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小説のブログです!

愛ならどこにあっても構わない(7)

 

のぞみの様子がおかしくなったのは、秋の軽井沢旅行が終わって、冬休みに入ったころだった。よくアルバイトの予定をすっぽかして、クビになったり、喜怒哀楽が激しくなった。僕と会っていても、楽しいのか楽しくないのか、分からなかった。まったく話さなくなったかと思えば、饒舌になることもあった。おかしいなと思った。

 十二月の日曜日のある日、僕たちはデートに行った。印象派の美術展があった。新宿の美術館だった。彼女は絵画が好きで、飽きもせずじっと眺めているのが常だった。しかし、このときは違った。並んでいる絵にまったく目もくれず、早歩きでとっとと出て行った。僕は呆気に取られた。僕のことを置いて行ったからだ。僕は慌てて、追いかけた。彼女の肩を掴んだ、肩は震えていた。彼女は今にも、泣きそうな表情を浮かべていた。

「どうしたの?」

「お客さんのなかに、霊能者がいるわ・・・・・・。私に嫌な念を送ってくるの、お前は間違っている、お前はくだらない、お前は早く立ち去るべきだって」

「気のせいだよ」

「気のせいじゃないわ!」彼女は大きな声を張り上げた。「あなたには、何も分からないの

よ。本当に、馬鹿なんだから!」

 のぞみは僕の手をふりほどくと、また早足で歩き始めた。大きな声をあげたせいで、人々は僕たちの方を注視していた。

「待てよ」僕は急ぎ足で、彼女の後ろ姿を追った。美術館を出て、彼女は新宿駅の西口に向かっていた。のぞみは振り返った。大粒の涙を流していた。地面に座り込んで、声をあげて、わんわんと泣き出した。

「とにかく、少し落ち着こうよ」僕はできる限り優しく微笑み、言った。

「どうして私は美術館に入っちゃいけないのよ、なんで指図をされないといけないの?

もう、わけが分からない!」

「誰も指図なんてしてないよ」

 僕はハンカチで彼女の涙を拭いながら、落ち着ける場所を探したが、あいにくカラオケ店くらいしかなかった。僕は彼女を起こし、カラオケ店に連れて行った。防音だから、いくら泣き声をあげても、迷惑にはならないだろうと思った。部屋に辿り着くと、ソファに

座らせた。ルーム電話で烏龍茶を二つ注文した。のぞみの顔色は優れなかったし、息苦しそうだった。過呼吸気味だ。

 僕はゆっくりと彼女の背中をさすった。彼女は次第に落ち着きを取り戻していった。しかし、目にひかりは戻っていなかった。虚ろなままだ。

「ごめんなさい、迷惑をかけて」のぞみは弱々しく言った。

「良いんだよ、大事なのぞみだから・・・・・・」

 やがて、烏龍茶がやってきた。彼女はストローを差し込み、吸い込んだ。

「もう大丈夫よ。少し休憩したら、行きましょう。レストランを予約しているんだよね、凄く楽しみにしているんだから」

「いや、今日は家に戻った方が良いよ。レストランは、キャンセルしておく。家まで送っていくよ」

 のぞみは何も言わなかった。宙を眺めていた。哀しげな目だった。涙のせいで、目が腫れていた。

 その日の夜は、のぞみの家で夕食を食べた。彼女はすっかり落ち着き、正常になっていた。僕は夕食を食べ終わると、家に戻った。

 亜希に電話をした。

「こんばんは」

「やあ」

「どうしたの?」

「ちょっと訊きたいことがあってね」

「何かな?」

「最近ののぞみの様子はどうだい?」

 電話口が一瞬静まりかえった。

「ちょっと怖いわね、あの子」

「怖い?」

「神経質になったというか、ささやかなことで怒るし、私は何度か怒鳴られたの。怒鳴られるようなことはしていないのに。美紀にも無茶を言っているみたいよ、夜中の二時に電話をかけて、今から渋谷で遊ぼうとかね。美紀もうんざりしているわ。仲が良かったから、私たち口には出さないけど、迷惑しているの。これが本音」

「そうか」

「何かあったの?」

「ちょっとね」

 僕は美術館での光景を思い出した。

「私たち、のぞみには感謝しているのよ。美紀が彼氏できたのも彼女のおかげだし、優しかったし、素敵だった。ただ、最近は関わらないようにしている。着信拒否にしようかと思っているくらいなの。夜中に電話をかけてくるのは非常識だわ。祐介は彼氏だから、それとなく注意しておいてよ」

「迷惑をかけて、悪かった」

「きっと、ストレスを溜め込んでいるのよ。解消した方が良いわ。じゃ、おやすみ」

 電話は切れた。亜希の声はどことなく冷淡だった。彼女はのぞみのことを怖いと言った。僕はその怖さを今日、垣間見た。まるで別人みたいだった。僕は頭を抱えた。落ち着くために、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。電話が鳴った。のぞみの父親からだった。

「祐介君か、家が大変なんだ。とにかく、急いで来てくれ。タクシー代は私が払うから!」

電話はすぐに切れた。僕は心臓の暗い鼓動を感じた。こめかみの奥が酷くうずいた。いったい、何が起こっているというんだ・・・・・・。何なんだ、今日は。

 タクシーでのぞみの家に行った。チャイムを押すと、母親が出てきた。明らかに彼女は狼狽していた。顔が真っ青だった。

「入ってください」

「お邪魔します」

 リビングルームは、ガラスの破片が散乱していた。液晶のテレビは叩き壊され、花瓶は割れ、グラスや皿は粉々。フローリングには、ゴルフクラブが何本か転がっていた。酷い有様だった。まるで災害か何かにあったみたいだ。

「のぞみさんがやったのですか?」

「そうだ、信じられないちからでね。押さえつけても無駄だった」

「怖かったわ」

 父親の右腕にはあざができていて、青黒かった。「アイアンで私の頭を殴ろうとしたんだ。わけの分からない奇声を発してね。殺されるところだったよ」

「それでのぞみさんは今どこに?」

「玄関を出て、走り去って行った。どこに行ったのか分からない」

「たまに様子がおかしいことはあったけど、ここまで酷いのは初めてです。もう、どうして良いのか分からなくて」

「砂糖や調味料を毒だと言って捨て出すし、煙草はサリンだと言って水に漬けるし。パニック状態だよ、我々としても」

「精神科に連れて行った方が良いかもしれませんね、お父さん」

「また暴力を振るわれたら、一緒に暮らせないな・・・・・・」

「のぞみさんを探してきます。昼間も様子がおかしかったんです、実は」

「よろしく頼む。私も探してみる。お母さんは家にいてくれ。もしかすると、戻ってくるかもしれないし」

「分かりました。気を付けて、行ってらっしゃい」

 僕たちは二手に分かれて、のぞみを探した。そう遠くには行っていないはずだと思った。のぞみの行きそうなところを当たった。ゲームセンターやカラオケボックスといった場所だが、彼女はいなかった。僕の頭のなかは混乱していた。のぞみの内側でいったい何が起こっているのだろうか。僕には分からなかった。理解することができなかった。亜希はのぞみと関わりたくないと言った。美紀も同じだった。あんなに仲良しだったのに、溝は深まり、決定的なところにまで達していた。この街にはいないのかもしれない。僕は夜中じゅう、新宿と渋谷の街を歩いた。どこにものぞみはいなかった。時々、父親と連絡を取り合ったが、彼も見つけることはできなかった。

 朝になり、昼になった。ろくに食べ物も食べていなかった。眠気が襲ってきた。僕はネットカフェに入り、二時間ばかり仮眠をとった。ぐったりと疲れていた。腹も減っていたので、焼きそばを食べた。携帯電話を見ると、父親から着信が入っていた。僕は折り返し、連絡をした。

「もしもし、祐介君」

「はい」

「のぞみが見つかったよ」

「いったいどこにいたのですか?」

「横浜だ。タクシーの運転手が不審に思って警察に通報したらしい。奇声を発するし、窓をドンドン叩くし、お金は持っていないし。これから、私が迎えに行くから、君はゆっくり家で休みなさい、また連絡する」

「分かりました」

 僕は電話を切った。僕はネットカフェを出て、まっすぐ家に向かった。へとへとだった。足は棒のようだし、心はずきずきと痛んだ。のぞみのことが何よりも心配だった。彼女はいったい、この先どうなってしまうのだろうか。

 翌日も、その翌日も電話は鳴らなかった。僕は息を潜めて、じっとしていた。待つしかなかった。幸い冬休みだし、予定はなかった。頭のなかでは、様々な不安要素がよぎった。のぞみはもう元には戻らないんじゃないかとか、多重人格になってしまったのではないかといったものだった。不安に押しつぶされそうになった。

 五日目の夜に電話があった。午後の七時くらいだった。

「のぞみは入院したよ、精神科に」

「そうですか・・・・・・」予期していたことだが、現実となると酷く重たかった。

「病名は、統合失調症だ。現在、薬物による治療を行っている。保護室といって、独房のようなところに入っている。刺激を取り除き、落ち着かせる必要があるからだよ。外界との接触をシャットアウトしているところだ」

「お見舞いに行きたいのですが」

「家族以外は面会謝絶でね、申し訳ないけど」

 僕は黙った。重苦しい沈黙が覆った。

「それに、もう君のことは覚えていないんだ・・・・・・。おそらく、会っても誰だか分からないと思う」

「どうしてですか?」僕は気が動転した。石のハンマーで殴られたような、鈍い痛みを感

じた。

「記憶の大部分を失っているんだ。知能は小学校中学年くらいまで下がっている。話し方も子供みたいだった。まるで、たちの悪い悪夢を見ているようだよ。だが、これは現実なんだ。私も君も受け止めなくてはいけない」

「そんな・・・・・・」

「退院したら、一目会わせてもらえませんか? 僕のことを思い出すかもしれないですし」

「がっかりするかもしれないよ、もうのぞみはどこにもいない。会うことは止めないがね。会わないで別れた方が君のためだと思う」

「退院したら、知らせてください。ずっと待っていますから」

「分かった」

 のぞみが退院したのは、半年後の夏だった。大学にはとりあえず休学届が出されていたけども、退学届に変わっていた。僕はその現実を受け入れることが難しかった。頭では理解しようとしても、心が伴わなかった。毎日、神社へ行ってお祈りをした。家の近くの小さな神社へ雨の日も風の日も通った。いくら祈っても、現実は変わらなかった。僕は一人寂しく、孤独に過ごした。また、空を眺めるようになっていた。僕は孤独だった。のぞみの存在がいかに大きいか、今更ながら知った。僕は彼女の屈託ない笑顔や、素敵な仕草、つるりとした美しい肌、甘い口元、綺麗な黒い瞳を思い出した。

 退院してから、しばらく経った後に、僕はのぞみと会った。そして、はっきりと別れを両親に告げた。のぞみに言っても、僕のことは覚えていないし、意味はないからだ。両親は納得し、励ましてくれた。君のことは本当に気に入っていたし、残念だがお互いのためだ。どこかで良い女性を見つけてくれ・・・・・・。久しぶりに見たのぞみは違った姿となっていた。

 

「由希子、コーヒーを作って欲しい」僕はそう言った。土曜日の朝だった。

「はい、ちょっと待ってね」

 由希子が淹れるコーヒーは本当に美味しかった。由希子はカフェ海音を辞めて、製薬会社で働くようになった。日々は忙しそうだ。僕も家事を少し手伝っている。朝食にケチャップトーストを食べ、コーヒーを飲んだ。煙草を吸った。

「明日よね、夏希と岩崎さんを会わすのは。私は用事があって行けないから、代わりにお願いするわね。岩崎さんが気に入ってくれると良いんだけど」

 季節は初夏だった。岩崎にこの話を持ちかけたとき、最初彼は断った。とてもそんな気分になれないという理由だったが、時間の経過とともに、夏希に興味を持ち始めた。夏希は美しい顔立ちだったし、何より素直で良い子だった。夏希は最初から、岩崎に好感を持っていた。

 僕は、もう一本煙草を吸った。

「祐介、どこか出かけるの?」

「ちょっと用事があってね」

「気を付けて行ってらっしゃいね。晩ご飯はビーフシチューだから、お楽しみに」

「ありがとう」

 僕は煙草の火を水道の水で消した。白いアディダスのスニーカーを履き、ドアを開けて、外に出た。駅まで歩き、電車に乗る。車中には、高校生の集団がいて、騒がしかった。時刻は十一時を少し回った辺りだった。府中市のとある駅に着くと、電車を降りて、しばらく歩く。街路樹はみずみずしい葉を並べ、風のそよぎで揺れている。お土産には、ピンクのくまのぬいぐるみとチョコレートのお菓子。チャイムを鳴らす瞬間が一番緊張する、その一瞬をかいくぐれば、あとはすんなりと心は落ち着いた。いつも、決まってそうだった。何かの儀式みたいに。

「やあ、祐介君いらっしゃい」のぞみの父親は僕の顔を見ると、いつも笑顔になった。玄関では母親も出迎えてくれた。

「いらっしゃい」

 母親は仕事を辞め、のぞみの世話を行っている。大変だが、充実した日々だと語る。特に最初は、どう接して良いのか分からなかったそうだ。僕は階段をあがり、のぞみの部屋に行った。のぞみはベッドに寝転がって、少女漫画を眺めていた。

「こんにちは、ゆうすけおじちゃん」

「のぞみちゃん、お久しぶり。良い子にしていたかな?」僕は優しい声で話しかけた。

「良い子にしていたよ。最近はね、悪いおじさんの声が聞こえなくなったの。水星の神様がやっつけてくれたんだって」

「それは良かったね、良い子にはご褒美だよ」僕はそう言って、くまのぬいぐるみとお菓子を渡した。

「わーい、ありがとう」

「さあ、パパとママが下で待っているから、降りようね」

「はーい」

 病院を退院したばかりののぞみは、目がぎらりとひかり、言葉は届かなかった。まともに会話できる状態ではなかった。一応は落ち着きを取り戻していたが、今ほどに良くはなっていなかった。そのときに会ったのぞみの姿や様子に、僕は言葉を失った。何も考えることができなかった。あのとき、確かに両親に別れを告げたが、時々、こうして遊びにやってきている。のぞみの美しさは相変わらずだったし、幼い心を持った彼女は愛くるしく、かわいかった。のぞみのことを今でも愛していると時々は思う。そうでなければ、会うだけでこんなに緊張したり、胸が高鳴ったりするわけがないのだ。過去の記憶は簡単には消すことができない。のぞみの場合は、過去と現在の像が入り交じり、不思議な深みを帯びている。のぞみには友達がいなかった。亜希や美紀とはもうとっくに関係が途絶えていたし、サークルの連中は病気以後誰ひとりとして会いにくることはなかった。大学の友人も同じだった。みんな冷たかった。まるで関心がないみたいだった。時々僕が会いに来ることについて、当初両親は難色を示した。会わないでおくのも優しさじゃないだろうか、などと言われた。だが、今では、こうして喜んでくれている。のぞみはすっかり変わってしまったと言っても、僕と会っているときの娘の嬉しそうな顔を見ることが好きなのだろう。やはり親なのだ。娘の幸せな様子を眺めることは、幸福に違いない。

 リビングの椅子に座った。のぞみはぬいぐるみの包装紙を破っていた。

「かわいい! ありがとうね。くまさんだー」

「いつも悪いね」

「いいえ、好きでやっていることですから」

「のぞみが病気にならなかったら、今頃結婚して、孫の顔でも見られたでしょうに・・・・・・」

母親はそう言って、料理を作っていた。

「ママ、今日のお昼ご飯は何?」

「オムライスよ」

「オムライス大好き」

「のぞみちゃん、お昼ご飯を食べたら、お散歩しようね」

「分かった。それから、次に会うときは二人っきりでデートだからね。前に約束したよね?

