそれについて、少しばかり考えてみた。
「分からない、ただ、どうしようもなく、惹き付けられるんだ」
「あなたはきっと正しいのよ、正しい道を歩もうとしている。羨ましいな、私は前に進むことを止めてしまったから・・・・・・」
 彼女はブラッディ・メアリを注文した。バーテンダーはカクテルを作った。店内にはフィオナ・アップルの『クリミナル』が流れている。
 しばらく何も話さなかった。彼女は酒を楽しんでいるようだったし、僕は考えがまとまらなかった。ビールを飲み干すと、ブランデーを注文した。彼女はバーテンダーと談笑を始めた。僕はその話題に加わらなかった。静かな時の流れだった。アルコールのせいもあって、リラックスし始めていた。時刻は夜の九時だった。
「私は、これから人と会うから店を出るわね、お話しできて楽しかったわ」
「ありがとう」
「それじゃ」彼女は手を振った。
 僕はブランデーを三杯飲んだ。バーテンダーはサッカーの中継を眺めている。静かで、落ち着くことができる店だ。
「気に入って頂けましたか、このお店は?」
「リラックスできるし、お酒は美味しい。雰囲気も好きだよ」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです」
 時間が徐々に過ぎ去っていく。九時半になった。僕は席を立って、勘定を払った。外に出ると、冷たい空気が流れていた。月は空の上に隠れ、透明な風が強く吹いている。由希子は今頃いったい、どこにいるのだろうか、と僕は思った。

愛ならどこにあっても構わない(9)

 

 

秋が終わり、冬がやってきた。十一月の初旬になった。岩崎と夏希は、仲良くやっていた。彼らと僕と由希子の四人で、ダブルデートに行ったりもした。由希子は製薬会社の仕事をこなしていた。帰りが遅くなることも多くなった。僕は料理の勉強を始めた。簡単な料理なら作ることができた。由希子は夜の十時過ぎに帰宅することもあったし、もっと遅くなることもあった。そんなに遅くまで、会社で何をやっているのだろうと不思議に思った。
 のぞみの家に遊びに行ったとき、さゆりがいた。三人で遊ぶ約束をしていたのだ。確かに美しい女の子だった。髪は短いが、黒々としていてつやがあり、両方の目が綺麗で印象的だった。話した感じも、特に障害があるとは分からなかったし、至って普通だ。僕たちはトランプゲームをした。スピード、神経衰弱、大富豪。楽しかった。さゆりは屈託なく、時折、笑顔を見せる。
「さゆりちゃんには、年上の恋人がいるんだよ。大阪に住んでいてなかなか会えないんだって」
「何歳くらいの?」
「三十五歳!」のぞみは嬉々として言った。「おじさんだよね、でも、かっこいいし、優しいんだって」
「学習塾の事務をしているのです、インターネットで知り合って。ほら、こういった病気の人って、なかなか友達ができないし、恋人はなおのことだから。良くインターネットで人とコミュニケーションをとっているんです。スカイプとか、ラインとかツイッターとか。メンタルの人々が集まったスカイプの会議に参加することもあります」
 さゆりは透明なアップルジュースを飲み、微かに笑った。
「友達が少ないの?」
「リアルでは」
「そうか。僕とも友達になろうよ。時々、遊びに行こうね」
「ありがとうございます」
「駄目だよ、いくらかわいいからって、さゆりちゃんを好きになっちゃ。ゆうすけおじちゃんには、のぞみがいるんだからね」
「お二人は付き合っているのですか?」彼女は驚いたような表情になった。
 僕が返答に迷っていると、のぞみが「うん! そうそう」と笑った。
「祐介さんは健常者ですよね? 健常者の恋人を見つけないのですか? 私の彼は軽度の障害を持っています。アスペルガー症候群です。塾の事務といっても、障害者枠です」
「健常者の恋人?」僕はその言葉を繰り返した。
「普通はそうしますよ」
「ゆうすけおじちゃんは浮気をしているの! 由希子っていう名前なんだって。私の方がかわいいんだよ、ほんと!」
「やっぱり、そうですよね」さゆりの言葉は、奇妙な質量を帯びて僕の心に溶けていった。
 のぞみは当然、僕の心の温度差に気付いていなかった。健常者の恋人を見つける? 僕はのぞみを障害者と思ったことは一度もない。のぞみだって自分のことをそんなふうには思っていないだろうが、現実には、障害者手帳を交付され、障害者年金を受給している。さゆりは、自分を障害者として強く意識している。二人の病気へのスタンスは違った。
 帰り道、僕はさゆりの言葉によって、様々なことを考えさせられたし、表現することのできない気持ちになった。新宿駅近くのスターバックスに寄って、スターバックスラテを注文し、雑誌を読んでいた。時刻は夜の八時だった。夏希から電話が入った。
「もしもし、祐介さんですか?」
「うん、どうしたの?」
「今、どこにいます?」夏希の声はいつもと違った。どことなく、切迫した雰囲気だ。
「新宿のスターバックス、雑誌を読んでいるよ」
「会いたいんです、今からそちらへ行っても構わないですか?」
「うん。良いよ。何分くらいで着く?」
「四十分くらいかな、待っていてくださいね」
 電話はふっつりと切れた。いったい、何の用だろう? 岩崎のことで相談があるのかな、とも思った。僕はレジへ行ってスターバックスラテをもう一度注文し、レシートを受け取った。おとぎ話に出てくるようなかわいらしいランプの下で、ドリンクが出てくるのを待った。ドリンクを受け取ると、テーブルにそれを置いた。煙草が吸いたかったので、喫煙所に行き、メビウスを一本吸った。
 席に戻ると、雑誌を眺めながら夏希を待った。店内は混み合っていた。夏希は予定より早く、スターバックスにやってきた。表情は浮かなかった。あまり、楽しくない話題なのかもしれない。
「お待たせしました、すいません、急に」
「良いよ。レジへ行ってきなよ。コーヒー代は奢るし」
「ありがとうございます」
 十分後に、彼女はドリンクを持って戻った。コートを脱ぎ、黒いセーター姿になった。首元には細い金色のネックレスが輝いている。
 僕はスターバックスラテを飲み、彼女の様子を伺っていた。彼女はプラダのハンドバッグから、何かを取り出した。写真だった。
「現像してきたんです、大変なことだと思って」
 僕はその写真を手に取った。スーツ姿の由希子と知らない男が腕を組んで映っている。男の容姿は、特段美男子というわけでもなかった。年齢は四十代くらいだろう。中年の男だ。僕は動転した。何なんだ、この男はいったい・・・・・・。
