愛ならどこにあっても構わない(3)
仕事帰りの夜に、よく由希子がいるカフェへ行った。彼女が働いている姿を見ると、気持ちが穏やかになっていった。リラックスすることができた。カフェは混んでいることもあれば、すいているときもあった。大通りは、人々の群れでごった返していた。冬は師走に差しかかっていた。外は冷たく、寒かった。僕はいつもブレンドコーヒーを注文し、小説を読みながら、煙草を吸った。すいている時間、由希子は僕の傍に来て話をした。僕たちは確かに、気持ちを通わせていた。相性が良かった。彼女といると、楽しかった。週末にデートをした。美術館へ行ったり、ランチを食べたり、僕の部屋で映画を観たりした。ソファにもたれかかって、肩のちからを抜いているときだった。付き合って二ヶ月くらい経ったころだ。
「就職活動はどうするの? 志望の業界はある?」と僕は訊いた。彼女は僕の膝に手をの
せていた。
彼女は少しだけうつむいた。
「就職はしないの。まるで自分の人生をかすめ取られてしまうような気がするから・・・・・・。キャリアウーマンとか、私には似合わないわ」
彼女は僕の膝の上から手を離すと、身体を起こし、缶のビールを少しだけ飲んだ。
「人、それぞれ自由だからね。人はもっと自由であるべきだと思う」
「どうしてあなたは働いているの? 残業だって多いじゃない、辛くはないの?」
僕は思考を巡らせた。煙草を一本取り出して、火を点けた。そして、煙を肺の奥深くまで吸い込んで吐き出した。
「何も考えていないんだよ。毎日、満員電車に揺られて、くたくたに働いて、給料を貰って・・・・・・。みんな、そうしているし、疑問に思ってはいない。おそらく何も考えないこと
はひとつの正解なんだ。僕はそんなに頭の回転が早くないし」
「普通でいることは、大変よね。私にはできそうもない」
部屋は静かになった。僕は言葉を探り当てようとしたが、うまく見つけることができなかった。
「私が卒業したら、一緒に暮らさない? この部屋だと手狭だし、少し広いところに引っ越して」
「いいよ、一緒に暮らそう。君といると、楽しいし」
「私のことをもっと好きになってもらうからね」
彼女はビールを飲み干すと、僕の左腕に抱きついた。
「私はここのところ、夜に夢を見ないの。前は悪夢が多かった。たぶん、人生にうんざりしていたのだと思う」
「うんざり?」
いろいろなことに、と彼女は小さな声で言った。彼女なりに、いくつかの問題を抱えているのだろう、と僕は思った。
「祐介と暮らしていけば、きっと素敵な夢を見ることができると思うの。ただの、直感だけどね」
「そうなると、いいね」僕は笑った。
大学の一年生のときに、夏、のぞみと沖縄へ行った。二泊三日の旅行だったが、ツアーで格安だった。何故安いのか。それは、一日に五軒も六軒も土産物屋を回らせられるからだったし、ホテルは老朽化していて、オーシャンビューとはほど遠かったのだ。夜には、ハブが出るから外出しないでくださいということだった。不自由だった。安いから仕方がないのか、と僕はため息をついた。部屋は広く十畳ほどあり、テレビや冷蔵庫はなかった。殺風景だった。
「サークルの合宿みたいだね」とのぞみは言った。
「本当に、何もないホテルだね。でも、首里城は綺麗だった。万座毛も」
「沖縄は、一度行ってみたかったの」
僕は窓の外を眺めた。一面サトウキビ畑で、暗がりだった。確かに、ハブが出そうだ。僕は息を呑んだ。
「私、お風呂に入ってくるね」
風呂は大浴場だった。僕は何もない部屋で、ぽつりとしていた。コンビニエンスストアで買っていたカルピスウォーターを飲みながら、雑誌を眺めていた。ツアーの客は、若い子が多かった。カップルもいたし、女の子の三人組もいた。僕は雑誌を読むことに飽きると、一階のダイニングに行った。自動販売機でブラックコーヒーを買った。ダイニングには、女の子が二人座っていた。テーブルの隅にはテレビがあった。彼女たちは退屈そうに、テレビを眺めていた。バラエティ番組のようだった。
「こんばんは」と髪の長い女の子が僕に言った。
「退屈でしょう? ここに座って、お話しませんか?」ショートカットの茶髪の女の子が笑った。