街の美味しいケーキ屋さんに行って、たくさんケーキを食べるの!」

「うん、僕も楽しみにしているよ」

「のぞみはデートをしたことがないから、本当に楽しみなんだ・・・・・・」

「デートは良いけど、お薬は毎日飲んでいる? 飲まないと入院することになって、僕と会えなくなるよ」

「うん。嫌だけど、飲んでいるよ」

「よしよし」

「よしよしして」

 僕はのぞみの頭を優しく撫でた。彼女は笑った。素敵な笑顔だった。母親がオムライスを持ってきた。のぞみはケチャップをたっぷりと付けた。いただきますと言って、食べ始めた。

「祐介君、今でものぞみのことが好きなんだろう?」父親が訊いた。

「そうですね」僕は返答した。率直な言葉を述べた。

「祐介さんに限って、間違いは起こさないわ」

「間違いって?」のぞみは質問した。

「変なことはしないって意味だよ」父親は言った。

「変なことって?」

「こら、質問ばかりはよしなさい」

「ごめんなさい」彼女は頭をぺこりと下げた。

「私もゆうすけおじちゃんのことが大好きだよ。優しいし、かっこいいし、プレゼントはたくさんくれるし、将来は結婚したいな!」

「ありがとう、嬉しいよ」

「祐介君が我が家に来てくれたら、賑やかになるな」父親の顔には笑みがこぼれた。

「祐介さんには、もう決まった女性がいるんですよ、のぞみ」

「そういうの浮気っていうんだよ、悪い人だね」のぞみはくすくす笑った。「私、その女の

人に負けない自信があるもん」

「どうして?」

「分からないけど、とにかく負けないの!」

 リビングの雰囲気は常になごやかだった。食事が終わると、僕と母親はのぞみを連れて散歩に行った。のぞみは僕の手を握っていた。楽しそうな様子だった。たくさんの人に慕われていたのぞみを尋ねてくる友人は今や皆無だった。記憶を失っているとは言え、寂しいものだろうな、と僕は思った。彼女は僕との時間をいつも心待ちにしていた。普段は部屋にこもってゲームをしたり、漫画を読んでいる。あるいは、インターネットでホームページを閲覧している。小学校中学年程度の知能なので働くことは無理だった。外出はほとんどしない。収入は障害者年金があったけども、微々たるものだった。両親が元気なうちはまだ良いが、いなくなったらどうやって暮らしていくのだろうか。僕はいつも不安に思っていた。一人暮らしは難しいだろうし、病院で暮らすことになるのかもしれない。のぞみにはもっと人生を楽しんで欲しかった。僕の切なる願いだった。僕はやがて由希子と結婚するだろう、会いに来るのは難しくなるかもしれない。のぞみはきっと毎日泣くだろうし、孤独に過ごすに決まっている。いつか、彼女は言っていた。私に何かあったら、代わりの女の子を見つけなさい、と。

 僕はようやく女の子を見つけた。心の整理に何年も時間がかかった。すべて病気が悪いんだと思うと、憎らしくなってきた。運命を呪った。

「あ。コンビニ寄って良い? 喉が渇いちゃった」

「良いよ」

 二人でカルピスソーダを選び、二本買った。代金は母親が出してくれた。

「公園のベンチで休憩しようよ」

「そうだね」

 ベンチは木陰になっていた。風が心地良かった。僕たちはベンチに座って、カルピスソーダを飲み、談笑した。

「のぞみを今度、デイケアに通わせようと思っているんです」

デイケア?」

「障害を持った人同士が集まって過ごす場所みたいなものです。トランプをしたり、一緒にお昼ご飯を食べたり、お昼寝したり。この子には友達がいないから。少しでも、外の空気に触れさせたくて。病状も安定しているし、大丈夫だと思うのです」

「賛成ですね、部屋に閉じこもるのは良くないです」

「のぞみはどっちでも良いけど」

「正直なところ、いつまで会いに来ることができるか分かりません」

「そうですよね」母親は目立たないようにため息をついた。「本当に、良くしてもらっていると思います。感謝しても仕切れないくらいです」

「会いに来ることができるか分からないってどういうこと?」彼女は不機嫌になった。

「外国に住むかもしれないんだ」僕は嘘を付いた。「アメリカとかヨーロッパとか、アフリカのジャングルの奥地とかね」

「だったら、のぞみも一緒に行く!」

「駄目よ、のぞみは病院に通わなくちゃいけないでしょ」

「外国にも病院はあるじゃん!」彼女はむきになって、言った。

「外国の病院は英語ができないと駄目なんだよ。お医者様とお話しないと、お薬を出せな

いだろう?」

 のぞみはうつむいた。目には涙が溜まっていた。かわいそうになってきた。僕は息苦しくなった。

「行くかもしれないだから、もしかすると、行かないかもしれない」僕は明るい声で言っ

た。

「本当に? 絶対に行っちゃ駄目だよ!」彼女は涙を拭き、笑顔を見せた。

「そうだね、僕も願っているよ」

「のぞみが水星の神様にお祈りしとくね」

「ありがとう」

「水星の神様、水星の神様、どうかゆうすけおじちゃんが外国に行かないように。お願いします」

 母親はくすくす笑った。

「私は真剣なんだよ」のぞみはムスッとして、頬を膨らませた。

「ごめんね、のぞみ」

「行こうよ、お散歩終わらせて、私の部屋でゲームしよ」

「分かった、じゃ、歩こうね」

「はーい」にっこりと笑った彼女の顔は美しかった。あの頃と、何も美しさは変わっていなかった。

 のぞみの部屋のなかでパズルゲームをして、時間を過ごした。彼女はとても上手だった。僕はかなわなかった。

「お手上げだね、ずいぶん上手いね」

「だって、毎日やることないもん。友達もいないし」

デイケアへ行ったら、友達ができるよ」

「ゆうすけおじちゃんが、毎日来てくれたら・・・・・・。この家に住んだら良いのよ。そうしたら、楽しいもん」

「できることならそうしたいけどね、いろいろな事情で難しいんだ」

「そっか」

 僕は二人きりの空間が好きだった。あの懐かしい日々を思い出すことができるし、今ののぞみも十分に魅力的だった。美しさ、無邪気さ、あどけなさ。彼女の傍にいると、心がほんのりと温かくなった。

 彼女はかつて僕のことを純粋だと言ったが、今の彼女は正に純粋そのものだった。

「ジュース取ってくるね!」彼女は走り出し、ドタドタと階段を降りていった。しばらくすると、オレンジジュースを一本持ってきた。グラスは二つだった。

「ところで、どんな女の人と付き合っているの?」

「料理が上手くて、努力家で、頭がわりと良くて、性格は穏やかな女性だよ」

「ふーん。そうなんだ。写真はある?」

 僕はスマートフォンに保存してある由希子の画像を見せた。彼女はまじまじと見つめた。

「確かに綺麗な人だけど、私の方がかわいいじゃない?」

「そうだね、のぞみちゃんの方がかわいいね」

「ゆうすけおじちゃんと私は付き合っているんだから!」

「初耳だな」僕は笑った。

「ママが言ってたもん。昔付き合っていて仲が良くて、喧嘩ひとつしたことがなくて、結婚するつもりだったって。だから、今も付き合っているの。私は、別れた覚えがないし」
「なるほどね」僕はもう一度笑った。「そろそろ帰る時間だ。またね。今度はデートだ。楽しみにしているよ」
「お手々、つないでよ・・・・・・。もう、帰っちゃうの、のぞみ寂しい」
 僕はのぞみと手をつないだ。ドアを開けて、リビングへ出た。父親と母親が座って、テレビを眺めていた。
「おやおや、手をつないで、ラブラブだな!」父親が笑った。
「のぞみとゆうすのぞみの様子がおかしくなったのは、秋の軽井沢旅行が終わって、冬休みに入ったころだった。よくアルバイトの予定をすっぽかして、クビになったり、喜怒哀楽が激しくなった。僕と会っていても、楽しいのか楽しくないのか、分からなかった。まったく話さなくなったかと思えば、饒舌になることもあった。おかしいなと思った。
 十二月の日曜日のある日、僕たちはデートに行った。印象派の美術展があった。新宿の美術館だった。彼女は絵画が好きで、飽きもせずじっと眺めているのが常だった。しかし、このときは違った。並んでいる絵にまったく目もくれず、早歩きでとっとと出て行った。僕は呆気に取られた。僕のことを置いて行ったからだ。僕は慌てて、追いかけた。彼女の肩を掴んだ、肩は震えていた。彼女は今にも、泣きそうな表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
「お客さんのなかに、霊能者がいるわ・・・・・・。私に嫌な念を送ってくるの、お前は間違っている、お前はくだらない、お前は早く立ち去るべきだって」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃないわ!」彼女は大きな声を張り上げた。「あなたには、何も分からないの
よ。本当に、馬鹿なんだから!」
 のぞみは僕の手をふりほどくと、また早足で歩き始めた。大きな声をあげたせいで、人々は僕たちの方を注視していた。
「待てよ」僕は急ぎ足で、彼女の後ろ姿を追った。美術館を出て、彼女は新宿駅の西口に向かっていた。のぞみは振り返った。大粒の涙を流していた。地面に座り込んで、声をあげて、わんわんと泣き出した。
「とにかく、少し落ち着こうよ」僕はできる限り優しく微笑み、言った。
「どうして私は美術館に入っちゃいけないのよ、なんで指図をされないといけないの?
もう、わけが分からない!」
「誰も指図なんてしてないよ」
 僕はハンカチで彼女の涙を拭いながら、落ち着ける場所を探したが、あいにくカラオケ店くらいしかなかった。僕は彼女を起こし、カラオケ店に連れて行った。防音だから、いくら泣き声をあげても、迷惑にはならないだろうと思った。部屋に辿り着くと、ソファに
座らせた。ルーム電話で烏龍茶を二つ注文した。のぞみの顔色は優れなかったし、息苦しそうだった。過呼吸気味だ。
 僕はゆっくりと彼女の背中をさすった。彼女は次第に落ち着きを取り戻していった。しかし、目にひかりは戻っていなかった。虚ろなままだ。
「ごめんなさい、迷惑をかけて」のぞみは弱々しく言った。
「良いんだよ、大事なのぞみだから・・・・・・」
 やがて、烏龍茶がやってきた。彼女はストローを差し込み、吸い込んだ。
「もう大丈夫よ。少し休憩したら、行きましょう。レストランを予約しているんだよね、凄く楽しみにしているんだから」
「いや、今日は家に戻った方が良いよ。レストランは、キャンセルしておく。家まで送っていくよ」
 のぞみは何も言わなかった。宙を眺めていた。哀しげな目だった。涙のせいで、目が腫れていた。
 その日の夜は、のぞみの家で夕食を食べた。彼女はすっかり落ち着き、正常になっていた。僕は夕食を食べ終わると、家に戻った。
 亜希に電話をした。
「こんばんは」
「やあ」
「どうしたの?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
「何かな?」
「最近ののぞみの様子はどうだい?」
 電話口が一瞬静まりかえった。
「ちょっと怖いわね、あの子」
「怖い?」
「神経質になったというか、ささやかなことで怒るし、私は何度か怒鳴られたの。怒鳴られるようなことはしていないのに。美紀にも無茶を言っているみたいよ、夜中の二時に電話をかけて、今から渋谷で遊ぼうとかね。美紀もうんざりしているわ。仲が良かったから、私たち口には出さないけど、迷惑しているの。これが本音」
「そうか」
「何かあったの?」
「ちょっとね」
 僕は美術館での光景を思い出した。
「私たち、のぞみには感謝しているのよ。美紀が彼氏できたのも彼女のおかげだし、優しかったし、素敵だった。ただ、最近は関わらないようにしている。着信拒否にしようかと思っているくらいなの。夜中に電話をかけてくるのは非常識だわ。祐介は彼氏だから、それとなく注意しておいてよ」
「迷惑をかけて、悪かった」
「きっと、ストレスを溜め込んでいるのよ。解消した方が良いわ。じゃ、おやすみ」
 電話は切れた。亜希の声はどことなく冷淡だった。彼女はのぞみのことを怖いと言った。僕はその怖さを今日、垣間見た。まるで別人みたいだった。僕は頭を抱えた。落ち着くために、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。電話が鳴った。のぞみの父親からだった。
「祐介君か、家が大変なんだ。とにかく、急いで来てくれ。タクシー代は私が払うから!」
電話はすぐに切れた。僕は心臓の暗い鼓動を感じた。こめかみの奥が酷くうずいた。いったい、何が起こっているというんだ・・・・・・。何なんだ、今日は。
 タクシーでのぞみの家に行った。チャイムを押すと、母親が出てきた。明らかに彼女は狼狽していた。顔が真っ青だった。
「入ってください」
「お邪魔します」
 リビングルームは、ガラスの破片が散乱していた。液晶のテレビは叩き壊され、花瓶は割れ、グラスや皿は粉々。フローリングには、ゴルフクラブが何本か転がっていた。酷い有様だった。まるで災害か何かにあったみたいだ。
「のぞみさんがやったのですか?」
「そうだ、信じられないちからでね。押さえつけても無駄だった」
「怖かったわ」
 父親の右腕にはあざができていて、青黒かった。「アイアンで私の頭を殴ろうとしたんだ。わけの分からない奇声を発してね。殺されるところだったよ」
「それでのぞみさんは今どこに?」
「玄関を出て、走り去って行った。どこに行ったのか分からない」
「たまに様子がおかしいことはあったけど、ここまで酷いのは初めてです。もう、どうして良いのか分からなくて」
「砂糖や調味料を毒だと言って捨て出すし、煙草はサリンだと言って水に漬けるし。パニック状態だよ、我々としても」
「精神科に連れて行った方が良いかもしれませんね、お父さん」
「また暴力を振るわれたら、一緒に暮らせないな・・・・・・」
「のぞみさんを探してきます。昼間も様子がおかしかったんです、実は」
「よろしく頼む。私も探してみる。お母さんは家にいてくれ。もしかすると、戻ってくるかもしれないし」
「分かりました。気を付けて、行ってらっしゃい」
 僕たちは二手に分かれて、のぞみを探した。そう遠くには行っていないはずだと思った。のぞみの行きそうなところを当たった。ゲームセンターやカラオケボックスといった場所だが、彼女はいなかった。僕の頭のなかは混乱していた。のぞみの内側でいったい何が起こっているのだろうか。僕には分からなかった。理解することができなかった。亜希はのぞみと関わりたくないと言った。美紀も同じだった。あんなに仲良しだったのに、溝は深まり、決定的なところにまで達していた。この街にはいないのかもしれない。僕は夜中じゅう、新宿と渋谷の街を歩いた。どこにものぞみはいなかった。時々、父親と連絡を取り合ったが、彼も見つけることはできなかった。
 朝になり、昼になった。ろくに食べ物も食べていなかった。眠気が襲ってきた。僕はネットカフェに入り、二時間ばかり仮眠をとった。ぐったりと疲れていた。腹も減っていたので、焼きそばを食べた。携帯電話を見ると、父親から着信が入っていた。僕は折り返し、連絡をした。
「もしもし、祐介君」
「はい」
「のぞみが見つかったよ」
「いったいどこにいたのですか?」
「横浜だ。タクシーの運転手が不審に思って警察に通報したらしい。奇声を発するし、窓をドンドン叩くし、お金は持っていないし。これから、私が迎えに行くから、君はゆっくり家で休みなさい、また連絡する」
「分かりました」
 僕は電話を切った。僕はネットカフェを出て、まっすぐ家に向かった。へとへとだった。足は棒のようだし、心はずきずきと痛んだ。のぞみのことが何よりも心配だった。彼女はいったい、この先どうなってしまうのだろうか。
 翌日も、その翌日も電話は鳴らなかった。僕は息を潜めて、じっとしていた。待つしかなかった。幸い冬休みだし、予定はなかった。頭のなかでは、様々な不安要素がよぎった。のぞみはもう元には戻らないんじゃないかとか、多重人格になってしまったのではないかといったものだった。不安に押しつぶされそうになった。
 五日目の夜に電話があった。午後の七時くらいだった。
「のぞみは入院したよ、精神科に」
「そうですか・・・・・・」予期していたことだが、現実となると酷く重たかった。
「病名は、統合失調症だ。現在、薬物による治療を行っている。保護室といって、独房のようなところに入っている。刺激を取り除き、落ち着かせる必要があるからだよ。外界との接触をシャットアウトしているところだ」
「お見舞いに行きたいのですが」
「家族以外は面会謝絶でね、申し訳ないけど」
 僕は黙った。重苦しい沈黙が覆った。
「それに、もう君のことは覚えていないんだ・・・・・・。おそらく、会っても誰だか分からないと思う」
「どうしてですか?」僕は気が動転した。石のハンマーで殴られたような、鈍い痛みを感
じた。
「記憶の大部分を失っているんだ。知能は小学校中学年くらいまで下がっている。話し方も子供みたいだった。まるで、たちの悪い悪夢を見ているようだよ。だが、これは現実なんだ。私も君も受け止めなくてはいけない」
「そんな・・・・・・」
「退院したら、一目会わせてもらえませんか? 僕のことを思い出すかもしれないですし」
「がっかりするかもしれないよ、もうのぞみはどこにもいない。会うことは止めないがね。会わないで別れた方が君のためだと思う」
「退院したら、知らせてください。ずっと待っていますから」
「分かった」
 のぞみが退院したのは、半年後の夏だった。大学にはとりあえず休学届が出されていたけども、退学届に変わっていた。僕はその現実を受け入れることが難しかった。頭では理解しようとしても、心が伴わなかった。毎日、神社へ行ってお祈りをした。家の近くの小さな神社へ雨の日も風の日も通った。いくら祈っても、現実は変わらなかった。僕は一人寂しく、孤独に過ごした。また、空を眺めるようになっていた。僕は孤独だった。のぞみの存在がいかに大きいか、今更ながら知った。僕は彼女の屈託ない笑顔や、素敵な仕草、つるりとした美しい肌、甘い口元、綺麗な黒い瞳を思い出した。
 退院してから、しばらく経った後に、僕はのぞみと会った。そして、はっきりと別れを両親に告げた。のぞみに言っても、僕のことは覚えていないし、意味はないからだ。両親は納得し、励ましてくれた。君のことは本当に気に入っていたし、残念だがお互いのためだ。どこかで良い女性を見つけてくれ・・・・・・。久しぶりに見たのぞみは違った姿となっていた。