「由希子お姉ちゃん、最近帰りが遅かったりとかしないですか?」
 僕はしばらく経ってから、答えた。
「そうだね。十時、十一時を過ぎることもある。仕事だと言っていたよ」
「浮気をしているんです」彼女は重々しい口調で言った。
「まさか」
「お姉ちゃん、ホテルに入っていったんですよ、この男の人と」
 僕は絶句した。頭が真っ白になった。
「何かの見間違いだろう?」
「そうじゃないんです、だいたい妹なのに、見間違うわけがないです」夏希は、表情を消しながら言った。
「でも、どうして? 僕にいったい何の不満があるのだろう? 由希子はそんな女の子じゃなかった」
「その写真はあげます。お姉ちゃんと良く話し合ってください。私は将来、祐介さんと由希子お姉ちゃんは結婚すると思っているし、結婚には賛成です。だけど、別に男の人がいたとなったら、話は全然違ってきます。由希子お姉ちゃんはそんな人じゃありません。何か、理由があると思うのです」
 僕は呆然と、その写真を眺めていた。
「一週間ちょっと前に、渋谷の街を歩いていたら、偶然出会ったんです。由希子お姉ちゃんは私に気付かなかった。私が問い糾してみようとも思ったけど、祐介さんの方が良いかなと思って」
「ありがとう」
 彼女はドリンクを飲み干した。「それじゃ、私、帰りますね。ごちそうさま」
 僕は席に取り残された。いつか、由希子が涙を流しながら帰ってきた日を思い出した。お互いの秘密について、考えてみた。僕は席を立った。マンションに戻らなくてはならない。外に出ると、冷たい風は強く吹いていた。僕の足取りは重たかった。

 十二月になった。僕は由希子に問い糾すことがなかなかできなかった。彼女は相変わらず、遅くに帰ってくるし、休日はどこかに出かけることもあった。探偵事務所に依頼しようとも考えてみたが、気が進まなかった。僕は彼女がいないときに、その写真を眺めた。男はどこにでもいるようなサラリーマンで、由希子と腕を組んでいる。背景には渋谷のホテル街と無名の集合的な人々。僕は煙草を吸った。岩崎に相談しようとも思ったが、止めておいた。これは僕と由希子の問題なのだ。岩崎を巻き込むのは間違っている。彼も混乱するかもしれない。
 土曜日の朝だった。僕たちは久しぶりにデートへ行った。上野の美術館を回り、タイ料理のレストランでグリーンカレーのランチを食べ、ビールを飲んだ。由希子はいつになく
饒舌だった。明るかったし、綺麗だった。
 ブティックで買い物をして帰ってきた。彼女はたくさんの洋服を買った。製薬会社に入ってから、しばらくして金遣いが荒くなった。クレジットカードを使うようになり、病的に商品を購入した。洋服やアクセサリーが中心だった。いったいどこからそんなお金が出てくるのか不思議だったが、きっとスポンサーはあの男だろう。
 スーパーで買い物を済ませ、由希子は夕食の準備をした。包丁の音が、リズム良く耳に
届いた。僕はリビングで待っていた。香りが漂ってきた。
 静かだったので、音楽をかけた。僕は落ち着かなかった。じりじりと時間だけが経って
いく。
 意を決した。
「男がいるのか?」自分でも驚くぐらいスムーズに言うことができた。口にしてみると、あっけなかった。彼女は包丁を持つ手を止めた。ゆっくりと、僕の方を振り向いた。彼女の目には、何も浮かび上がってはいなかった。黒い瞳は蛍光灯のひかりを吸い込んでいる。茶色のエプロンを脱いだ。ガスコンロの火を消した。
「何も問い詰めようと思っているわけじゃないんだ・・・・・・。ただ、わけを知りたくて。僕
のことが嫌いなのか?」
 そうじゃないわ、と彼女は言った。目をうっすらと閉じていた。「そっか、知られたくない秘密だったんだけどな」
「夏希ちゃんが教えてくれたんだ。写真だってある」
「コーヒー、飲む?」
「うん」
 ティファールでお湯を沸かしているあいだ、僕たちは無言だった。由希子は微妙な表情を浮かべていた。僕は言葉が出てこなかった。彼女といったい何について、話をすれば良いのだろうか。分からなくなっていた。
 コーヒーを飲みながら、由希子はぽつりぽつりと話をした。相手は製薬会社専務の叔父の義理の弟で、同じ製薬会社の課長のポストに就き、妻子はあり、そして由希子との肉体関係はあった。僕は予想していたものの、事実として突きつけられると、吐きそうになった。嫉妬ではなかった。絶望でもなかった。ただ、黒い虚無がやってきた。
「叔父さんは知っているのか? このことを」
「知っているわ、不倫相手になることが、製薬会社の仕事を続ける条件だったの。最初は拒絶した。私には祐介いるし、無理な話だった。だけど、向こうはずいぶん私のことを気に入っていた。叔父は言った。私を仕事上、将来的に重要なポジションにつけるし、手間賃も与える。弟は君のことがとても好きなんだ。愛していると言っていた。手間賃はびっくりするくらいのお金だったけど、すぐに慣れていった。同時に、私の心は失われていったの、不倫をしていても何とも思わなくなっていった」
「あの日の涙は?」
 彼女はコーヒーをひとくち飲んだ。「初めて、抱かれたの・・・・・・。茫然自失で、涙が止まらなくて」
「馬鹿なことをしたね、本当に」
「私、変わったわよね。自分でも分からないの、止めることができないのよ。相手を愛しているのかもしれないと思うと、本当に自分のことが嫌になるの。私の心が暗い川のようにどこかに流れていく」
 僕は煙草に火を点けた。「君の言っていた秘密ってこのことかい?」
 彼女は肯定した。
「あなたの秘密っていったい何なの? 私は知りたい、フェアじゃないわ。時々、行き先も告げずに、どこへ行っているの?」
「分かった、話すよ」
 のぞみのことを初めてまともに話した。出会いや、愛の育み、突然の病気、記憶を失ったこと、一度は別れを告げたが、会い続けたことなど。今でものぞみとの日々を忘れることはできなかった。のぞみのことを愛しているのかもしれない、と最後に告げた。由希子は声をあげて、泣き始めた。胸が締め付けられる。鼓膜がぴりぴりと痛み、喉が渇く。大粒の涙が、流れていく。僕は黙って見ているしかなかった。
「お互い様じゃないの」
 僕は何も言わなかった。確かにその通りだ。
「少し考えさせて。あなたはファミリーレストランへ行って時間を潰してきて。十一時になったら、戻って来ても良いわよ」