髪の長い女の子は亜希という名前で、ショートカットの方は美紀という名前だった。姉妹だった。顔立ちはよく似ていた。年齢は二十一歳と十九歳。二人とも学生だった。姉は看護学部に通っていて、妹はフランス文学を学んでいる。江戸川区に住んでいるということだった。彼女たちはハーブティーを飲んでいた。家から持参したものらしかった。僕は缶コーヒーのプルタブを開けると、ひとくち飲んだ。
「彼女、綺麗な人ですね。ちょっと、その辺にはいないというか」
「そうそう、タレントかモデルみたい」
「いつから付き合っているんですか?」
「高校二年生からだよ」
「お似合いのカップルですね。恋人がいないから羨ましいです」
「二人ともいないの?」
彼女たちは照れくさそうに、頷いた。ルックスは悪くなかったし、性格も良さそうだった。僕は不思議に思った。
「ところで、このツアー酷いと思いません? 土産物屋ばかり連れていかれるし、ホテル
はこんなだし、食事は出ないし。夜なんてサンドウィッチですよ、コンビニエンスストアの。部屋は何もない上に殺風景だし」
「確かに、酷いね。でも、のぞみは楽しそうだよ。のぞみって僕の恋人の名前。海は綺麗だし、心が穏やかになるって」
「どうして、人は水に惹き付けられるか分かりますか?」美紀が質問した。
僕はそのことについて、少しばかり考えてみた。
「分からないな」
「水は、すべての源だからです。故郷のようなものですから」
「つまり源泉のようなもの?」
「根源です」彼女はきっぱりと言った。
「面白い考え方だね」
「のぞみさんは、部屋にいらっしゃるのですか?」
「お風呂に入っているよ。もう、そろそろあがってくると思う」
やがて、のぞみがやってきて四人で話をした。時刻は十時になり、十一時になった。僕
は眠くなかった。のぞみもそのようだった。
他の人は、ダイニングに姿を見せなかった。みんな部屋のなかにいて、いったい何をやっているのだろうか。やることがないので、きっと眠っているのだろう。不思議な時間の流れ方だった。独特の、とろみがあり、温かな空気と混ざり合って、アットホームな雰囲気を醸成していた。
「お二人は結婚するのですか、その・・・・・・、将来的に」亜希が言った。
「そのつもりよ」のぞみが笑った。
「幸せな家庭を築けそうですね。お似合いのカップルです」
「ありがとう」
「良かったら、東京に戻ってからもたまに会ったりしませんか?」
「良いよ、連絡先を交換しよう」
「美紀は男の子を紹介して貰おうと思っているんです」
「だって、全然出会いがないんだもん・・・・・・」美紀は口を尖らせた。
僕たちは笑い合った。夜も遅くなってきたので、十一時半に部屋に戻った。のぞみはブルーのパジャマに着替えた。
「良い人たちね」
「本当に」
僕は彼女にキスをした。柔らかい唇だった。湿っていて、とても素敵だった。
「私はあなたとしか付き合ったことがないの、あなたは私としか付き合ったことがない。運命めいたものを感じるわ」
「運命というものは必ず存在するよ。昔は、天命とか言ったもんね。天っていうのは、存在すると思うね」
「神様っていると思う?」
「きっと、いるわ、世界のどこかに」
彼女はこの上なく優しい言葉遣いで言った。そして、布団を二組敷くと、タオルケットにくるまって、眠ってしまった。気がつくと、眩しい朝がやってきていた。太陽があらゆるものを流しだし、輪郭をはっきりとさせていった。
「おはよう」とのぞみは笑った。
「おはよう」僕は笑った。
「素敵な朝ね。何もかもが眩しいわ・・・・・・」彼女は目を細めた。
「昨夜はぐっすり眠っていたね」
「最近、眠りが深いの。休みの日は一日中寝ていることもある」
僕はその言葉を聞いて、少し心配になった。
「自分でもどうしようもないくらいに」
僕は彼女の髪を撫でた。「きっと、疲れているんだよ。いろいろなことに真剣になり過ぎている」
「ナーバスになっているということ?」
「そうかもしれない」
「リラックスしなきゃ、ね」のぞみはそう言って、洗面所へ下りて行った。僕はしばらく、外の景色を眺めた。心には言いしれない不安があった。何故だろう。胸騒ぎがした。