「由希子、コーヒーを作って欲しい」僕はそう言った。土曜日の朝だった。
「はい、ちょっと待ってね」
 由希子が淹れるコーヒーは本当に美味しかった。由希子はカフェ海音を辞めて、製薬会社で働くようになった。日々は忙しそうだ。僕も家事を少し手伝っている。朝食にケチャップトーストを食べ、コーヒーを飲んだ。煙草を吸った。
「明日よね、夏希と岩崎さんを会わすのは。私は用事があって行けないから、代わりにお願いするわね。岩崎さんが気に入ってくれると良いんだけど」
 季節は初夏だった。岩崎にこの話を持ちかけたとき、最初彼は断った。とてもそんな気分になれないという理由だったが、時間の経過とともに、夏希に興味を持ち始めた。夏希は美しい顔立ちだったし、何より素直で良い子だった。夏希は最初から、岩崎に好感を持っていた。
 僕は、もう一本煙草を吸った。
「祐介、どこか出かけるの?」
「ちょっと用事があってね」
「気を付けて行ってらっしゃいね。晩ご飯はビーフシチューだから、お楽しみに」
「ありがとう」
 僕は煙草の火を水道の水で消した。白いアディダスのスニーカーを履き、ドアを開けて、外に出た。駅まで歩き、電車に乗る。車中には、高校生の集団がいて、騒がしかった。時刻は十一時を少し回った辺りだった。府中市のとある駅に着くと、電車を降りて、しばらく歩く。街路樹はみずみずしい葉を並べ、風のそよぎで揺れている。お土産には、ピンクのくまのぬいぐるみとチョコレートのお菓子。チャイムを鳴らす瞬間が一番緊張する、その一瞬をかいくぐれば、あとはすんなりと心は落ち着いた。いつも、決まってそうだった。何かの儀式みたいに。
「やあ、祐介君いらっしゃい」のぞみの父親は僕の顔を見ると、いつも笑顔になった。玄関では母親も出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
 母親は仕事を辞め、のぞみの世話を行っている。大変だが、充実した日々だと語る。特に最初は、どう接して良いのか分からなかったそうだ。僕は階段をあがり、のぞみの部屋に行った。のぞみはベッドに寝転がって、少女漫画を眺めていた。
「こんにちは、ゆうすけおじちゃん」
「のぞみちゃん、お久しぶり。良い子にしていたかな?」僕は優しい声で話しかけた。
「良い子にしていたよ。最近はね、悪いおじさんの声が聞こえなくなったの。水星の神様がやっつけてくれたんだって」
「それは良かったね、良い子にはご褒美だよ」僕はそう言って、くまのぬいぐるみとお菓子を渡した。
「わーい、ありがとう」
「さあ、パパとママが下で待っているから、降りようね」
「はーい」
 病院を退院したばかりののぞみは、目がぎらりとひかり、言葉は届かなかった。まともに会話できる状態ではなかった。一応は落ち着きを取り戻していたが、今ほどに良くはなっていなかった。そのときに会ったのぞみの姿や様子に、僕は言葉を失った。何も考えることができなかった。あのとき、確かに両親に別れを告げたが、時々、こうして遊びにやってきている。のぞみの美しさは相変わらずだったし、幼い心を持った彼女は愛くるしく、かわいかった。のぞみのことを今でも愛していると時々は思う。そうでなければ、会うだけでこんなに緊張したり、胸が高鳴ったりするわけがないのだ。過去の記憶は簡単には消すことができない。のぞみの場合は、過去と現在の像が入り交じり、不思議な深みを帯びている。のぞみには友達がいなかった。亜希や美紀とはもうとっくに関係が途絶えていたし、サークルの連中は病気以後誰ひとりとして会いにくることはなかった。大学の友人も同じだった。みんな冷たかった。まるで関心がないみたいだった。時々僕が会いに来ることについて、当初両親は難色を示した。会わないでおくのも優しさじゃないだろうか、などと言われた。だが、今では、こうして喜んでくれている。のぞみはすっかり変わってしまったと言っても、僕と会っているときの娘の嬉しそうな顔を見ることが好きなのだろう。やはり親なのだ。娘の幸せな様子を眺めることは、幸福に違いない。
 リビングの椅子に座った。のぞみはぬいぐるみの包装紙を破っていた。
「かわいい! ありがとうね。くまさんだー」
「いつも悪いね」
「いいえ、好きでやっていることですから」
「のぞみが病気にならなかったら、今頃結婚して、孫の顔でも見られたでしょうに・・・・・・」
母親はそう言って、料理を作っていた。
「ママ、今日のお昼ご飯は何?」
「オムライスよ」
「オムライス大好き」
「のぞみちゃん、お昼ご飯を食べたら、お散歩しようね」
「分かった。それから、次に会うときは二人っきりでデートだからね。前に約束したよね?
街の美味しいケーキ屋さんに行って、たくさんケーキを食べるの!」
「うん、僕も楽しみにしているよ」
「のぞみはデートをしたことがないから、本当に楽しみなんだ・・・・・・」
「デートは良いけど、お薬は毎日飲んでいる? 飲まないと入院することになって、僕と会えなくなるよ」
「うん。嫌だけど、飲んでいるよ」
「よしよし」
「よしよしして」
 僕はのぞみの頭を優しく撫でた。彼女は笑った。素敵な笑顔だった。母親がオムライスを持ってきた。のぞみはケチャップをたっぷりと付けた。いただきますと言って、食べ始めた。
「祐介君、今でものぞみのことが好きなんだろう?」父親が訊いた。
「そうですね」僕は返答した。率直な言葉を述べた。
「祐介さんに限って、間違いは起こさないわ」
「間違いって?」のぞみは質問した。
「変なことはしないって意味だよ」父親は言った。
「変なことって?」
「こら、質問ばかりはよしなさい」
「ごめんなさい」彼女は頭をぺこりと下げた。
「私もゆうすけおじちゃんのことが大好きだよ。優しいし、かっこいいし、プレゼントはたくさんくれるし、将来は結婚したいな!」
「ありがとう、嬉しいよ」
「祐介君が我が家に来てくれたら、賑やかになるな」父親の顔には笑みがこぼれた。
「祐介さんには、もう決まった女性がいるんですよ、のぞみ」
「そういうの浮気っていうんだよ、悪い人だね」のぞみはくすくす笑った。「私、その女の
人に負けない自信があるもん」
「どうして?」
「分からないけど、とにかく負けないの!」
 リビングの雰囲気は常になごやかだった。食事が終わると、僕と母親はのぞみを連れて散歩に行った。のぞみは僕の手を握っていた。楽しそうな様子だった。たくさんの人に慕われていたのぞみを尋ねてくる友人は今や皆無だった。記憶を失っているとは言え、寂しいものだろうな、と僕は思った。彼女は僕との時間をいつも心待ちにしていた。普段は部屋にこもってゲームをしたり、漫画を読んでいる。あるいは、インターネットでホームページを閲覧している。小学校中学年程度の知能なので働くことは無理だった。外出はほとんどしない。収入は障害者年金があったけども、微々たるものだった。両親が元気なうちはまだ良いが、いなくなったらどうやって暮らしていくのだろうか。僕はいつも不安に思っていた。一人暮らしは難しいだろうし、病院で暮らすことになるのかもしれない。のぞみにはもっと人生を楽しんで欲しかった。僕の切なる願いだった。僕はやがて由希子と結婚するだろう、会いに来るのは難しくなるかもしれない。のぞみはきっと毎日泣くだろうし、孤独に過ごすに決まっている。いつか、彼女は言っていた。私に何かあったら、代わりの女の子を見つけなさい、と。
 僕はようやく女の子を見つけた。心の整理に何年も時間がかかった。すべて病気が悪いんだと思うと、憎らしくなってきた。運命を呪った。
「あ。コンビニ寄って良い? 喉が渇いちゃった」
「良いよ」
 二人でカルピスソーダを選び、二本買った。代金は母親が出してくれた。
「公園のベンチで休憩しようよ」
「そうだね」
 ベンチは木陰になっていた。風が心地良かった。僕たちはベンチに座って、カルピスソーダを飲み、談笑した。
「のぞみを今度、デイケアに通わせようと思っているんです」
デイケア?」
「障害を持った人同士が集まって過ごす場所みたいなものです。トランプをしたり、一緒にお昼ご飯を食べたり、お昼寝したり。この子には友達がいないから。少しでも、外の空気に触れさせたくて。病状も安定しているし、大丈夫だと思うのです」
「賛成ですね、部屋に閉じこもるのは良くないです」
「のぞみはどっちでも良いけど」
「正直なところ、いつまで会いに来ることができるか分かりません」
「そうですよね」母親は目立たないようにため息をついた。「本当に、良くしてもらっていると思います。感謝しても仕切れないくらいです」
「会いに来ることができるか分からないってどういうこと?」彼女は不機嫌になった。
「外国に住むかもしれないんだ」僕は嘘を付いた。「アメリカとかヨーロッパとか、アフリカのジャングルの奥地とかね」
「だったら、のぞみも一緒に行く!」
「駄目よ、のぞみは病院に通わなくちゃいけないでしょ」
「外国にも病院はあるじゃん!」彼女はむきになって、言った。
「外国の病院は英語ができないと駄目なんだよ。お医者様とお話しないと、お薬を出せな
いだろう?」
 のぞみはうつむいた。目には涙が溜まっていた。かわいそうになってきた。僕は息苦しくなった。
「行くかもしれないだから、もしかすると、行かないかもしれない」僕は明るい声で言っ
た。
「本当に? 絶対に行っちゃ駄目だよ!」彼女は涙を拭き、笑顔を見せた。
「そうだね、僕も願っているよ」
「のぞみが水星の神様にお祈りしとくね」
「ありがとう」
「水星の神様、水星の神様、どうかゆうすけおじちゃんが外国に行かないように。お願いします」
 母親はくすくす笑った。
「私は真剣なんだよ」のぞみはムスッとして、頬を膨らませた。
「ごめんね、のぞみ」
「行こうよ、お散歩終わらせて、私の部屋でゲームしよ」
「分かった、じゃ、歩こうね」
「はーい」にっこりと笑った彼女の顔は美しかった。あの頃と、何も美しさは変わっていなかった。
 のぞみの部屋のなかでパズルゲームをして、時間を過ごした。彼女はとても上手だった。僕はかなわなかった。
「お手上げだね、ずいぶん上手いね」
「だって、毎日やることないもん。友達もいないし」
デイケアへ行ったら、友達ができるよ」
「ゆうすけおじちゃんが、毎日来てくれたら・・・・・・。この家に住んだら良いのよ。そうしたら、楽しいもん」
「できることならそうしたいけどね、いろいろな事情で難しいんだ」
「そっか」
 僕は二人きりの空間が好きだった。あの懐かしい日々を思い出すことができるし、今ののぞみも十分に魅力的だった。美しさ、無邪気さ、あどけなさ。彼女の傍にいると、心がほんのりと温かくなった。
 彼女はかつて僕のことを純粋だと言ったが、今の彼女は正に純粋そのものだった。
「ジュース取ってくるね!」彼女は走り出し、ドタドタと階段を降りていった。しばらくすると、オレンジジュースを一本持ってきた。グラスは二つだった。
「ところで、どんな女の人と付き合っているの?」
「料理が上手くて、努力家で、頭がわりと良くて、性格は穏やかな女性だよ」
「ふーん。そうなんだ。写真はある?」
 僕はスマートフォンに保存してある由希子の画像を見せた。彼女はまじまじと見つめた。
「確かに綺麗な人だけど、私の方がかわいいじゃない?」
「そうだね、のぞみちゃんの方がかわいいね」
「ゆうすけおじちゃんと私は付き合っているんだから!」
「初耳だな」僕は笑った。
「ママが言っけおじちゃんは付き合っているもん。のぞみ、別れてなんかいないよ。絶対に別れないから」
 玄関でさようならをした。のぞみは手を振っていた。
「いつもありがとう」父親は言った。
「こちらこそ」
「気を付けてね」のぞみはにっこりと微笑んだ。
 僕は帰路についた。家に戻ると、夕方の五時過ぎだった。由希子は小説を読んでいた。英語のペーパーバックだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 彼女は僕の行き先を訊かなかった。僕はコーヒーを飲み、煙草を吸った。ゆったりとした時間が流れていた。五時半になると、由希子は食事の準備に取りかかった。良い香りが漂ってきた。
 食事の最中、僕たちは特に何も話さなかった。由希子は風呂に入った。僕は洗い物をし、くつろいでいた。明日のことを考えていた。岩崎と夏希はうまく結びつくだろうか。たぶん、大丈夫なような気がした。夏希は素直だし、岩崎は誠実だからだ。シャワーの音が、バスルームから響いていた。
「祐介」
「何?」
「たまには一緒に、お風呂に入らない? ここのところずっと一人で入っていたから、寂しいのよ」
「良いよ」
 僕は衣類を脱いで、風呂に入った。由希子は湯船に浸かっている。白い肌が美しかった。
「まるで新婚夫婦みたいだ」と僕は言った。
「もう、夫婦みたいなものよ」彼女は笑った。「明日のことは頼んだわね。夏希は絶対岩崎さんをものにしないと、後悔すると思うの。あんなに良い人はそういないわ」
「分かったよ、頑張ってみる」
「夏希はろくな男と出会わないからね。ついていないのか、あるいはそうじゃないのか」
「でも、あのバンドマン、悪い奴じゃなかったよ。お金は受け取らなかったし、不器用そうだけど」
「そうね、確かに悪い男じゃなかった。だらしがないだけかもしれない」
「致命的だね、それ」
「私は恵まれているわ、祐介に出会えたから・・・・・・」
「ところで、明日どこへ行くの?」
「秘密」
「秘密?」
「じゃ、あなたはいったい今日どこへ行っていたのよ? 言いたくないでしょ、それと同じ」
「お互いに詮索はなしだね」
 由希子は笑った。「結婚したら、きっと私たちうまくいくわよ」
「たぶんね」
「のぼせてきたから、先にあがるね。ごゆっくり」
 僕は湯船のなかで、考えごとをしていた。のぞみの家に時折行っていることは、当然秘密にしている。いつまで隠し通すことができるだろう・・・・・・。由希子を愛していると同時に、のぞみのことはやはり忘れられないでいた。のぞみは、孤独だった。病になって、すべての友達を失った。不憫だった。
 記憶が戻れば、と何度思ったことか分からない。記憶はとうとう戻らなかった。現実は、氷のように冷たかった。のぞみは今も僕のことを好いてくれている。素直に嬉しかった。僕は髪を洗い、身体を洗った。バスルームを出ると、タオルで身体を拭いた。服を着た。洗面所にあるドライヤーで髪を乾かした。キッチンに行って、冷蔵庫を開け冷たいビールを取り出した。由希子は珍しく、テレビを眺めていた。歌番組だった。エブリリトルシングの持田香織が歌っていた。
「ELT、前から好きなのよね」
「僕も好きだよ、ライブにも行ったことがある」
「意外ね、あなたは洋楽派だと思っていたから」
「邦楽も聴くよ。いろいろと」
「そう」
 持田香織は美しかった。顔立ちは整っているし、細くて、かわいらしい。黒いカットソーを着て、軽くステップを踏んでいた。
「オアシスってバンド良いわね、時々聴いているわ。あなたがいないときも」
マンチェスター出身のロックンロールバンドだよ。第二のビートルズと呼ばれていた」
ビートルズに似ているわね、サウンドが」
「そうだね、伝承しているんだ」
 エブリリトルシングが終わると、彼女はテレビのスイッチを消した。僕はオーディオデッキの前へ行って、オアシスの『フォアットエバー』をかけた。クリスマス用にリリースし、ミニアルバムに収録されたものだった。
「CMで聴いたことがあるわ、良い曲よね」
「僕が最も好きな曲だね」
 しばらく、その音楽に耳を傾けた。由希子はソファに座り、じっとしていた。僕はキッチンへ行き、二本目のビールを開けた。
「秘密は大事だと思うの」と彼女は突然言った。「知られたくないものって、誰にでもあるのよ。お互いにひとつくらいは、許すことにしない?」
「つまり?」
「私は今日のあなたの行き先を訊かないし、あなたは明日、私の行き先を質問しない。フェアだと思うの」
「そうだね、良いアイデアだ」
「気にならないの?」彼女はささやくようにして言った。
「秘密なんだろう?」
 彼女は笑った。口を閉じ、ペーパーバックを取り出し、読み進めた。僕の秘密はもちろんのぞみのことだった。いったい、由希子の秘密とはなんだろうか・・・・・・。僕は首を振った。確かに、フェアだった。良いアイデアだ。