 置き時計を見ると、八時二十五分だった。分かった、と僕は言って、靴を履いた。外の空気は、冷たかった。僕はできる限り、何も考えなかった。分からなかった。いろいろなことが、本当に分からなかった。
 ファミリーレストランから戻ってくると、由希子はいなかった。姿を消した。僕は電話をかけたが、彼女は電源を落としていた。部屋をあさってみると、彼女の通帳や印鑑が消えている。衣類などを持っていった形跡はなかった。僕は夏希に電話をして事情を説明した。彼女は心配してくれた。お姉ちゃんが連絡してきたら、すぐに知らせると言った。真夜中の街を探し歩きながら、僕たちはもう駄目かもしれないな、と思った。お互いの秘密は致命的だった。

由希子のいない生活は、寂しかった。冬の寒い時期だったし、渋谷の街はクリスマスムードで、赤や黄色の装飾がところせましと並んでいた。ネオンは輝き、イリュミネーションは鮮やかだった。仕方がなかった。由希子も悪かったし、僕も迂闊だったのだ。クリスマスには、のぞみの家でクリスマスパーティーを行った。母親が料理を作り、のぞみとさゆりは飾り付けをし、父親はクラシックギターでジョンレノンの『ハッピークリスマス』を弾いた。ギターの腕は見事なものだった。クラッカーが鳴り、ろうそくの炎が揺れ、のぞみがそれを吹き消した。僕はのぞみとさゆりにクリスマスプレゼントを渡した。のぞみにはティファニーのシルバーネックレスで、さゆりには小指にはめる指輪だった。二人とも喜んでいた。
 食卓にはチキン料理が並び、ムール貝と野菜のパエリアが色を添えた。料理はいつもながら美味しかった。のぞみの母親も料理が上手だった。僕はビールを飲み、料理を食べた。
「のぞみちゃん、今度僕のマンションで遊ばないかな?」
「どうして? いつも断っていたじゃん。それは、駄目だって」
 由希子はもう戻ってこないだろう。僕は笑顔を作った。
「祐介さん、確か由希子さんと同居しているんじゃ・・・・・・」
「事情があって、彼女は出て行ったんです」
「そっか」とのぞみは言った。「由希子さんとはもう付き合っていないの?」
「そうかもしれない」
「じゃ、今は恋人、私だけだね!」
「また、良い人見つかりますよ」母親は苦笑した。
「だから、のぞみがいるの!」のぞみは不満そうに言った。笑い合った。
食事が終わると、のぞみの部屋に行った。のぞみはトイレへ行くと言った。「先に、部屋
へ行っておいて」
さゆりと二人で、部屋に入った。
「あの、失礼かもしれませんが、本気でのぞみちゃんと付き合っていくのですか?」
「分からない。気持ちの整理がすぐにはつかないし、のぞみちゃんと付き合って良いのかも考えることができないよ」
「祐介さんはやっぱり健常者の人を恋人にしたいですよね」
「のぞみちゃんのことを障害者と思ってはいないんだ。そういった考え方はないな」
 さゆりは僕の目を見つめた。透き通るような純粋な目だった。
「だけど、私たちは障害者です。周りの目は、いつもそのようにあります。祐介さんみたいに、優しい人ばかりじゃないです、本当に」
僕は視線をそらした。
「辛いことが多いの?」
「とっても」と彼女は声に出して、言った。「結局、大阪の彼とは別れたんです。行き違いが多くて。年も離れていたし、難しかった」
「そうか」
「私たちはどこまでも孤独なんです、普通の人よりもずっと。抱えているものは重たいし、一緒に受け止めてくれる人は少なくて」
僕は何て言ったら良いのか分からなかった。
そのとき、のぞみが帰ってきた。
「たっだいま!」
「おかえり」さゆりと僕は言った。
「お正月に、遊びに行って良い? お年玉ちょうだいね、初詣行こうよ」
「うんうん、分かったよ」
「のぞみちゃん、一緒に折り紙しようよ」
「はーい、パンダさん作るね!」
 夕方になったので、僕はマンションに戻った。食事を作るのが面倒だったので、ファミリーレストランでハンバーグとサラダを食べた。ビールを飲み、ため息を付いた。由希子の不在は、鉛のように重たく、のしかかっていた。気をそらそうとしても、駄目だった。僕の傍には、常に由希子がいたから。
 ファミリーレストランを出て、しばらく歩いた。ショットバーで、ブランデーを注文した。入ったことのないショットバーだった。深い青の壁に、ダークレッドのカウンター、バーテンダーは若かった。僕と同い年くらいに見えた。金色の頭に、ピアスを身につけている。女性客がひとりいる。顔立ちは整っていて、ふっくらとしている。彼女も若そうだった。エナメルのバックがテーブルの上で輝いている。バーテンダー若い女性は仲良さそうに話をしている。いったい、何の話をしているのだろうか。
「良かったら、こっちに来て話しませんか?」と若い女性が言った。彼女はにっこりと笑
った。綺麗な女の子だった。
「お邪魔でしたら、すいません」バーテンダーは言った。
「邪魔じゃないよ、一人で退屈していたところなんだ」
 僕は立ち上がって、席を移動した。
「こんばんは。私の名前は、由里。年齢は秘密。仕事はオフィスレディー。丸の内で働いているの」
「僕は柏木祐介。この近くに住んでいるよ。品川でシステムエンジニアの仕事をしている」
「その哀愁漂う背中、さては、振られたわね?」
「そうだね、そのようなものだよ」僕は苦笑いをした。「彼女が出て行った。お互いに悪いことをしていたからね」
「そうですか」
「仕方ないわね」彼女はオレンジ色のアルコールが入ったカクテルグラスを傾けた。ルージュが怪しく輝く。「一人でいると、押しつぶされそうになるでしょう? 好きであればあるほどそうなのよね」
「柏木さんは、当店初めてですよね? ここは一人客が多いんです。あまりカップルとか
団体客は来ないので、安心していつでもいらしてください」
「すると、由里さんも独り身なの?」
「二十五年間、誰とも付き合ったことがないわ。あ、年齢がバレちゃった。好きになれないの、男の人を。どうしてかはよく分からない」
「一度も好きになったことがないの?」僕は驚いて訊いた。
「あるわよ。一人だけ。高校二年生のときだったわね、結局、恋は実らなかった。素敵な人だったわ、まるで一流ホテルのコンシェルジュみたいに、私に接してくれるの。私はバスケットボール部のマネージャーで、彼は部員でエースだった。ある事情で恋を諦めたときに、悟ったの。もう、他の人を好きになることはないなって。そういう感覚って分かる? この人以外には、興味がないというか、絶対にこの人じゃないと駄目。だけど、実らない
のよね。ついてないわ・・・・・・」
 彼女は大げさにため息をついた。少し酔っているみたいだった。頬が赤い。
「似たような経験をしてきたからね、よく分かるよ」と僕は言った。そして、ブランデー
に口をつけた。
「話してみて」
「長くなるから、止めておくよ」
「まあ良いわ、似たもの同士なのね」彼女は笑った。「続きを話して良いかしら?」
 僕は頷いた。
「グラスがあいているね、僕が奢るから何か飲みなよ」
 彼女はしばらく迷っていたが、カナディアンクラブのロックを注文した。バーテンダーは氷を用意し、グラスに入れ、その上にカナディアンクラブを注いだ。僕たちは、乾杯をした。店内は音楽が流れていた。コールドプレイの『イエロー』だった。
「理由があって、その人に恋をできなくなった。理由は何であるのかまでは、述べないけど、とにかく、恋をするわけにはいかなくなったの。私は、毎日夜になると涙を流したわ。すべてが終わってしまったような気分になった」
「私は、その理由を知っています。とても哀しいことだった」
 僕は何も言わなかった。ビールを注文し、ナッツを頼んだ。バーテンダーは、機敏に動作し、僕のテーブルにはそれらが並んだ。彼女は見計らったように、話を始めた。
「心のネジが飛んでしまったの、私の頭は崩壊寸前だった。精神科に連れて行かれ、何だったか病名を付けられて、薬が処方されたわ。薬は怖かった、自分が自分でなくなるような感じだった。私はますますふさぎ込むようになった。親も友人も、誰も私を救ってはくれなかった」
「薬を飲むのは大変だね、副作用もあるし」
「いろいろあって、今は持ち直している。薬は飲んでいないし、精神科には行っていない。時々、カウンセリングに通っている程度」
「持ち直したきっかけは何だったのだろう?」
「時間ね。膨大な時間を過ごしていくうちに、すり減っていた心がよみがえってきたの。少しずつ呼吸を始めた。動き出した」
「なるほど、僕にも時間が必要かもしれないね」
「時間は偉大ね、何もかもが過ぎ去っていくの」
 由里は銀色の腕時計を見て、しかめ面をした。「もう、こんな時間、行かなきゃ・・・・・・」
「短い時間だったけど、ありがとう」
「また、ここで会えると良いわね。週末には良くいるから、話そうよ」
 彼女は立ち上がると、会計を済ませた。そして、そそくさと出て行った。入れ替わりに、男性が一人入ってきた。初老の男だった。僕はこの男を見たことがあった。どこで会ったのかまでは思い出せなかった。彼は席に座ると、ヘネシーのロックを注文した。僕の方を一度見て、視線を外した。
 時間か、と僕は思った。由希子が出て行ってから、そう時間は経っていなかった。別れたと決まったわけではなかったが、時間の問題だろう。僕も悪かったし、由希子も悪かった。気持ちを切り替えなくてはならない。
「何か飲まれますか?」
「いや、もう帰るよ」
「チェックですね、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 会計を済ますと、僕は店を出た。アルコールはちっとも僕を癒してはくれなかった。余計に、僕の心は混乱していた。由希子とはこのまま終わるのだろうか。あっけないものだった。由希子との日々が、フィルムのように駆け巡った。僕は家路についた。クリスマスの夜は、寒かったし、イリュミネーションや飾り付けや音楽は他人のようだった。住宅街は暗がりだった。滑らかな闇が、広がっていた。マンションに辿り着いた。郵便受けに、手紙が入っていた。ライトブルーの便箋だ。裏には、由希子の名前が書いてあった。僕は部屋に戻ると、コーヒーを作った。酔いはまだ醒めていなかったし、落ち着きたい気分だった。手紙はテーブルの上に置いた。
コーヒーができあがったので、それをすすりながら、煙草を吸った。吸い終わると、ダイニングの椅子に座って、その手紙を読み始めた。
 祐介、突然出て行ってごめんなさい。そうするしかなかったの。そうしてしまうのが私としても一番楽だったし、あなたとしても前へ進めるだろうと思った。製薬会社には行かなかった方が良かったと後悔している。あなたと一緒に過ごしながらカフェ海音の店員を続けていたほうが、幸せだったと思う・・・・・・。あの会社はすぐに辞めたわ。不倫が露呈したの。これで私は社内にいることができなくなった。彼は火消しに必死だった。ずいぶんとお金をそのことに使っていたし、使おうとしていた。奥さんをなだめて、何とか離婚せずに済んだ。私には、一千万円の手切れ金を渡そうとした。あのバンドマンのように、お金を突き返そうかと思ったけど、結局、受け取った。私は確かに由希子じゃなくなっていた、変わってしまった。だから、あなたが知っている由希子、あなたが愛した由希子はもうこの世のどこにもいないわけ。それがこの手紙のひとつのポイント。夏希とも連絡を取らないことに決めたの。良くないことだから。今の私は、何をしたいのか分からない。ホテルを泊まり歩いている。転々としながら、自己を掘り下げていっている。このままじゃいけないんだ、何とかしなくちゃいけないんだって。だけど、心が奮い立たないの。ホテルの部屋のふかふかのベッドの上で、正座をしながら、瞑想のようなものをしている。祐介との日々を思い出し、ため息をついている。アルコールはしばらくとっていない。アルコールを飲むと、もっと精神が下降していくような気がするから。そして、こんな生活は長く続けることができないのは分かっている。だけど、いったい、何をして良いのか、本当に分からないの。
別れましょう、私たち。それが一番正しいと思う。どうしようもなかったのよ。部屋の荷物は置いていって悪かったけど、今更、引き取りに行くわけにもいかないから、夏希にプレゼントしてあげて。夏希が要らないと言ったものは、業者を使って、処分して。
最後に、のぞみさんのこと。私は彼女のことを悪く思っていないわ・・・・・・。不幸だったし、不運だった。のぞみさんは記憶を失い、障害を持っているかもしれないけど、きっと守ってあげるのは祐介しかいないし、彼女もそれを願っている。かつて、結婚の約束をしていたんでしょう? 結婚してあげたら良いんじゃないかしら? だって、好きなんでしょう、愛しているんでしょう? あなたとのぞみさんなら新婚生活を楽しく、過ごすことができると思う。 祐介、今までありがとう。本当にありがとう。そして、さようなら。
 僕はその手紙を二度、読み直し便箋に仕舞った。由希子の言葉は、深く心に刺さった。僕はのぞみのことが好きだったと思っていた。いや、違った。のぞみのことがずっと好きなのだ。現在進行形で、彼女のことを愛している。僕は心に決めた。