愛ならどこにあっても構わない(6)

大学生活は二年目に入っていた。日々は牧歌的だった。美紀は隆人とうまくやっている様子だったし、僕とのぞみの関係は良好だった。春には桜を見に行ったし、夏には海へ行った。夏休みに、僕は引っ越しのアルバイトをしていた。体力を付けたかったのと、給料が良かったというのが理由だった。のぞみはキャンペーンガールのアルバイトを行った。スーパーの試食コーナーで、ウインナーを炒めたり、ベーコンを盛ったりして、商品を案内するという仕事だった。誰にでもできる簡単なものだった。夏に働いて、秋の連休に北海道へ行こうと、二人で言っていた。僕は運転免許を持っていたので、向こうでレンタカーを借りて、温泉を回ろうと話していた。
 例ののぞみの体調不良はなくなっていた。精神も良好のようだった。一時的に、体調を崩していたに過ぎなかったのだ。彼女は健康そのものだった。僕は何度か彼女の両親に会ったが、特に変わったことはないと言っていた。僕は安心した。胸騒ぎもしなくなった。夏の終わりに差しかかっていた。のぞみは、僕の部屋に来ていた。コーヒーを飲み、音楽を聴いていた。レディオヘッドとかコールドプレイを彼女は好んでいたので、かけてやっていた。そのステレオは父親から譲ってもらったもので、わりと良い音が出た。その日ののぞみはやけに饒舌だった。彼女はアルバイトのことを語り、大学のことを話し、両親との関係を言った。
「お父さんもお母さんも忙しいから、あまり私に構ってくれないのよ。私よりも、弟の方
がかわいいみたい、そりゃ弟は国公立の大学を狙えるくらい頭が良いし、分かるけどね。
酷いわよね、私のことを自分たちの子供じゃない、とか言うの・・・・・・」
「まさか」
「本当よ、これ」彼女は口を酸っぱくして主張した。
「自分たちの子供じゃない、自分たちの子供じゃない、自分たちの子供じゃない」のぞみは繰り返し言った。
「きっと、機嫌が悪かったんだよ。許してあげなよ」
「あんな家、帰りたくないわ。とりあえず、今日だけはここに泊めてよ」
「それは構わないけど、親にはきちんと連絡するんだよ」
「分かったわ、今から連絡するね」
 彼女は自宅に電話をした。仲が悪いという様子もなく、淡々とした口調だった。その日は雨が降っていた。長い雨だった。そうか、のぞみは冗談を言っていたのだ、と僕は思った。何か理由を付けて、僕の家に泊まりたかったのだろう。
 その日の夜はデリバリーのピザを取って、食べた。映画を二本観た。恋愛の映画だったが、のぞみはすぐに涙を流した。泣く場面でもないのに、おかしいなと感じた。涙腺が脆くなっているのかもしれない。映画の出来は普通だった。そんなに泣くほどの映画ではなかった。
 夜の十一時になった。ピザだけでは少なかったので、コンビニエンスストアに二人で行った。雨はまだ降り続いていた。空は雲に覆われていて、真っ暗だった。コンビニエンスストアでは、唐揚げ弁当とサンドウィッチを買った。通りは、人が少なかった。常夜灯が微かなひかりを届けていた。道の途中で、彼女は立ち止まった。傘の下から離れ、雨に当たっていた。そこは小さな神社だった。古く、冷たくひかり輝いていた。
「雨に濡れると、風邪を引くよ」
 のぞみは立ち尽くしていた。激しく黒い雨が、柔らかい地面を穿っていた。遠くの方で雷のひかりがあり、音が鳴った。彼女の服は既に濡れ始め、ブラジャーの紐が透けて見えた。異様な光景だった。何故、動こうとしないのだろうか。
「何をしているの?」僕は怒鳴った。すると、のぞみは突然我にかえったように、表情を戻しながら僕の方に振り向いた。
「ごめんね・・・・・・」弱々しい声だった。彼女は再び僕の傘の下に入った。今日ののぞみは何だかおかしかった。普段とは違った感じがした。こういう日もあるのかな、と楽天的に捉えていた。
 雨に濡れたのぞみは、バスタオルで身体を拭き、着替えた。着替えたと言っても、僕のジャージの上下を貸してあげただけだった。身体の小さなのぞみには、ぶかぶかだった。写真に収めたいくらいに、似合っていなかった。僕が笑っていると、のぞみもおかしそうに笑った。素敵な笑顔だった。僕たちはコンビニエンスストアで買ってきた弁当やサンドウィッチを食べた。冷蔵庫からメロンソーダを持ってきて、二人で分け合った。マリメッコのマグカップに注いだ。赤い花柄がのぞみのマグで、青いマグが僕のものだった。テーブルを挟んで座っていたのに、いつの間にか僕の隣にのぞみは座っていた。僕の身体にもたれかかった。彼女の温かな体温がどこまでも伝わってきた。押し黙った。静かで親密な空気が流れていた。
「ねえ、近々結婚しようよ。式もハネムーンも何も要らないから。祐介と一緒にいたいの・・・・・・。もう、これ以上我慢することができないのよ、私」
「駄目だよ、まだ学生だからね」
 彼女は僕の手に左手を重ねた。そして、握りしめた。
「さっきの神様が言っていたの、君たちは早く結婚しなさい、一刻も早くってね。神様って、祐介も信じているわよね?」彼女の声は柔らかく、優しかった。微笑みを絶やさず、口元は薄ピンク色に甘くひかり輝いていた。
「さっきの神様って、あの小さな神社の?」
「そう」彼女はゆっくりと目を閉じた。しばらく目を瞑っていた。僕は彼女の唇に口づけを交わした。しっとりとしたキスだった。いつもと感触が違った、どうしてだろう? いつもののぞみなのに・・・・・・。
「疲れたわ、眠っても良いかしら?」
「うん。僕はまだ起きているけど」
「起きていて、何をするの?」
「何をするわけでもないよ、ただ、まだ眠れないだけ」
 彼女は笑った。それじゃ、おやすみなさい、と彼女は言った。僕は明かりを消して、リビングへ行った。傍らには小説を持っていた。その夜がすべての始まりだった、そして物事の終わりはずっと先にあった。終わりという言葉は不適当だ、終わりなどなかった。半永久的に続く種類のものだった。のぞみが生きている限り、それは続くのだ。
 その日の夜、結局寝室に戻ったのは二時過ぎだった。雨はその頃には止んでいた。雷も収まった。のぞみは寝息を立てて、眠っていた。僕は起こさないように、そうっとベッドに入った。頭はすっかり冴え渡っていた。僕は何度か深呼吸を行った。そして目を閉じた。やがて、深い眠りがやってきた。気がつくと、朝だった。
 のぞみは先に目を覚ましていた。じっと、窓の外を見つめていた。身動きひとつしなかった。空は青々とし、晴れ渡っていた。真夏の太陽の強烈なひかりが射し込んでいた。
「おはよう」と僕は言った。のぞみはようやくこちらに振り向いた。
「やっと起きたのね、退屈だったわ。朝の五時に目が覚めたから・・・・・・」彼女は苦笑した。
 今の時間は、九時過ぎだった。
「朝の五時に起きて、いったい何をしていたの?」
「ずっと空を眺めていたわ、あなたも子供の頃は同じことをしていたでしょ? いつか話してくれたわよね、子供の頃は友達がいなくて、空ばかり眺めていたって。真似てみただけ。楽しいわね。自分がとてもちっぽけな存在に思えてくるわ」
 僕は黙っていた。喉が渇いたので、テーブルの上にあったコカコーラのペットボトルの蓋をひねって開けた。ひとくち飲んだ。
「最近は、空を見ていないな・・・・・・」
「童心にかえって、たまには見上げるのも良いわよ」
「今度、星空を見に行こうか。軽井沢はずいぶん綺麗だと聞いたことがある」
「素敵ね、北海道行くのを止めて、軽井沢にしようよ」
「九月の連休に行こうよ、ホテルは予約しておく」
「テニスもしようね」のぞみは笑った。
 僕たちはリビングに移動し、朝食を取った。かりかりに焼いたトーストに、ハムエッグだった。母親も父親も外出中で、僕とのぞみの二人きりだ。
「朝食が終わったら、お散歩しない?」
「良いよ、裏山を登ろうか?」
「そうね、まるでピクニックみたいね」彼女はくすりと笑った。
 僕はお米を炊飯器で炊いた。のぞみがおにぎりを作った。梅やおかか、昆布を入れた。水筒には、冷たいお茶を入れて、ビニールのピクニックシートを折りたたんでリュックのなかにまとめた。裏山だから、本格的な山登りというわけじゃないし、この程度で準備は十分だった。
 山は低くなだらかだった。木々は生い茂り、草の匂いが強かった。虫の鳴く声が、辺りに響き回っていた。人通りは、ほとんどなかった。時折、車が走って行った。モーター音やタイヤの軋む音が聞こえた。太陽はじりじりとしていて、暑かった。汗をかいたので、タオルで拭った。のぞみは、目を細めて、無言で歩いていた。
 途中、休憩所に寄った。休憩所と言っても木製のベンチと屋根があるだけで、蒸し暑さには変わりがなかった。僕たちはベンチに座った。影になっているので、幾分涼しかった。僕は水筒に入ったお茶をのぞみに飲ませた。彼女は汗を手で拭いた。左手の甲の汗は、しずくとなって、輝いていた。
「もう少し登ると、景色が良いよ。そうだね、あと三十分くらいは歩くかな。疲れた?」
 のぞみは首を横に振った。彼女はにこにこしていたが、何故か言葉を発さなかった。しばらく休憩すると、また歩き始めた。僕は彼女の左手を握っていた。車が何台か通り過ぎ、まとまった音を幾つか残していった。
 高台に辿り着いた。僕はシートを広げて、座った。のぞみは立ったまま、景色を見つめていた。じっとしていた。動きらしい動きはなかった。
「見晴らしが良いだろう、僕はここの景色が好きで、子供の頃は良くやってきたものだった」
 ようやく、のぞみは腰を下ろした。すがすがしい風が吹いていった。昨夜の雨の影響か、空気は湿り気があり、分厚い雲があった。
「星には、神様が宿っているって知っている?」のぞみは、僕の方を見て、そう尋ねた。
「星?」
 彼女はリュックサックのなかから、アルミホイルに包まれたおにぎりを取り出して、食べた。
木星とか金星とか、水星とかアンドロメダ星雲とか」
「そこに神様がいるの? 聞いたこともないな・・・・・・」
「私、星の神様と話をすることができるの。本当に、楽しいわ。毎日が」
「いったいどんなことを話すんだい?」
「それは秘密よ、私たちだけに分かるの。きっと、あなたには分からないし、理解できないと思う」
「昨日も神社の神様がどうのとか言っていたね」
「そうね」彼女は短く言葉を切った。そして、再び黙ってしまった。不可解な笑顔だけが、印象に残った。