 僕は夏希に電話をして、由希子から手紙があり、僕たちは正式に別れたことを告げ、それから荷物を取りに来て欲しいと言った。
「今、岩崎さんと渋谷にいるんです。とりあえず、そちらに伺っても良いですか? 荷物を引き取りに行くのは、また後日調整します」
「どのくらい時間がかかる?」
「二十分くらいかな」
 僕は部屋の掃除をしながら、彼女たちを待った。キッチンを片付け、グラスを洗い、掃除機をかけ、テーブルを布で拭いた。チャイムが鳴った。
「はい」
「夏希です」
 僕はドアを開けた。「入って」
「お邪魔します」
 僕は由希子の手紙をまず夏希に見せ、それから岩崎に見せた。彼女たちはしばらく言葉を発しなかった。表情には、微妙な影があった。
「ホテルを転々としていたら、居所が分からないですね」
「お前たち、本当に別れたんだな。事情は夏希ちゃんから聞いていたよ、もったいないことをしたね。ところで、のぞみさんというのはどういう女性なんだ? 記憶を失い、とか手紙には書いてあったが」
 僕は時間をかけて、のぞみのことを説明した。彼女たちは神妙な表情で僕の話を聞いていた。
「要するに、恋人が統合失調症にかかって、記憶を失い、小学校中学年程度の知能になった。一端別れたものの、忘れられないまま、由希子さんと付き合っていたわけか? しかも、ちょくちょくのぞみさんと会っていた」
「その通りだね」僕はため息をついた。
「由希子さんも悪かったけど、柏木はもっと悪いな・・・・・・。由希子さんの気持ちを踏みにじったわけだ」
「終わったことだから、もう仕方ないですよ」
「のぞみさんと付き合っていくしかないね。結婚したらどうだ? 俺は式には行かないけどね」
 僕は黙っていた。うまく答えることができなかった。
「だって、障害者だろう?」岩崎は切って捨てるように言った。僕は気がつくと、岩崎の頬を思い切り、殴っていた。岩崎は頬を抑えながら、倒れた。大きな音がした。鼓膜に響いた。右の拳が酷く痛んだ。人を殴ったのは、初めての経験だった。
「お前に何が分かるんだよ! 帰れ!」
 彼の鞄を玄関に放り投げた。岩崎は、尻もちをつきながら呆然としている。夏希は、身動きひとつしなかった。
「柏木、俺が悪かった。この通りだ、許してくれ。不適切な発言だった」
「のぞみが記憶を失ってから、ずっと僕の心は震えて、混乱しているんだ。殴って申し訳なかった。ひとりでいたいから、とりあえず、今夜は帰ってくれないか? 夏希ちゃんは荷物をどうする?」
「高価そうなバッグとかアクセサリーばかりだから、売ったらけっこうなお金になるんじゃないかしら? 祐介さんが売ったら良いです。私は必要ない。売ったお金は祐介さんが使って良いと思います」
 彼女たちは帰りの支度を始めた。靴を履いて、夏樹は振り向いた。「由希子お姉ちゃんと祐介さんお似合いだったし、絶対に結婚すると思っていたの。残念でした」
 僕はソファに身を沈めた。明かりをつけたまま、目を閉じた。眠りはやってこなかった。眠りたくないのだ。ただ、何もする気が起きなかった。僕は部屋のなかで、ぼうっと過ごしていた。朝が来るのをじっと待った。朝が来ても、何も変わらないというのに。
 由希子の衣服やバッグ、アクセサリーはすべて売った。夏希が言った通り、けっこうな金額になった。僕は定期預金の口座を作って、そのままそっくり放り込んだ。土曜日に、先日のバーへ行った。由里が座っていた。時刻は七時半くらいだった。客はほかにいなかった。
 僕は由里に挨拶すると、ビールを注文した。彼女は青い色のカクテルを飲んでいる。グリーンのセーターに、この前と同じ銀色の腕時計を身につけていた。胸元に、ネックレスがひかっている。
「祐介さん、また会ったわね。ここの店が気に入ったの?」
「そうだね」
「過ごしやすいところよ、ここ」
「ありがとうございます」バーテンダーはそう言って、ビールをコースターの上に置いた。僕たちは乾杯をした。
「なにか進展があったの?」
「恋人と正式に別れたんだ」
「辛い?」
「とっても」僕は目立たないようにため息をついた。
 彼女は微笑み、僕の視線を受け止めた。
「私はもう傷つきたくないから、恋することを止めたんだ。あなたはこれからどうするの?」
「好きな女性がいる」
「すると、前に進むわけね。それが良いわよ。景色が変わっていくと思う」
「だが、頭のなかが酷く混乱している」
「分かるわよ、それ」
 彼女はシガーケースから煙草を取り出した。ピンク色の細長い煙草だった。それに火を点けて、煙を吸って吐き出した。
「その、今好きな女性に求めているものっていったい何かしら? 安らぎ、幸福、いろいろとあるけど」
 僕はそれについて、少しばかり考えてみた。
「分からない、ただ、どうしようもなく、惹き付けられるんだ」
「あなたはきっと正しいのよ、正しい道を歩もうとしている。羨ましいな、私は前に進むことを止めてしまったから・・・・・・」
 彼女はブラッディ・メアリを注文した。バーテンダーはカクテルを作った。店内にはフィオナ・アップルの『クリミナル』が流れている。
 しばらく何も話さなかった。彼女は酒を楽しんでいるようだったし、僕は考えがまとまらなかった。ビールを飲み干すと、ブランデーを注文した。彼女はバーテンダーと談笑を始めた。僕はその話題に加わらなかった。静かな時の流れだった。アルコールのせいもあって、リラックスし始めていた。時刻は夜の九時だった。
「私は、これから人と会うから店を出るわね、お話しできて楽しかったわ」
「ありがとう」
「それじゃ」彼女は手を振った。
 僕はブランデーを三杯飲んだ。バーテンダーはサッカーの中継を眺めている。静かで、落ち着くことができる店だ。
「気に入って頂けましたか、このお店は?」
「リラックスできるし、お酒は美味しい。雰囲気も好きだよ」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです」
 時間が徐々に過ぎ去っていく。九時半になった。僕は席を立って、勘定を払った。外に出ると、冷たい空気が流れていた。月は空の上に隠れ、透明な風が強く吹いている。由希子は今頃いったい、どこにいるのだろうか、と僕は思った。

愛ならどこにあっても構わない(8)

 十一時過ぎには眠った。幾つか短い夢を見たが、起きたらすべて忘れてしまっていた。朝の九時だった。由希子の姿は既になかった。朝食の用意が整っていた。彼女にだって、打ち明けたくない秘密があるのだ。お互い様だった。