 慎治のアパートメントは、外装がはげ落ち、汚かった。鉄の階段は錆び付き、踏むと音がぎしぎしと鳴った。由希子のバッグには、手切れ金の二百万円が入っていた。僕は半分出すと言ったが、私たちの問題だからと言って聞かなかった。彼女は不安そうな表情を浮かべていた。チャイムを鳴らした、はーいと間延びした声。慎治が出てきた。痩せていて、頬がこけている、お世辞にも美男子とは言えなかったが、かと言ってルックスが悪いわけではなかった。服装はジャージだった。部屋は散らかっており、乱雑だった。玄関にはしなびたスニーカーが横たわっていた。
「慎治君、突然ごめんなさいね」
「とりあえず、あがってください。どうせ、夏希のことでしょう。そちらの男性は?」
「柏木です。付き添いでやって来ました」
「ども」
 僕たちは部屋にあがった。彼はインスタントコーヒーを入れた。
「砂糖とミルクはどうします?」
「ブラックでお願いします」
「私も」
「りょーかい」
 彼の髪は肩のところまで伸び、ずいぶん散髪に行っていないみたいだった。シンクには洗い物がたんまりと溜まっていて、汚かった。テレビの液晶はドットがところどころ欠けていた。ステレオはボーズの良いものがあった。音楽が好きなのだろう。CDアルバムは数百枚。あとは目立った家具や電化製品はなかった。
 アイロン台のような簡素な白いテーブルを挟んで、僕たちと慎治は向かい合った。
「音楽が好きなんですね」と僕は言った。
「セックスピストルズとかストーンローゼズとか、フーとか。昔の音楽ばかりです。ところで、何の用ですか? 暇だから、時間はいくらでも取れますけど」
「実はね、夏希と一緒に暮らすことを諦めて欲しいの・・・・・・。申し訳ないわね」
 彼は一瞬、表情を崩した。すぐに、戻した。冷静なタイプかもしれない。
「何故ですか?」
「君に夏希ちゃんはずいぶんとお金を貸していると聞いています。間違いないですね?」
「夏希には助けてもらっています、正直に言うと返すあてがないです。いずれ、働いて返したいと思っていますが」
「働くと言っても、続いた試しがないそうですね。一ヶ月か二ヶ月くらいで決まってクビ
になり、ときどき日雇いの仕事で日銭を稼いでいる」
「夢があるんです」
「どんな?」
「いつか、俺の音楽で武道館を満員にしたい。今は生活苦からギターを売ってしまったけど、働いて、また買い戻して。夏希は俺の夢に乗ってくれているのです。あの子は、本当に、素直で良い子です」
 僕はコーヒーをすすった。彼はわかばという煙草に火を点けた。割安の煙草だった。
「働かないんじゃなくて、うまく働くことができないんです」
「どうして?」
社会不安障害なんです、対人恐怖、赤面恐怖、閉所恐怖、その他いろいろ。精神科へ行って薬を飲んでいますが、あまり変わりません。青森の田舎から出てきて、夢を見て上京して、何も成果なしじゃ帰れませんから」
 彼は美味そうに、煙草を吸った。
「率直に言うと、別れて欲しいんです。失礼は承知ですが、手切れ金として二百万円を用意しました。二百万円があれば、音楽活動の夢を再開することができるんじゃないですか?」
由希子の口調は強かった。目には厳しいものが宿っていた。彼女の妹への思い遣りは、凄まじいものがあった。
「愛しているんです、これでも」彼は弱々しく、言った。煙草の火をもみ消した。「それに、夏希が働いてくれたら、俺は音楽活動に専念できるし・・・・・・」
「それ以上頼ったら、駄目だよ」僕は諭すように言った。
「別れてあげて欲しいのです、あなたでは夏希を幸せにできないと思う」
「しばらく考えさせてください、二十分で良いです」
「分かりました」
「音楽をかけても良いですか?」
「どうぞ」
 彼はストーン・ローゼズのアルバムを取り出して、オーディオデッキにセットした。再生ボタンを押した。広がっていく音は、僕の家のものより質が良かった。薄い壁なのに、彼は構わずに爆音で流した。よく近所の人が苦情を言いに来ないものだと不思議だった。
「音は大きいものに限ります」彼の表情は幾分明るくなっていた。
 僕は何も言わなかった。煙草を一本吸った。由希子はじっとしていた。表情を取り繕い、曇った窓のガラスを眺めていた。僕は何故か慎治に親近感が湧いた。どうしてだろうか。この若者は、そんなに悪い人間じゃないのかもしれない、と僕は思った。
 二十分が経過した。音楽は止まった。元の静かな部屋に戻った。彼は姿勢を糺した。
「由希子さんに心配をかけさせて、本当に申し訳ありませんでした。よくよく考えてみると、彼女に養ってもらって音楽を続けようというのは甘い考えだと思います。別れます。金輪際、会いません」
「ありがとうございます」由希子は肩のちからが抜けたようだった。
「ただし、二百万円は受け取れません。これを受け取ったら、バンドマンとしてのプライドが潰れてしまうと思うのです。夏希への借金は、いつか必ずお返しします。夏希へは、俺が別れを告げます。由希子さんたちがやってきたことは言いません」
「でも、良いのですか? あなたは満足に働くことが難しいのでしょう?」
「自分のちからで何とかして見せます」
 由希子は二百万円をバッグのなかに仕舞った。
「武道館、いつか満杯にできると良いね」と僕は笑った。
「はい、そのときは招待しますので!」
 慎治の目は、輝いていた。
 僕たちはアパートメントを出た。帰りの電車のなかで、由希子と話をした。
「良い子じゃないか」と僕は言った。
「良い子だけど、生活能力がないと致命的よ」
社会不安障害は厄介だからね。困っている人は多いらしい」
「精神科って案外、役に立たないのね」
「そうかもしれないね」
「ところで、岩崎さんは元気?」
「二日ばかり会社を休んでいたけど、今では出社しているよ。時々、寂しそうな顔をしているけど、大丈夫だと思う」
「そう」
 由希子は疲れてしまったらしく、珍しく料理をしたがらなかった。僕たちは駅前のそば屋に行って、冷たいそばを食べ、ビールを飲んだ。由希子は無口だった。棚の上にのったテレビの音が、響いていた。客は僕たちのほかにいなかった。
「最近は、トンネルの夢を見るのかい?」
「見なくなったわね、そう言えば」
「あのときは引っ越したばかりだったから緊張していたんだよ」
「その代わり、温かい夢も見ない。朝に起きると、すべて忘れているの、欠片すら残っていないのよ。夢を見たかどうか分からないのよね」
「カフェで働く時間を減らしてみたらどうだい? きっと疲れているんだよ」
「カフェ海音は好きだから、減らしたくないな・・・・・・。だけど、私もそろそろ就職活動を始めても良いかもしれないわね。前に進んでいるような感じがしないの、ちっとも」
「君は頭が良いし、悪くない選択肢だと思うよ」
 僕はそばを食べ終わると、ビールの残りを飲んだ。彼女は割り箸を見つめていた。テレビは野球中継を映していた。巨人が勝ち、ヤクルトは負けていた。
「祐介は私のことをどう思っているの? 好きとかそういうのじゃなくて、その先」
「つまり、結婚ということ?」
 彼女は頷いた。
 僕は言葉に詰まった。不意の質問だったからだ。
「まあ、同棲も始まったばかりだし、返答することはできないわよね。当然だわ」
「将来的には、結婚したいと思っているよ」
「ありがとう」由希子はくすりと笑った。「夏希にも良い相手が見つかることを願っているんだけど」
「夏希ちゃんは綺麗だから、そのうちに見つかるよ」
 僕たちは店を出て、手をつないでマンションに戻った。部屋に入ると、着信が鳴った。由希子の携帯電話にかかってきた。
 うん、うん、と由希子が相槌を打った。会話らしい会話はなかった。
「夏希がこのマンションの前にいるから、部屋に入れて欲しいって」
「構わないよ」
 僕と由希子は外に出て、夏希を迎えに行った。夏希はグリーンのカーディガンを着て、タイトスカートを履いていた。髪は明るい赤に染まっていた。目を真っ赤に腫らしていた。よほど、哀しかったのだろう。
「由希子お姉ちゃん、慎治に振られたの、お前とはもう二度と会いたくないって。同棲楽
しみにしていたのに、私、何も悪いことをしていないのに」
「とにかく、部屋にあがりましょう。話を聞いてあげるから」
 夏希は涙ながらに、彼の夢を本気で応援していたことを話した。路上でギターを演奏していたときに、偶然通りかかって知り合ったらしかった。流行の音楽しか知らない夏希にとって、慎治の音楽は未知の世界だった。素敵なロックだと思った。気がつくと、好きになっていた。彼は確かに駄目人間だけど、良いところもたくさんあったの、と彼女は身振り手振りで説明した。
「私、これからどうやって生きていけば良いのかしら? 慎治抜きの生活なんて、考えることができないよ」
「きっと、良い人が見つかるわよ」
「そうかな? 私って男運がないから」
「おなかはすいていないの? 簡単な料理なら作れるけど」
「大丈夫。シャワーを貸して。今夜はここに泊まっていっても良い? 家に一人でいると気が狂いそうなの」
「どうぞ」と僕は言った。
 夏希がバスルームに入っているあいだ、由希子は僕に言った。
「岩崎さんを紹介してあげたらいいじゃないの? あの人なら信頼できるし、真面目だしぴったりだわ。私も安心よ」
「岩崎はしばらく、一人でいたいって言っていたからな・・・・・・」
「タイミングを見て、訊いてみてよ。お願い」
「分かった」
 僕はコーヒーを飲みながら、煙草を吸った。夏希はバスルームから出てきた。赤い派手な下着姿で歩いていた。僕は驚いた。
「ちょっと、夏希。ここはあなたの家じゃないのだから、服くらい着なさいよ」
「ごめん、お姉ちゃんの服を借りようと思って」
「祐介が目のやり場に困っているじゃないの」由希子はため息をついた。そして、クローゼットから服を引っ張り出して、夏希に渡した。
「シャワーを浴びたら、ずいぶんすっきりとしたわ。ありがとう。いつもお姉ちゃんに心
配をかけさせているわね」
「祐介の会社の人を紹介してあげるから、そのうちね」由希子はにっこりと笑った。
「本当に? 私、一人じゃ生きていけないのよね。浮気はもうしないし、真面目に働くから紹介してよ」
「しっかりした誠実そうな人よ」
「でも、私バカだから、その人が気に入ってくれるかな?」目を丸くして、夏希は言った。
「その人は、恋人を失ったばかりでね。傷がまだ癒えていないんだ」
「失った?」
「実は、亡くなったんだ」僕は小さな声で言った。
「そうか」夏希はうつむいた。「簡単には、切り替えることができないよね。やっぱり、私
は男運がないや」
「とにかく、話はしてみるよ」
「ありがとうね、祐介さん。今夜は泣き疲れたから、もう寝るね。おやすみなさい」
「おやすみ」と僕たちは言った。夏希はすぐに眠ったようだった。時刻は夜の九時半を少し過ぎたあたりだった。
「就職のことだけど、製薬会社にコネがあるの。専務が私の叔父でね。困ったときはちからになるって言っているし、給料は悪くないから。一度は就職してみるのも良いかなって思っているのよ」
「合わなかったら、また戻ってやり直せば良いよ」
 ありがとう、あなたって本当に優しいのね。ほかの女の子にもてないか、心配になっちゃう。彼女は甘い言葉で言った。僕は彼女の肩を抱き寄せ、キスをした。甘酸っぱい味わいが、口のなかに広がった。

愛ならどこにあっても構わない(5)

のぞみとの大学生活に話を戻そう。沖縄で知り合った亜希と美紀とは、時々ご飯に行ったりしていた。年齢は近かったし、彼女たちは屈託がなく、話しやすかった。のぞみは親近感を抱いていたようだった。彼女はテニスサークルに所属していて、友人は多かった。異性の友人もたくさんいたので、亜希と美紀に紹介したり、コンパを行ったりしていた。美紀はすぐに彼氏を作った。もちろん、のぞみの紹介だった。亜希の方は、別に好きな男性がいるらしく、コンパには乗り気ではなかった。美紀の二十歳の誕生日には、みんなでお祝いをした。青山のパーティールームを借りて、亜希の大学の人やのぞみのサークル関係の人が混ざり合い、お酒を飲み、料理を食べた。DJブースがあって、そこで好きな音楽をかけることができた。ミラーボールが設置してあり、幻想的なひかりを放っていた。音楽はイギリスやアメリカのロックが中心だったけども、時折邦楽もかかった。安室奈美恵宇多田ヒカルサカナクションなどの音楽だ。みんなが会話できるように、音量は絞ってあった。パーティールームに椅子はほとんどなく、立食だった。
 二十本のろうそくが立ったバースデイケーキ。火が灯され、美紀が吹き消すと、盛大な拍手があった。なごやかな雰囲気だった。
 美紀の恋人は、倉田隆人という名前だった。僕らと同じ大学の三年生で、二十一歳。彼はワインクーラを飲んでいた。白ワインに、オレンジジュースのカクテル。美紀は隆人に、身も心も捧げているという感じで、幸せそうだった。隆人も美紀を大事にしているようだった。二人はまるで仲睦まじい夫婦みたいだ。
 パーティーの楽しい時間は進んでいった。祝祭ムードだったし、実際にめでたいことだった。一時間が少し過ぎた頃、のぞみの様子がおかしかった。アルコールは取っていないものの、疲れているような表情を浮かべていた。壁にもたれかかり、肩で息をしていた。
目は虚ろだった。どこか焦点が定まっていなかった。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」僕はのぞみの傍に寄り添って、尋ねた。
「まるで自分の身体が自分のじゃないみたい、重たいの。頭が」
 心配そうに、亜希と美紀が近づいた。「のぞみ、大丈夫?」
「気分があまり良くないわね」
「外の新鮮な空気を吸いに行こうよ」
「私たちも付いていくわ」
 歩いて五分くらいのところに公園があったので、そこのベンチにのぞみは座った。顔色が悪く、気分は優れないみたいだった。僕は背中をさすった。体調不良なのだろうか。あるいは、精神的に不調なのかもしれないな、と僕は思った。冬の空気は澄み渡り、冷たかった。僕は自分のコートをのぞみに羽織らせた。
「ごめんなさい、せっかくのお誕生日会なのに」
「良いのよ、そんなことは」美紀が言った。優しい言葉のタッチだった。「のぞみのことの
方が大事よ」
「このところ、体調が悪いの。だけど、ここまで悪いのは初めて。少しすると、良くなると思うわ。どうしてかしら? 医者に行った方が良いかもしれないわね」
 僕はのぞみの左手をずっと握っていた。彼女の手は湿っていた。体温は上昇しているようだった。
「落ち着いたら、家まで帰ろう。送っていくよ」
「ここにいたいわ・・・・・・」
「のぞみ、駄目よ。家に帰って、寝ないと」亜希は言った。「美紀はパーティールームに戻りなさい、主役だし」
「分かったわ。のぞみ、お大事に。気を付けてね」
 美紀は去っていった。月明かりが眩しい夜だった。空を見上げると、まるで太陽のようにこうこうと満月が照っていた。雲はひとつもなかった。僕はリュックサックからペットボトルを取り出して、ミネラルウォーターをのぞみに飲ませた。
 すると隆人が駆け寄ってきた。きっと、美紀から話を聞いて心配になって来たのだろう。
「のぞみ、大丈夫か?」
「さっきよりは、ずいぶん気分が良くなってきた」
「そうか。このところサークルでテニスをやっていても、顔色が悪いときあるもんな。一
度、医者に診て貰った方が良いよ」
「そうする」
「これ、ドラッグストアで買ってきたんだ。気休めみたいなものだけど」
 彼は栄養ドリンクをのぞみに手渡した。高価なものだった。
「あ、ありがとう・・・・・・」
「今日はゆっくり休めよ」
 十分くらいすると、もう大丈夫とのぞみが立ち上がったので、タクシーに乗ってのぞみの家へ帰った。僕は付き添った。両親には事情を説明した。彼らも心配そうな表情を浮かべていた。のぞみは部屋に戻った。すぐに眠ったようだった。僕はリビングにいてテーブルを挟み、両親と話をしていた。彼らは口を揃えて言った。のぞみはこのところ変だ、と。どういったふうに変なのですか? と訊くと、独り言が多くなったとか、体調が悪くなってアルバイトを休んだという類いの話だった。大学にもあまり顔を出していない。
「まるで人が変わってしまったようなことがあるのです」母親は言った。僕は熱いお茶
飲み、話を聞いた。
「あの子の表情から優しさを奪い、代わりに憎しみを注入したような、時々怖い顔をして
立っているんです。話しかけることも難しいくらいです」
「そんなに長い時間じゃない、五分くらいのあいだだよ。たまに起こる。まるでフリーズしたみたいに、動かなくなる。私たちの言葉はまったく届かなくなる・・・・・・」
「僕は気付かなかったですね。大学は時々休んでいると思っていたのですが、話しぶりはいつもののぞみさんでしたよ」
「気のせいかしら?」
「そうかもしれないな」
「とにかく、病院には連れて行った方が良いかと思います。何事もなければ良いのですが」
「明日、会社を休んで連れて行くよ」
 僕はお茶を飲み干した。「それでは、僕は帰ります。お大事に」
「いつもありがとうね。祐介君だから、娘を安心して任せることができるよ」父親はにこやかだった。母親は微笑していた。
「結婚するんだろ? のぞみから聞いたよ」父親は笑った。僕の背中を優しく叩いた。
「いや、それは、まあ酔った勢いで・・・・・・」僕は恥ずかしかった。心がカアッと熱くなった。
「娘は嬉しそうだったぞ」彼はまた笑った。
 僕は照れながらのぞみの家を出た。満月は相変わらず、強いひかりを放っていた。冷たい風が、吹きすぎていった。通りには、人がほとんどいなかった。商店街のアーケードをくぐり抜け、券売機で切符を買い、プラットフォームにあがって電車を待った。電車のなかの人々の表情には、温もりがあった。僕はほっとした。彼らは、携帯電話をいじったり、談笑したり、眠ったりしていた。深夜の時間帯に差しかかった車内は、独特の雰囲気だった。僕は流れゆく車窓の景色を眺めていた。集合的なひかりが重なり、点と点が無数の線となって、消えていった。のぞみの無事を祈った。
 家に戻って、風呂に入り、テレビを眺めていると、亜希から電話があった。彼女はのぞみの様子を伺った。僕は話をした。
「何事もなければ良いんだけど」
「本当に」僕はそう言った。
「あなたたちと沖縄で出会えて良かったわ。なんていうか、世界が広がった感じがするの。のぞみは友達が多いし、性格も良いし、素敵な女の子よね。きっと、あの子は人に何かを与えたり、配ったりすることができるのよ。ある種の才能ある作家がそうであるようにね」
 言われてみれば、確かにその通りかもしれない。のぞみは他人に影響を与えることが多かった。僕も少なからず、影響を受けていた。
「のぞみはいろいろな人に慕われていて、凄いなって思うもの。スタイルも良いし、顔立ちは整っているし、あんな子滅多にいないわ。絶対に、手放しちゃ駄目よ。何があっても」
 何があっても、と僕は心のなかで思った。時々怖い顔をして立っているんです、と母親
は言った。僕は首を振った。
「分かっているよ」
「それじゃおやすみなさい。今夜はお疲れ様」そう言って、亜希は電話を切った。僕はソファにもたれかかった。また、妙な胸騒ぎがした。まるで胸に鉛を押し込められたような感触が続いた。
「祐介、まだ寝ないの? 明日学校でしょ」とリビングに入ってきた母親が言った。
 時刻は夜中の一時半くらいだった。
「明日は昼からなんだ。もう少し起きておくよ」
 母親は黙って、キッチンへ行きミネラルウォーターを飲み、寝室へ戻っていった。リビ
ングは静まり返っていた。僕は窓の外の月を眺めた。不思議な色合いの月だった。
 翌日、のぞみは父親に付き添われて病院へ行った。総合病院だった。体調不良の原因を探ったが、結果は異常なしだった。僕はその知らせを受けたとき、安堵した。大学の授業が終わった帰りに、のぞみと会ったが、いつもののぞみだった。顔色も良く、健康そうで、闊達だった。僕たちはカフェに入って、談笑した。彼女はカプチーノを飲み、僕はアメリカンコーヒーを飲んだ。
 大学のカフェは、学生たちで賑わっていた。僕とのぞみは、隅の方に座っていた。
「病は気からって言うわよね、もう大丈夫よ。授業は出ているし、この通りピンピンしているわ」
 僕はコーヒーカップを口元に運んだ。
「最近、変わったことはない?」僕には、母親のあの言葉が心をよぎっていた。心配だったのだ。
「そうね、時々、本当に、記憶をなくしているの」
「記憶?」
「知らないうちに、友達に電話をかけて、そのことを覚えていなかった。何度かあったのよ。まるで、夢遊病患者みたいに。短いあいだの記憶が抜け落ちているの」
「僕の知っている人がマイスリー遊びをやっていたんだけど、それに似ているかもしれないね」
マイスリー遊び?」
睡眠薬だよ。処方以上に飲むと、トリップする。記憶がなくなる。妙な高揚感を得ることができる」
「怖いわね・・・・・・」のぞみは目を細めた。「その知っている人って精神病患者なの?」
「そうだよ。躁鬱病だね。とにかく、波が激しいんだ。仕事することは困難し、薬は大量に飲んでいる。大変だよ、本人も家族も」
 彼女は神妙な顔をして、僕の話を聞いていた。
「もし私が精神障害者になったとして、それでも付き合ってくれる?」
 その言葉は、妙に軽かった。まるで気の利いたジョークみたいに。
「もちろん。君であることには変わりがないからね」
「ありがとう。本当に愛してくれているのね!」彼女は笑った。カプチーノを飲み、ソーサーにカップを置いた。「お父さんもお母さんも祐介のこと、凄く気に入っているのよ。私たちもしかして本当に結婚できるんじゃないかしら?」
 僕は言葉が出てこなかった。
「何よ、結婚する気はないの?」拗ねたような口調で、のぞみは言った。かわいらしかった。
「あるよ。だけど、今は学生だし、どんなところに就職できるか分からないし、何とも言えないな・・・・・・」
「美紀、幸せそうだったね。みんなにお祝いされて、隆人が傍にいて」のぞみは話題を変えた。
「そろそろ行こうか」
「夕ご飯、うちで食べていこうよ」
「いきなり押しかけちゃ悪い」
「このあいだ、タクシーで送ってもらったお礼をお母さんがしたいんだって」
 僕たちは席を立った。のぞみは、僕の腕を組み、身体を密着させた。僕の心臓は早鐘を打った。
「人前で、恥ずかしいよ」僕はそう言った。
「良いじゃないの、たまには」のぞみは笑っていた。

 土曜日の夕方に岩崎はやって来た。彼はすらりとした長身で、格好が良かった。ライトグリーンの長袖シャツは肘までまくし上げられ、ブルガリ・アルミニウムの腕時計が輝いていた。ネックレスの類いは身につけていない。胸元にはサングラスがあった。ブラックのチノパンツを履いていた。私服姿はオシャレで良く似合っていた。
「見晴らしの良いマンションだね」と彼は言った。「由希子さん、ご挨拶が遅れました。柏木の同僚の岩崎です。つまらないものですが、お土産にロールケーキを買ってきました」
「武元由希子です。本日はよろしくお願い致します。さあ、あがってください」
「お邪魔します」そう言って、岩崎は靴を脱ぎリビングに入った。
 時刻は四時過ぎだったので、夕食には早過ぎた。由希子は岩崎が買ってきたロールケーキを包丁で切って、真っ白な皿に盛った。紅茶の準備をした。マリアージュフレールの紅茶だった。由希子の好きなブランドで、香りが良く、鮮やかな色合いだ。ティーカップは、ウェッジウッドロイヤルコペンハーゲン
「祐介は職場ではどうなんですか?」椅子に座って、由希子は尋ねた。
「憎めない奴ですね。時々ヘマもやりますが、この業界、信頼が大事でして。技術よりも責任感とか、信頼性の方が重要だと思っています。そういった意味では、彼は一流です。クライアントの信頼を得ている。ITはキツい仕事です。マニュアル通りに設定しても上手くいかないときだってある。その場合でも、何とかしなくてはいけない。経験と機転が必要なんです」
 僕は黙って聞いていた。岩崎が述べると、信憑性があった。技術的には彼の方が断然上
だし、上司の評価も高かった。そんな彼の褒め言葉は、素直に嬉しかった。
「岩崎さんって、今は恋人とかいるんですか? 初対面の人に対する質問じゃないと思いますが、気になったので」
「昨日、別れたばかりでして。お恥ずかしい話です」
「別れたんだ・・・・・・」僕は言った。
「俺から別れを切り出した、もう限界だった。いろいろなものを受け止めるちからを失っていたし、耐えることが難しくなっていた。気持ちはなかなか切り替わらないけどね、ようやく区切りが付いたよ」
「そうだったんですか・・・・・・。余計なことを聞きましたね。岩崎さんならすぐに新しい恋人ができますよ」
「しばらくは一人でいたいですね」彼は苦笑いをした。僕はロールケーキを食べた。甘くて、美味しかった。
 五時になったので、由希子は席を外して、料理に取りかかった。僕たちは紅茶を飲みながら、煙草を吸った。
「素敵な女性じゃないか、綺麗だし、穏やかだし。柏木にはもったいないよ。どこで出会ったんだ?」
「カフェで。由希子はウェイトレスで、僕は客だった」
「運が良いんだね、君は」
「分からないな、運が良いのかな?」
「ところで、由希子さんは大学を卒業して、何故カフェのアルバイトをしているんだい? 就職活動はしなかったのか?」
「就職する気持ちがまったくなかったんだよ。社会のシステムに組み込まれることに嫌気が差したんじゃないかな・・・・・・。頭は良いし、目指せば良い企業に入ることは可能だったと思うけど、価値観は人それぞれだからね」
「案外、由希子さんは正しいのかもしれない」
「カフェのアルバイトじゃ、食っていけないよ」僕は小声で言った。
「現代人は心を失っていると思わないか? 毎日のようにニュースで殺人事件が報道されている、世界のどこかで戦争や紛争があり、多くの人々が命を失っている。一部の女子校生は援助交際で身体を売り、親のあいだではネグレクトが横行している。巨額の脱税や横領がある。社会全体が病んでいる。時々、息苦しくなるんだよね、この世の中が。仕組みが・・・・・・」
「プエブロ・インディアンは言ったそうだ。アメリカ人は皆狂っている、何故なら彼らはあたまでものを考える、しかし、それは間違っている。我々はこころでものを考える、とね」
 岩崎は黙って、聞いていた。僕は続きを言った。
「彼らの言っているあたまとは、自我のことだよ。自我を僕たちは心だと思っているが、こころとはもっと別のところにあるのかもしれない、つまり現代人はこころを見失っているんだ。本当のこころをね」
「興味深い説だね」
「確かに、生きにくい世のなかだ・・・・・・」僕はもう一本煙草を吸った。「関心があって、フロイドやユングの著作を読んだことがあるんだよ。為になることがけっこう書いてある。岩崎は根っからの理系だから、小説なんて読まないだろう?」
「読まないというよりは、読めないね。トライしたことは何度かある。夏目漱石とか谷崎
潤一郎とか、村上春樹とか。駄目だった。最後まで読み通すことができない。読書はもっぱら、実用書の類いが多いな・・・・・・。キャリアアップとか、自己啓発、資格試験対策とか。とにかく実用的じゃないと駄目なんだ」
 僕は笑った。「岩崎らしいな。たまには小説を読んでみると良いよ」
「お勧めは何かある?」
サマセット・モームの『月と六ペンス』。印象派の巨匠ポール・ゴーギャンの人生に暗示を得て、書いた傑作さ。芸術家の燃えるような信念がありありと描かれている。小説にしか表現できない世界というのは、必ず存在する。漫画でもソーシャルネットワーキングゲームでもその役割は果たさないと思っている」
 なるほどね、今度読んでみるよ、読めるかどうか分からないが、と彼は言った。時計を見ると、六時に差しかかっていた。
 由希子の料理が出来上がった。アスパラとベーコンのオイスターマヨネーズあえに、きのこのパイシチュー、シーザーサラダ、ポークソテーのトマト煮だった。オレンジの寒天ゼリーはデザートだ。岩崎はビールが好きなので、冷たい缶のビールを用意してあった。凍ったグラスに注いで、乾杯をした。
「料理はどれも美味しいですね。本格的でびっくりしました」岩崎は舌鼓を打った。
「ありがとうございます、幼い頃から母に仕込まれていたものですから」
「毎日、由希子さんの手料理を食べられて幸せだよな、柏木は」
 僕はゆっくりと頷いた。その幸せは、毎日噛みしめていた。由希子がいるからこそ、安心している部分があった。彼女には感謝しなくてはいけない。
 僕たちは料理を食べ、酒を飲んだ。ビールに飲み飽きると、ブランデーを注いだ。サントリーのVSOPだ。由希子は水割りで飲み、僕と岩崎はロックで飲んだ。由希子はキッチンへ行って、チーズを切った。僕たちはそれを食べた。
 普段、酒が強いはずの岩崎はずいぶんと酔っていた。顔が赤かったし、呂律が少しおかしかった。ペースは早かった。ストレスが溜まっているのだろうか、あるいは恋人と昨日別れたばかりで傷心なのかもしれない。
「岩崎さん、水でも飲まれます? ずいぶん酔っ払っているみたいですけど」
「まだ大丈夫です」
「目が半分閉じているよ」僕は笑った。
「ね、眠いんだ」
「ベッドで横になりましょうか」由希子が心配そうに言った。僕は岩崎の肩をかついで、寝室に連れて行った。酒臭かった。酩酊し、疲れているようだった。彼はベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。僕は、やれやれと言って、リビングに戻った。由希子は、じっと寝室の方を眺めていた。
「いつもは、こうじゃないんだけどね」
「昨日、恋人と別れたばかりだから仕方ないわよ。受け止めるには、重たいだろうし」
 夜の八時だった。
「あなたは酔っていないの?」
「ちっとも」
「強いのね、本当に」
「先にシャワーを浴びるよ、洗い物はしておくから、シンクに置いておいて」
「分かったわ」
 その夜、結局岩崎は泊まっていった。一度起き上がったとき、家に戻ると言っていたが、明らかに気分が悪そうだったし、酒が抜けていないみたいだったので泊めた。
「情けないよな、酒には強いつもりだったのに」
「たまには、こういうこともあるよ」
「遠慮なく泊まっていってくださいね」由希子はにっこりと笑った。
「由希子さんは、きっと良い奥さんになるよ」
「ありがとうございます」
 岩崎は翌朝、コーヒーだけを飲み、朝食は取らなかった。体調はずいぶん良くなったみたいだった。日曜日の朝のニュースを眺めながら、三人で食卓を囲むことは、とても自然な風景だ。
 また、いつでもいらしてください、由希子はさようならの挨拶をした。僕は駅まで岩崎を送っていった。その道で、彼は言った。
「由希子さんみたいな素敵な女性を絶対に手放すなよ。何があっても一緒にいた方が良い」
 目はいつになく真剣だった。僕のことを思い遣っての言葉だろう。
「昔、違う女の子と付き合っているときに、同じようなことを言われたよ」
 彼は立ち止まった。自動販売機で缶コーヒーを買った。僕の分も買ってくれた。
「結局、手放したんだね?」
「いろいろと事情があってね」
 岩崎はそれ以上、何も訊かなかった。コーヒーを飲み干すと、またしばらく歩いた。今度はお互いに黙っていた。
「カフェへ入って、煙草を吸わないか?」と岩崎は訊いた。僕は了承した。
 カフェはすいていた。僕たちは窓際の席に座って、ブレンドコーヒーを注文すると、一服した。
「嘘を付いた・・・・・・」と彼は言った。声は妙に平板で、乾いていた。目のひかりは失われ、温もりがなくなったような表情を浮かべていた。寂しさとは違った別の何かがそこには潜んでいた。
「何が?」僕には何のことかさっぱり分からなかった。「本当は、別れていないとか?」
「彼女は亡くなったんだ。どこかから仕入れてきた睡眠薬を大量に飲んで、首を吊って。実家の部屋で。昨日、お父さんから知らせがあってね。葬式は身内だけで済ませるということだった」
「自殺する理由はあったのか?」僕は驚いて、質問した。
「分からないんだ、頭が混乱している。しばらくは仕事ができそうにないから、休みを取る。俺には精神的な痛手が生じた。針が無数に深く刺さってしまったような痛みだ。途方もない痛みだよ。喧嘩ばかりしていたけど俺にとって大事な女性だった。つくづく、そのことが分かった」
 ブレンドコーヒーが運ばれてきた。僕はそうっと飲み、煙草を吸った。彼は朦朧としていた。精神的に疲弊しているのは明らかだった。
「確かに、最近は仲が良くなかった。彼女は常に苛々していた。何かにつけて、俺に八つ
当たりをするようになった。辛かった。仕事は就いてもすぐに辞めてくるし、最近では家で何をやっているのか分からなかった。きっと、取り憑かれていたのだと思う」
 取り憑かれていたのだと思う、と僕は頭のなかで繰り返した。重みのある言葉だった。
精神障害か何かだったの?」
「分からないんだよ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。微妙な境界に立っていた。彼女の死を到底受け止めることはできないんだ」
 それっきり、彼は言葉を失い、沈黙に浸った。僕はブレンドコーヒーの残りを飲み、煙草を吸った。しばらくの時間が無言の内に過ぎた。
「あんまり遅いと由希子さんが心配するから行こうか」
「分かった」
「ここの会計は払っておくよ。誰かに聞いてもらいたかったんだ。いや、誰かじゃないな。柏木に聞いてもらいたかったんだと思う」彼は苦笑いをした。僕たちは席を立った。カフェを出ると、駅の改札で別れた。僕はマンションに戻った。由希子は退屈そうに、テレビを眺めていた。
「ずいぶん遅かったじゃないの?」
「込み入った話をしていてね」
「夏希の彼氏と会う約束ができたわ。来週の日曜日に、練馬の彼のアパートメント」
「部屋まで行くのかい?」
「あまり動きたくないみたいね、良く分からないけど。ちなみに、夏希にはこのこと内緒だから来ないわ・・・・・・。私とあなたの二人だけ。彼は用件を知らない」
 僕は頷いた。
「祐介って頼りがいあるわよね。仕事もきっちりしているし、男らしいところがあるし」
「そうかな?」僕は頭をかいた。
「紅茶でも飲む?」
「ありがとう」
 由希子がティファールのポットでお湯を沸かしているあいだ、岩崎の恋人の死について、考えを巡らせていた。取り憑かれていたのだと思う、と彼は言った。いったい、何に取り
憑かれていたのだろうか。