 夕方の六時に、新宿のアルタ前で待ち合わせをしていた。岩崎が先にやってきた。ブルーの長袖シャツに、ジーンズ姿だった。彼は何を着てもよく似合った。太陽はそのひかりを弱めていた。人々はせわしなく、行き交っている。
「やあ」
「夏希ちゃんは?」
「まだ来ていないよ」と僕は言った。時刻は六時五分だった。十分を過ぎたころに、夏希はやってきた。グレイのニットとラベンダー色のスカートを身につけ、パールのネックレスをしている。清楚なファッションスタイルだ。彼女はにっこりと微笑んでいた。素敵な笑顔だった。
「初めまして、岩崎さん。夏希です」彼女は腕を前にやって、軽くお辞儀をした。
「こんばんは、岩崎です」
 岩崎の言葉遣いがおかしかった。どこか、ぎこちない。
「岩崎、緊張しているのか?」
「こんなに綺麗だとは思わなかった、由希子さんより綺麗じゃないかな」
 確かに、夏希の方が美しかった。鼻筋はすっきりとしていたし、線は全体的に細く、グラマラスだった。それに、彼女はまだ二十歳だ。若さ特有の、匂いと雰囲気を持っていた。
「お世辞が上手ですね。由希子お姉ちゃんの方が綺麗だと思いますよ」
「お世辞じゃないよ、本当のことを言っているんです」
「ありがとうございます」
 僕たちは居酒屋へ移動した。海鮮が美味しい居酒屋で、日本酒の種類が豊富だった。僕たちは刺身の盛り合わせと天ぷらを注文し、生ビールで乾杯した。店内は大勢の客で賑わっていた。たまにはこういった活気のある店も良いものだ。
 飲み会は終始なごやかだった。雰囲気は初めから良かった。岩崎は緊張していたものの、アルコールが進むにつれて、少しずつリラックスしていった。表情の固さが取れていった。夏希は岩崎に興味津々という感じだった。
「夏希ちゃんは、普段何をされているのですか?」
メイド喫茶で働いています、秋葉原の。その前はガールズバーに勤めていました。何をやっても続かないのですが、メイド喫茶は続けるつもりです。楽しいです。お客さんは面白い人が多いし、お恥ずかしい話ですが、私、コスプレが趣味なんです」
 彼女は美味しそうに、刺身を食べた。岩崎は生ビールを飲んだ。
「高校もギリギリで卒業したし、由希子お姉ちゃんに迷惑ばかりかけてしまって。私、バカなんです。自分でもそう思います。でも、バカなりにいろいろなことを考えているのです。例えば、どうやったら、男の人が喜んでくれるかとか、美味しいケーキ屋さんの法則とか、本当にいろいろなことを」
「美味しいケーキ屋さんの法則?」
「あるんです、私が発見したんです」彼女は大まじめだった。
「夏希ちゃんは根が良くて、素直なんだと思う」僕は言った。
「そこが素敵ですね」岩崎が笑った。
「岩崎さんは年上だから、敬語をとってください。何だか、おかしな感じがします」
「そうするよ」
「気が利くね」
「そうですか」夏希は照れ笑いをした。頭をかいた。赤い髪の毛が、美しく揺れた。一時間が経過した。二人の距離は縮まっているみたいだった。僕は胸をなで下ろした。岩崎は信頼感があるし、頼りがいがある男だった。仕事は真面目だった。慕われてもいる。きっと、夏希のことを支えてくれるに違いなかった。夏希はどこか、ふわふわとした女の子だった。まっすぐで素直な性格が美点だ。そこが、また魅力的なのかもしれないな、と僕は思った。
 ビールのお代わりを飲み干すと、今度は日本酒を注文した。岩崎は夏希に夢中のようだ。
親密な空気が流れていた。
「祐介さん、ひとつだけお願いがあるの」
「何だい?」
「席を替わってくれないかしら? 岩崎さんの隣に座りたいの」
「良いよ」僕は笑った。夏希は岩崎の隣に腰を下ろした。女性らしい、かわいい表情を浮かべた。頬はアルコールのせいで赤らんでいた。僕は胸がどきりとした。誰が見ても、美しいと思うだろう。
「あの、質問をひとつ良いですか?」
「はい」
「理想の女性像っていったいどんな人ですか? 優しかったり、美しかったり、いろいろあると思いますが」
 岩崎は顎に手を当てて、考えていた。
「由希子さんのように家事が得意で家庭的で、夏希ちゃんみたいにかわいい女の子かな。欲張りかもしれないけど。お姉さんより、君の方が好きだよ。気に入ったね」
「本当に?」彼女は目を輝かせていた。
「俺は嘘を言わない、たまに嘘をつくけど、他愛のないものだよ。大抵は真実を話す」
「私はお姉ちゃんほど上手くないけど、料理は作ることができますよ。今度、岩崎さんの家に行って、作ってあげます。何か、好きなものはありますか?」
「煮込みハンバーグかな」
「私、それ得意なんです」
 和気あいあいとしてきた。フィーリングはぴったりと合っているようだった。話が盛り上がってきたところで、僕は一足先に退散した。あとは、放っておいても仲良くやっていくだろう。僕は安心した。夏希は楽しそうだったし、岩崎は満更でもないみたいだった。二人とも失ったものは大きかった。その分、今夜は得るものがあったと思う。帰り道にカフェに寄って、コーヒーを飲みながら、煙草を吸った。由希子は今夜のことを話したら、きっと喜ぶだろう。僕は由希子に電話をした。何度か電話をしたが、彼女は出なかった。時刻は夜の八時を少し過ぎたあたりだった。僕はスマートフォンを仕舞った。由希子はまだマンションに戻っていないのかもしれないな、と思った。カフェを出て、電車に乗ってマンションに帰った。由希子はやはりいなかった。僕はシャワーを浴び、一息ついた。部屋は妙に、しんとしていた。奇妙な空気のこわばりだった。何故だろうか。僕は首を傾げた。
 時間は水銀のように重たく、流れていく。九時半になり、九時四十分になった。僕は由希子にもう一度電話をした。彼女は出なかった。何か、不吉な出来事があったのかもしれない。不安が頭をもたげた。僕は神経を落ち着けるために、煙草を一本吸った。あとは、部屋のなかで、何をするわけでもなく、じっとしていた。
 目を閉じて、深呼吸を行った。時計を見ると、十一時半だった。いくらなんでも、遅すぎる。探しに行った方が良いのだろうか、だけど、いったいどこに。
 そのとき、ドアが開いた。もちろん、由希子だった。
「おかえり、何度も電話をしたんだよ」
 彼女は何も言わなかった。視線は宙を漂っていた。虚ろな目だった。様子が明らかにおかしかった。
 しばらく、玄関で立ち尽くしていた。靴を脱ごうとしなかった。左手にはハンドバッグの紐が絡まっていた。