愛ならどこにあっても構わない(4)

由希子は大学を卒業すると、僕と同棲を始めた。渋谷の一角に、手頃なマンションを借りた。叔父が不動産関係の仕事をしているものだったから、格安で借りることができた。秋葉原へ行って家電製品を買ったり、東急ハンズやロフトへ行って家具や雑貨を買った。都内の熱帯魚ショップへ行って、九十センチの曲げガラス水槽を購入し熱帯魚を飼った。魚はディスカスネオンテトラだった。水草はアマゾンソードなどオーソドックスなものをセレクトした。壁には由希子が持っていたフランスのカフェが描いてある油絵を飾った。カフェの屋根は黄色く、雨上がりの景色が広がっていた。水槽はリビングに置いた。オーディオデッキは新調した。
新しいパートナーとの新しい生活というものは、悪くなかった。気分があらたまるし、いっそう幸せになった。二人でこれから幸せを作りあげていくのだと心に誓った。
 四月の末になっていた。引っ越しは一段落し、由希子は近くのカフェにアルバイトへ行った。海音というカフェで、雰囲気はアットホーム。マスターは四十代くらいの男性だった。
「カフェの仕事が好きなのよ、私の性に合っていると思うわ。お客さんも好きだし、コーヒーの匂いや、流れている音楽や景色も好き」
由希子は料理が上手だった。その日の夜は、ペンネグラタンに、ベーコンと水菜のスープ、ハッシュドビーフといったものが並んだ。香りが良く、美味しかった。赤のワインを一本開けた。イタリア産のキャンティ・クラシコだった。
「将来はカフェを経営したい?」
「そこまでは考えていないわ。経営となると手腕が必要だし、大変そう。私にはそこまで
の才覚はないと思うの・・・・・・」
「ま、将来のことを考えるのはよそうか」
「そうね」
料理を食べ、ワインを飲んだ。ワインは値が張ったけども、十分に美味しかった。コクがあり、深みがあった。
食事を終えると、僕たちは近くのショットバーへ行った。彼女はジンフィズを注文し、僕はビールを頼んだ。店内には一人の客が座っていた。初老の男だった。彼にはどことなく影があり、哀愁が漂っていた。見事な年の取り方だった。理想的といっても良かった。僕たちは白いチーズを食べ、ビールを飲んでいた。ふと、冷たい沈黙が続いていることに気付いた。どうしてだろう? 由希子に対して、今夜は何も話すことはないような気がした。彼女はカクテルグラスを触りながら、じっとしていた。身体が奇妙に小さく目に映った。不自然な時の流れがゆっくりと合わさっていった。店内はジャズがかかっていた。静かだった。背の高いバーテンダーは、白い布でカクテルグラスを磨いていた。
しばらくのあいだ、そのようにして時間が流れていた。停まったような時間だった。初老の男は、ヘネシーのロックを注文した。僕は煙草を取り出して、吸った。相変わらず、沈黙は続いた。重々しい空気だった。
「怖いの・・・・・・」絞り出すような声で、由希子は言った。彼女はうつむいていた。目には、うっすらと涙が浮かびあがっていた。突然のことに、僕は何が何だか分からなかった。僕は彼女の手を握った。温かくて、柔らかだった。
「悪い夢を見るの、このところ良く・・・・・・。いつも決まって同じ悪夢。祐介が私を見捨ててしまう夢。あなたがずんずん歩みを進めていって、私だけが置いてきぼりになって、孤独のなかで一生を過ごすの。気がつくと、トンネルのなかにいる。常夜灯のひかりだけが頼りで、入り口も出口もないトンネルのなかに。そこには深い絶望が横たわっている。おかしな話よね、入り口も出口もないトンネルにいったいどうやって入ったっていうのよ?」
彼女はジンフィズを飲み干すと、カミュの水割りを注文した。僕のグラスにはビールがまだ残っていた。
「不安なの?」僕は尋ねた。
「普段はそうでもないのだけど、時々ね。不安になるの。氷のように、心がきりきりと冷たくなってしまうのよ」
グラスに入ったカミュがコースターの上に乗った。僕はビールの残りを飲んだ。そして、ダイキリを頼んだ。
「新生活が始まったばかりだから、知らないうちに、いらだっているのかもしれないね。何も不安に思うことはないよ」
「ありがとう、思い切って話して良かったわ。気持ちが穏やかになってきた。もう、あの夢を見たくないし、含まれたくないわ。夢は無意識の王道って言うじゃないの、あながち現実世界と無関係とは思えないのよ」
「明日は映画館へ行こう。君が前から観たがっていた映画がやっている。ランチを食べて、ブティックで買い物をしよう。そうすれば、少しは気が晴れると思うよ」
「ありがとう」彼女はグラスに口をつけた。「しばらくは夢を見なかった。あなたと暮らし始めたら、素敵な夢を見ることができると思っていた。理由はよく分からないけど、悪夢を見るようになった」
「あまり酷いと精神科に行って相談した方が良いかもしれない」
「まだ、大丈夫だと思う」
「無理はしないようにね」
「分かったわ」と彼女は言った。そして、再び沈黙が雪のように降りてきた。降り積もる白い雪のような沈黙だった。そこには冷たさと、親密さがこもっていた。初老の男は席を立ち、会計を済ませた。静かな男だった。彼は僕らの方角を一瞥した。酔った様子はなかった。店内は僕たちのほかに、客はいなかった。腕時計を確認すると、夜の十時だった。彼女はカミュを飲み終えると、お代わりをした。
僕は黙っているあいだ、彼女が孕んでいる悪夢について想像した。入り口と出口のないトンネル、それは裏寂れていて、無機質なものに違いなかった。彼女は出口を求めているのだ。輝く太陽のひかりを。トンネルの外側の緑溢れる美しい世界。
翌日は新宿でランチを食べた。そして、映画館に入った。引っ越しが忙しくて、ゆっくりと映画を観ている暇がなかったので、久しぶりにくつろいで観ることができた。邦画の恋愛物だった。由希子は恋愛物が好きだったし、その映画の出来は悪くなかった。主演は若手の女優で、役柄に合っていた。彼女は見事に、その哀しみを表現していた。年齢はまだ十代だろう。たいしたものだと僕は感心した。彼女の目の深みは、どことなくのぞみに似ていた。のぞみもよくそのような目をしていたことがあった。思慮深く、考えを巡らしているときは決まってその深い目をした。
ブティックで春物のカットソーや長袖のシャツを買ってあげた。由希子は美しかったし、何を着てもよく似合った。彼女は上機嫌だった。外の天気は穏やかで四月らしい陽気だった。僕たちは新宿御苑に入って、散歩をした。木々が、くっきりとした緑の葉を茂らせ、風が西から東に向かって吹きすぎていた。僕たちはベンチに腰をかけた。休日とあって、家族連れやカップルが多かった。太陽のひかりは柔らかみを帯びて、薄い黄色の輝きを放っていた。希子は、昨日夢を見なかったらしい。ずっと夢なんて見たくないと小言を言っていた。ぐっすり眠ったということだった。僕はそのことを耳にして、安堵した。
ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲み、僕は彼女の手を握った。彼女は僕に寄り添った。空には雲が流れていった。
「子供の頃、僕は友達がいなくてね」
「あら、意外ね。会社でもうまくやっているじゃないの。社会不安障害だったの?」
「分からない、とにかく友達が出来なかった。子供の頃の思い出なんて、かけらもないよ。他だ、ずっと空を眺めていた。空は毎日違うんだ。違った様相を見せてくれる。飽きることもなく、眺めていたよ」
由希子は不思議そうな顔をして、僕を見ていた。
「空の青は好きよ、私。素敵な色合いだと思うわ」
「僕も好きだよ。子供の頃に比べたら、めっきり空を見なくなったけどね。時々、見上げることもある」
「ねえ、どうしてあなたみたいな素敵な人が、何年も恋人がいなかったのかしら? 不思議で仕方がなかったの。性格は良いし、ルックスだってそこそこだし、洋服のセンスだってあるし、話は面白い・・・・・・」
「どうしてだろうね?」僕は言葉を濁した。
「前の彼女とどうして別れたの? 好きだったんでしょう? あなたいつも彼女について詳しくは話さないけど、興味があるわ。良かったら、話してみてくれない?」
「それは、言うことができないな。例え、君であっても」僕は小さな声で言った。
「そう」彼女はバッグから手鏡を取り出して、顔を覗いた。
「私が前の彼氏と別れた理由の最も大きなものは、暴力よ」
「え?」僕はしばらく呆然とし、言葉が停止した。彼女の目は輝きをみるみる失っていた。昔を思い出しているのだろう。
「五歳年上の社会人で、公務員だった。文部科学省の関係の仕事をしている。最初は優しかったの、私は夢中になっていたし、結婚したいくらいだった。出会いはインターネット。映画の趣味が合ったから実際に会ってみたら、感じの良い人でね」
彼女は手鏡をバッグのなかに仕舞った。
「半年間は幸せだった、残りの半年は地獄だった。事あるごとに、私のことを殴るのよ。目立たないところ、例えばおなかとかね。首を絞められたこともあったわ。私は必死に抵抗したけど、所詮は女のちからだからかなわないのよね。私のちょっとした言葉遣いや態度に腹を立てるの。本当に腹が立っていたのか分からないわ・・・・・・。だんだん諦めるようになった。籠のなかの小鳥みたいな気分だった」
「ずいぶん、酷い目に遭ったんだね」僕は彼女の頭をそうっと撫でた。
「あのカフェで働いていたとき、あなたに出会って、本当に良かったと思っている。祐介は、私を救ってくれたのよ。いろいろなものが怖かった。人を信頼することができなくなっていた。猜疑心に満ちあふれていた。つまらない女の子になりそうになった。そして、つまらない人生を歩むところだった」
「今は幸せなの?」
「もちろん」目を輝かせて、由希子は笑った。「でもね、最近は妹のことで頭が痛いの。相談に乗ってくれる?」
「夏希ちゃんのこと?」
「うん」
夏希は由希子の二つ年下の妹で、素行があまり良くなかった。夜の仕事を転々とし、高校生のときには援助交際を行ってお金を稼いでいた。男遊びが激しく、常に何人かのボーイフレンドが存在した。何度か会ったことがあった。姉妹の仲は不思議と良いらしかった。真面目な姉に、不真面目な妹。組み合わせとしては、案外バランスが取れているのかもしれない。僕は夏希に対して、悪い印象は持っていなかった。
「今、付き合っているボーイフレンドが上村慎治っていうんだけど、夏希と同い年の二十歳で無職なの。勤め口を見つけてきても、すぐに喧嘩して辞めてくる。練馬区で一人暮らしをしているらしいんだけど、今までけっこう夏希がお金を融通していたのよ。けっこうな金額のお金。名目上は借金になっているけど、慎治は返済する気はなさそうなの。そりゃそうよね、無職じゃ返しようがないもの」
彼女は遠い目をした。向こうの方では、子供がはしゃぎ回っていた。高い声がいくつも耳に届いた。のどかだった。
「夏希は、慎治と一緒に暮らすって言うの。私としては、こらえ性のない男とは別れて欲しいんだけど、言っても聞かないのよ」
「つまり、夏希ちゃんを説得して欲しいってこと?」
「違うの、慎治に会って欲しいの。彼はきっと、夏希のことを愛してはいないわ。手切れ金は私が渡すつもり。彼はただ、お金が欲しいだけなのよ。夏希はそのことに気付いていない」
彼女はため息をついた。「大事な妹なのよ、お願い・・・・・・」
「分かった。日時は由希子に任せるよ。手切れ金っていったいいくらくらい用意したんだい?」
「二百万円」
「そんなお金どうやって貯めたの?」
「子供の頃からのお年玉とか、学生時代のアルバイト代とか。ほとんど全財産なの」
「夏希ちゃんは、君みたいなお姉さんを持って幸せだね」
「本人は、まったくありがたく感じていないみたいだけど」彼女は苦笑いをした。
「慎治を説得してみるよ」
「ありがとう、私一人で行くのは心細いし」
帰りにスーパーへ寄って、買い物をした。由希子は料理を作った。疲れていたので、ミートソースのスパゲティとツナサラダくらいのものだったが、相変わらず美味しかった。缶のビールを飲み、音楽を聴いた。オアシスのアルバムだった。ゆったりとした時間が、まっすぐに流れていた。由希子は風呂に入った。僕は煙草を取り出して、一本吸った。真っ白な煙が天井に向かって、立ち上っていった。
『ワンダーウォール』が流れ、『ドントルックバックインアンガー』切り替わった。ボーカルが弟のリアム・ギャラガーから、兄のノエル・ギャラガーになり、部屋に鳴り響いていた。僕は目を閉じて、しばらくじっとしていた。やがて、由希子は風呂からあがった。
僕はバスルームに入った。シャワーだけを浴びた。
パジャマ姿に着替えた由希子はダイニングテーブルの椅子に座っていた。僕はソファに座った。テレビではニュースが流れていた。ニュースは様々な出来事を報道していた。政治家の汚職があり、学校のいじめ問題があり、東海地方で地震があり、大リーグで日本人野球選手が活躍し、最後に天気予報が流れた。
ニュースが終わると、テレビを消した。辺りはしんとなった。由希子は烏龍茶を飲み、首筋を触っていた。
「そろそろ、寝ましょうね。明日は仕事があるし、私もあなたも」
「そうだね」僕はそう言った。
「仕事は楽しい?」彼女は僕に訊いた。
「わりと」
「良かったわ。今度、仲の良い同僚さんを連れて来てよ。おもてなしするわ」
「うん。ありがとう」
その日はぐっすりと眠った。朝がやってきたので、仕事に行く準備を行った。由希子にコーヒーを淹れてもらった。香ばしい匂いが鼻についた。
 僕の職場は品川にあった。高層ビルの十七階で、そこでサーバの設計やネットワークの構築を行っている。官公庁が主なクライアントで、公共チームという所属になっていた。二十五階は食堂になっていて、喫煙室は五階と十階にあった。エレベーターは高速で動き、全部で八機。見晴らしは非常に良い。いかにも、IT企業という雰囲気だった。僕はわりとこの仕事を気に入っていた。
公共チームでは、同い年の岩崎と仲が良かった。彼は早稲田大学理工学部の出身で、別に専門学校へ行ってITの資格を取っていた。MCPであるとか、シスコシステムズの資格。僕よりも全然詳しかったが、技術を鼻にかけないところが気に入っていた。午前中の仕事が終わり、昼食を取っているときに、岩崎に言った。
「今度、僕のマンションに遊びに来ないか? 付き合っている女の子が料理上手でね。仲の良い同僚を連れてきて欲しいって言われているんだ」
「由希子さんだっけ? このあいだ写真を見せて貰ったけど、美人だよね。羨ましいな。もちろん、行くよ。手土産を持ってね」
「楽しみにしているよ。ところで、岩崎の方はどうなんだ?」
「俺の彼女か?」
「そう」
「もう駄目だね。喧嘩ばっかりだよ。きっと、俺のことが何もかも気に入らないんだね。ヒステリーだし、ちょっと怖いし」
「高校の頃から付き合っているんだろう? きっと、相手は分かって欲しいんだよ」
「何を?」
「それ以上は何とも言えないけどね」
彼はラーメンのスープをすすった。ここの食堂は美味しいし、日替わり定食が和食、洋食、中華とあって、重宝していた。値段も安かった。僕たちは食べ終わったので、十階の喫煙室へ行った。彼はマールボロのブラックメンソールを吸っていた。僕は、メビウス
った。自動販売機で缶のコーヒーを買い、煙草を吸った。
「別れるのは、時間の問題かもしれない。俺が必死に止めているけども、もう疲れ果てたよ。いっときは結婚の話まで持ち上がったのにな、女の子は冷めると早いから」
「岩崎なら、きっとすぐに良い女性が見つかるさ」
「そうかな?」
「たぶんね」僕は苦笑した。
「こればかりは巡り合わせだからな。神様にお願いするしかないか」
「神様を信じているの?」
「もちろん、俺はカトリックだからね。日曜日には教会へ行くよ。それほど熱心というわけじゃないが、厳格な家庭に育った。柏木は神様を信じているのかい?」
「信じたいけど、本当はいないかもしれない」
僕は煙草の火をもみ消して、吸い殻を捨てた。「毎日、祈っているんだ」
「そうか」
その日の夜は、岩崎と飲みに行った。会社の近くの居酒屋だった。主に仕事の話だが、時折彼は寂しそうな目をした。人生がうまくいっていないのだ。僕にとって由希子の存在は大きかった。あの冷たい夜に、雨が降っていなかったら、カフェに立ち寄って由希子に出会わなかったかもしれないし、今とは違った人生を歩んでいたことだろう。巡り合わせか、と僕は静かに思った。
のぞみと巡り会い、後に由希子と巡り会った。そこには運命めいたものを感じていた。役割と役目。つなぎ目と結び目。様々な言葉が浮かびあがってきた。今、のぞみは暗がりに属し、由希子はひかりに属していた。
マンションに戻ると、由希子は映画を眺めていた。手元にはワイングラスがあった。白
のワインだった。彼女が白ワインを飲んでいることは珍しかった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕はスーツを脱ぎ、着替えた。喉が渇いたので、ミネラルウォーターを飲んだ。さほどアルコールを取っていなかったので、酔っていなかった。
「今度の土曜日、同僚の岩崎が遊びに来るって。君は確か休みだっただろう?」
「その日は休みね。夕方くらいにいらっしゃるように伝えて欲しいわ。どんな人なの?」
「とにかく気さくで、分かりやすい人だよ」
「それは楽しみね」
「おなか空いたな」
「食べてきたんじゃないの?」
「どうしてだろう?」
「インスタントのラーメンならあるけど、それで良い? あいにく買い物に行っていなくて。ごめんなさい」
「それで良いよ。悪いね」
由希子はキッチンに立ってお湯を沸かし、インスタントラーメンを作った。僕は冷蔵庫を覗いて、なかから酎ハイを取り出した。ソファに座って、酎ハイを飲んだ。炭酸が喉を刺激した。僕はしばらく待っていた。
インスタントラーメンを食べ終えると、僕は風呂に入った。風呂に浸かりながら、夏のことを思った。夏希は姉の由希子より美しかったし、根は良い女の子だった。素直だし、純粋だし。純粋で思い出したが、のぞみは僕のことを純粋だと言った。スーパーピュアとも言っていた。しかし、純粋とはいったい何のことだろうか。僕のどこがそうだと言うのだろう・・・・・・。僕は丁寧に髪を洗った。シャワーのお湯は、神経をゆっくりと下降させていった。リラックスしていた。僕はもう一度湯船に浸かった。いろいろなことを思い出し、様々な気持ちが交錯した。僕は首を振った。運命。最終的には、そこに集約されていくのだろう。
部屋に戻ると、既に由希子はベッドに潜り込んでいた。蛍光灯の明かりは付いたままだった。小説を読んでいるようだった。僕の姿を認めると、小説を閉じて、身体を起こした。
「今夜は眠れそうにないわ。気だるさは残っているけども、意識ははっきりとしているし、困ったものね。トリプトファンのサプリを飲んだわ。駄目みたい」
「君が眠るまで、ずっと起きていてあげるよ」
「祐介は明日仕事じゃないの」
「良いんだよ、僕も眠れそうにないんだ」
「珍しいわね」由希子はくすくす笑った。「ホットミルクでもどう? 蜂蜜を入れるの。リラックスするわよ」
「お願いするよ」
僕たちはベッドルームで、ホットミルクを飲み、話をした。いろいろな話が持ち上がった。あのショットバーの夜とは違って、話題に欠くことはなかった。毎日顔を付き合わせているというのに、どうしてこんなにも話すことがあるのか不思議だった。彼女はカフェの話をした。面白いお客さんの話や、マスターの趣味、こだわりのコーヒー豆について。そして、以前の彼氏のこと。
「私は決定的に、男運がないのよ。祐介以外は」
「暴力を振るうのは最低だね」
「自分でも止めることができないって言っていたわ・・・・・・。不憫な人よね。今も、どこかで女の子に暴力を振るっているのよ。まるで自己確認するみたいにして」
時刻は真夜中の二時になっていた。由希子は少し眠たそうだった。僕はあまり眠くはなかった。
「眠くはないの?」僕は由希子に訊いた。
「あと三十分くらいしたら、眠るわ。付き合ってくれてありがとう」
僕は起き上がって水を飲みに行こうとした。
「ねえ、夏希は本当にどうしようもない子なのよ。馬鹿なのよ」低い声で由希子は言った。
「僕は夏希ちゃんのことが好きだよ。かわいいし、素直だし。素直だから、男性関係で痛い目を見ることもあるみたいだけどね」
「それもそうね。あの子は、なんていうか、信じやすいのよ。いろいろなことを、いろい
ろな人を」
彼女が言っていることは、なんとなく理解することができた。夏希とは数度しか会っていなかったが、彼女は確かに信じやすい精神の持ち主だった。相手に染まりやすいと言うのだろうか。
「眠くなってきたわ」由希子は目を半分閉じていた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
僕は明かりを消して、目を閉じた。由希子は僕の手をずっと握っていた。まるで何かを信じるみたいにして。