「由希子、いったいどうしたの?」僕は彼女の肩を持った。彼女の身体は小刻みに震えていた。まるで、何かに怯えているみたいだった。
 目を潤ませたと思うと、静かに涙を流した。透明な液体は頬を伝って、しずくとなり、床に流れ落ちていく。僕は動揺した。そんな由希子を見たのは初めてだったからだ。
「ごめんなさい、寝るね」彼女は呟くように言った。微かに、作り笑いをした。
「嫌なことでもあったの?」
 彼女は僕の問いに答えず、ようやく靴を脱いで寝室に入り、ベッドのなかに潜り込んだ。僕もベッドに入った。彼女はじっと壁を見つめていた。目を開けていた。眠ることができないみたいだった。
「何があったの?」
「何でもないの」彼女はすぐに言葉を返した。
「何でもないってことはないだろう」僕は怒気を込めて、言った。「言いにくいことなのか?」
 由希子は黙っていた。
 しばらくのあいだ、沈黙が降りた。彼女は僕の顔を見た。
「ところで、岩崎さんと、夏希はどうなったの?」
「あの二人なら、仲良くなったよ。相思相愛みたいだった。たぶん、付き合っていくんじゃないかな」
「良かった」
 由希子は幾分落ち着いたみたいだった。「夏希にもようやく春が来たわね。嬉しいわ、まるで自分のことのように」
 僕はそれ以上、追求することを止めた。由希子の表情が元に戻っていたからだ。僕は少
しだけ、安心した。
 僕はキッチンへ行って、コカコーラを飲んだ。喉が渇いていたのだ。僕が抱えている秘密と、由希子が抱えている秘密はいったいどちらが重たいのだろうか。分からなかった。僕は首を振った。由希子だって、のぞみくらいの重たさの何かを抱えて生きているのかもしれない。僕が知らないだけなのだ。寝室に戻ると、由希子は疲れていたのか、ぐっすりと眠っていた。あどけない顔だった。
 僕は自然と笑顔になった。

 岩崎と夏希はやがて付き合い始めた。毎週どこかにデートへ行っているらしかった。岩崎は幸せそうだった。最初は大丈夫かなと不安だったが、心配ないようだ。一ヶ月は穏やかに過ぎていった。由希子におかしな様子はなかった。あの日の夜はいったい何だったのだろうか。僕は時々、思い返してみたが、分からなかった。そうこうしているうちに、のぞみとの約束の日がやってきた。良く晴れた、日曜日だった。僕は午前中にのぞみの家へ行った。家にはあがらなかった。母親と父親は珍しく不在だった。のぞみはお出かけの用意をしていた。黄色のナップサックを背負って、目を丸くしていた。
「私は、毎日、カレンダーを眺めて、待っていたの。ようやく、この日がやってきたね! 本当に楽しみにしていたから」
「そうだね。僕も待ち遠しかったよ。初めての二人でデートだから、緊張するなあ」
「心臓がバクバクいっているの、さっきから」
僕は笑った。
「街に行くんでしょう?」
「新宿って街だよ。大きな街なんだ。いろいろな建物が建っているし、いろいろな人がいるよ」
「のぞみ、行ったことないから楽しみだな」
「行こうか」
「うん」
 道を歩いているあいだ、僕はのぞみの手を握っていた。彼女の手は温かだった。駅に着いたときに、のぞみは僕の腕に絡み付いた。
「今日はたくさん甘えるの、良いでしょ、ゆうすけおじちゃん」
 僕は券売機で切符を買った。
「好きなだけ、甘えても良いよ」
「わーい。ありがとう、ね、キスして良い? ほっぺたに」
「駄目だよ、人前だし」
「人前じゃなかったら、良いの?」
「良いよ、今日は特別だからね。ママとパパには内緒だよ」
「何でそんな迷惑そうな顔をするのよ? 本当は嬉しいくせに。のぞみのことが好きで好
きでたまらないくせに」
 のぞみのテンションは終始高かった。
「分かったよ、嬉しいよ」本心だった。のぞみはにっこりと笑って、改札を通った。電車のなかで、のぞみはデイケアの話をした。わりと楽しく過ごしているようだった。トランプ遊びをしたり、バスケットボールをしたりしている。お昼ご飯は、一緒に食べる仲の良い女の子がいた。さゆりという名前だった。軽度の発達障害。病名はADHDだ。年齢は十九歳で、若かった。
「さゆりちゃん、とても美人なのよ。私よりもずっと」
「へえ」
「今度ゆうすけおじちゃんが私の部屋に来るときは、家に呼ぶから。とってもかわいいわよ。性格も穏やかだし、仲良しなの。やっと、友達ができた。嬉しい」
「何度か部屋で遊んだの?」
「うん、二回。家が近所なの。さゆりちゃんの家に遊びに行くこともある。とてもお金持ちなの。かっこいい車が何台も停まっていて、大きなお犬さんが眠っていて、玄関の水槽にはおさかなさんがたくさん泳いでいるのよ。ママも綺麗なの。まるで奇跡みたいな親子」
 どうしてそんな子が病気なのだろう、と僕は思った。とにかく、のぞみに友達ができて良かった。僕は安心した。
「友達ってなかなか良いものだろう?」
「そうね。もっと早く出会いたかった。のぞみはずっと一人だったから、寂しかったの。ゲームは飽きたし、漫画は何回も読み直したし」
やがて、電車は新宿に着いた。プラットフォームから見える光景に、のぞみは息を呑んだ。「ビルが高い、大きい、何もかもが大きい!!!」
記憶を失う前、のぞみは数え切れないくらい新宿に足を運んでいた。記憶を失うというのは、何とも言えないことだった。彼女は、病気以前のことはほとんど覚えていなかった。はしゃいでいるのぞみの腕を引っ張って、改札口を通った。僕はホテルのバイキングを予約していた。そこなら美味しい料理や、甘いケーキをたらふく食べることができる。
 バイキングはホテルの三十五階で催されていた。エレベーターに乗って、会場に向かった。受付で手続きを済ませた。なかに入ると、フロアはたくさんの人で賑わっていた。シャンデリアが鮮やかなひかりの束となって、降り注いでいた。テーブルには白い花が活けてあり、窓の外の景色が美しく広がっていた。空はどこまでも青く、雲は穏やかだった。見事な天気だ。のぞみはしばらくその美しい景色を見つめていた。料理に目もくれなかった。
「どうしたの?」
「何だか、懐かしい感じがするの。真っ青な空と、太陽の輝き。昔、こんな気分になったことがあったと思う。ずっと昔、きっと私が記憶を失う前に」
「昔?」
「それ以上は思い出すことができないの。頭の奥が、ずきずきと痛み始めるようで、怖いのよ」
 のぞみは憂鬱そうな表情を浮かべていた。香りの良い、美味そうな料理を目の前にして
も、もうはしゃいではいなかった。
「具合でも悪いの?」
「急に、食欲がなくなっちゃった。デザートのケーキだけ食べるね」
 彼女はデザートのコーナーへ行って、ケーキを選び始めた。黄色や薄い赤など、いろとりどりのケーキが並んであった。まるで宝石箱みたいだった。
 僕はバイキングコーナーに行って、リゾットやスパゲティをよそった。チキンの照り焼きと、サラダを皿に盛った。のぞみは小さなケーキを食べ終えると、肩を落として、じっとしている。
 僕は声をかけた。のぞみは笑っているばかりだった。笑顔はどこか形づくられていて、不自然だった。表情には、心なしか影が射している。
「ごめんね、せっかくのデートなのに。もう少ししたら、良くなるから」
「良いよ、たまにはそういったこともある。君は病人なんだ」
「そんなふうに言わないでよ」
「悪かったね」
「ごめん」
 僕は彼女の様子を眺めながら、料理を食べた。料理は、とても美味しかった。のぞみは手をつないできた。温かくて真っ白な手だ。僕はそのほっそりとした指先を撫でた。彼女は首を振った。
「ケーキ、美味しいね!」口をモグモグさせながら、のぞみは笑った。いつもの彼女が戻ってきた。
「好きなだけ、食べて良いんだよ」
「ゆうすけおじちゃん、ケーキ一緒に選びに行こうよ、本当に美味しいの」
のぞみは僕の手を引っ張って、移動した。彼女は嬉しそうだった。開放感に溢れていたし、笑顔が素敵だった。彼女はケーキを五つも選んだ。僕はチョコレートケーキとチーズケーキを皿に取った。香りの良い紅茶をティーカップに入れた。彼女はフレッシュ・オレンジジュースを注いだ。僕たちのテーブルは、窓の傍で太陽の陽光がふんだんに降り注いでいた。
「ご飯を食べたら、どこに行くの?」
「そうだね、ゲームセンターはどうだい? カラオケボックスでも良いよ」
「ゲーセン行って、カラオケ行こうよ」
「分かった。カラオケは二時間くらいで良い?」
「うん」
 僕は紅茶をすすった。新鮮なリーブの匂いが強かった。色合いも美しい。のぞみは、美味しそうにケーキを食べていた。
「新宿って街は凄いね!」
「気に入ったの?」
「うん」
「今度、ママに連れてきて貰うと良いよ」
「そうだね、ママは優しいし大好き。パパは釣りばっかりやっているけど、面白いんだよ。
パパが釣ってくるおさかなさんは新鮮で美味しいんだ」
「のぞみちゃんは幸せだと思うよ。家族は優しいし、お友達もできたし」
「うん」彼女はにこにこしていた。
 ゲームセンターでは一緒にUFOキャッチャーをやった。のぞみはスヌーピーのぬいぐるみが欲しかったけども、アームのちからが弱すぎて、二千円使ったが取れなかった。モグラ叩きを一緒にした。のぞみとの対戦成績は二勝二敗、僕は本気でやったが、彼女は俊敏な動きをして、舌を巻いた。太鼓の達人では、安室奈美恵の曲や宇多田ヒカルの曲を叩いた。僕はリラックスしていた。純粋にこのデートを楽しみ、笑い合った。のぞみも楽しそうだった。僕たちはしばしば談笑した。時間はあっという間に、過ぎ去っていく。カラオケボックスで歌を歌い、ジュースを飲んだ。僕はアセロラジュースを飲み、彼女はコカコーラを飲んだ。のぞみとは交代で歌った。彼女は音楽が好きだった。そのことは、記憶を失う以前と変化はなかった。
 新宿に別れを告げ、電車に乗って府中市に戻った。時刻は夕方の六時だった。太陽は陰り、小鳥の声が遠くから耳に届いた。僕たちは家の近くの公園に入った。公園は、数人の子供たちがいて、母親たちは話をしていた。シーソーがあり、ブランコがあった。綺麗に塗装された緑色のジャングルジムがあった。のぞみはベンチに腰を下ろした。僕は辺りを見回して、ゆっくりと座った。
「楽しかった、本当に」
「僕も楽しかったよ、のぞみちゃんと一緒にいれるから幸せだな」
「ねえ、行きの約束を覚えている?」
「もちろん、覚えているよ」僕は笑った。頬を差し出した。彼女は僕の首筋に手を回すと、唇と唇を合わせた。懐かしい、のぞみとのキス。僕たちはしばらくそうしていた。気がつくと、彼女の背中に手をやっていた。抱き締めていた。とても温かくて、小さくて、涙が出そうだった。いろいろなものがこみあげてきた。彼女は記憶を失った。病にかかった。
同時に、僕も失った。失ったものは、大きかった。
 のぞみは手を解いた。僕は彼女を見つめた。本当に、美しかった。ため息が出るくらい
に。
「おなかすいた!」彼女は甲高い声をあげた。僕は笑った。
「行こうか」
「うん」
 のぞみの家に戻ると、母親が料理をしている最中だった。玄関には父親が出てきて、「おかえり」と笑った。弟も顔を出した。
「たっだいまー!」のぞみは大きな声で言った。食卓を家族で囲んでいるとき、僕は本当に幸せだった。手のなかからするすると逃れていったものを、再び掴んだような気がした。由希子とはまた違った感情の流れがそこにあった。懐かしく、温かく、そして眩しい太陽のひかりで刷新されていくような感触がいつの間にか僕の心に宿っていた。
 夜の八時になった。
「そろそろ帰るね」
「またね。今度は、さゆりちゃんも呼ぶから、三人で遊ぼうね!」
「楽しみにしておくよ」
「祐介さん、本当に今日はありがとうございました」母親は礼を言った。
「そんなに感謝しないでください、僕も楽しいんです。本当に」
「精神の病気は差別も多い。世間から白い目で見られることもある。我々家族だって、受け入れることにずいぶん時間がかかった。君は立派だよ」
「好きなんです、のぞみちゃんのことが」僕はそう述べると、ドアのノブをひねって、帰
路についた。
「ばいばい」のぞみは笑っていた。本当に、無邪気だった。帰り道で、僕は公園のベンチに座った。誰も人はいなかった。常夜灯のひかりがこうこうと輝いていて、公園を人工的な色合いに染めていた。さっき、ここでのぞみとキスをした。僕はその感触を昔の記憶と重ね合わせ、地面の土を眺めていた。自然と涙がこみあげてきた。何もかもが分からなくなっていた。どうして、こんなことが起きたのだろう、理不尽だった、納得がいかなかったし、沸々と怒りのようなものがこみあげてきた。
 毎日、神様に祈っている。のぞみの病気が治り、記憶が元に戻りますように、と。もし、記憶が戻って、病が治ったとしたら、僕はいったいどうするだろう? 由希子と別れるのか? 僕は首を振った。由希子とは別れたくなかった。
 ひとつの感情は、また違った感情のうねりを生み、結局、頭のなかはくしゃくしゃのままだった。のぞみは、今、本当に幸せなのだろうか。僕は自分の幸せが分からなくなっていた。