愛ならどこにあっても構わない(3)

仕事帰りの夜に、よく由希子がいるカフェへ行った。彼女が働いている姿を見ると、気持ちが穏やかになっていった。リラックスすることができた。カフェは混んでいることもあれば、すいているときもあった。大通りは、人々の群れでごった返していた。冬は師走に差しかかっていた。外は冷たく、寒かった。僕はいつもブレンドコーヒーを注文し、小説を読みながら、煙草を吸った。すいている時間、由希子は僕の傍に来て話をした。僕たちは確かに、気持ちを通わせていた。相性が良かった。彼女といると、楽しかった。週末にデートをした。美術館へ行ったり、ランチを食べたり、僕の部屋で映画を観たりした。ソファにもたれかかって、肩のちからを抜いているときだった。付き合って二ヶ月くらい経ったころだ。

「就職活動はどうするの? 志望の業界はある?」と僕は訊いた。彼女は僕の膝に手をの

せていた。

彼女は少しだけうつむいた。

「就職はしないの。まるで自分の人生をかすめ取られてしまうような気がするから・・・・・・。キャリアウーマンとか、私には似合わないわ」

彼女は僕の膝の上から手を離すと、身体を起こし、缶のビールを少しだけ飲んだ。

「人、それぞれ自由だからね。人はもっと自由であるべきだと思う」

「どうしてあなたは働いているの? 残業だって多いじゃない、辛くはないの?」

僕は思考を巡らせた。煙草を一本取り出して、火を点けた。そして、煙を肺の奥深くまで吸い込んで吐き出した。

「何も考えていないんだよ。毎日、満員電車に揺られて、くたくたに働いて、給料を貰って・・・・・・。みんな、そうしているし、疑問に思ってはいない。おそらく何も考えないこと

はひとつの正解なんだ。僕はそんなに頭の回転が早くないし」

「普通でいることは、大変よね。私にはできそうもない」

部屋は静かになった。僕は言葉を探り当てようとしたが、うまく見つけることができなかった。

「私が卒業したら、一緒に暮らさない? この部屋だと手狭だし、少し広いところに引っ越して」

「いいよ、一緒に暮らそう。君といると、楽しいし」

「私のことをもっと好きになってもらうからね」

彼女はビールを飲み干すと、僕の左腕に抱きついた。

「私はここのところ、夜に夢を見ないの。前は悪夢が多かった。たぶん、人生にうんざりしていたのだと思う」

「うんざり?」

いろいろなことに、と彼女は小さな声で言った。彼女なりに、いくつかの問題を抱えているのだろう、と僕は思った。

「祐介と暮らしていけば、きっと素敵な夢を見ることができると思うの。ただの、直感だけどね」

「そうなると、いいね」僕は笑った。

 

大学の一年生のときに、夏、のぞみと沖縄へ行った。二泊三日の旅行だったが、ツアーで格安だった。何故安いのか。それは、一日に五軒も六軒も土産物屋を回らせられるからだったし、ホテルは老朽化していて、オーシャンビューとはほど遠かったのだ。夜には、ハブが出るから外出しないでくださいということだった。不自由だった。安いから仕方がないのか、と僕はため息をついた。部屋は広く十畳ほどあり、テレビや冷蔵庫はなかった。殺風景だった。

「サークルの合宿みたいだね」とのぞみは言った。

「本当に、何もないホテルだね。でも、首里城は綺麗だった。万座毛も」

「沖縄は、一度行ってみたかったの」

僕は窓の外を眺めた。一面サトウキビ畑で、暗がりだった。確かに、ハブが出そうだ。僕は息を呑んだ。

「私、お風呂に入ってくるね」

風呂は大浴場だった。僕は何もない部屋で、ぽつりとしていた。コンビニエンスストアで買っていたカルピスウォーターを飲みながら、雑誌を眺めていた。ツアーの客は、若い子が多かった。カップルもいたし、女の子の三人組もいた。僕は雑誌を読むことに飽きると、一階のダイニングに行った。自動販売機でブラックコーヒーを買った。ダイニングには、女の子が二人座っていた。テーブルの隅にはテレビがあった。彼女たちは退屈そうに、テレビを眺めていた。バラエティ番組のようだった。

「こんばんは」と髪の長い女の子が僕に言った。

「退屈でしょう? ここに座って、お話しませんか?」ショートカットの茶髪の女の子が笑った。

髪の長い女の子は亜希という名前で、ショートカットの方は美紀という名前だった。姉妹だった。顔立ちはよく似ていた。年齢は二十一歳と十九歳。二人とも学生だった。姉は看護学部に通っていて、妹はフランス文学を学んでいる。江戸川区に住んでいるということだった。彼女たちはハーブティーを飲んでいた。家から持参したものらしかった。僕は缶コーヒーのプルタブを開けると、ひとくち飲んだ。

「彼女、綺麗な人ですね。ちょっと、その辺にはいないというか」

「そうそう、タレントかモデルみたい」

「いつから付き合っているんですか?」

「高校二年生からだよ」

「お似合いのカップルですね。恋人がいないから羨ましいです」

「二人ともいないの?」

彼女たちは照れくさそうに、頷いた。ルックスは悪くなかったし、性格も良さそうだった。僕は不思議に思った。

「ところで、このツアー酷いと思いません? 土産物屋ばかり連れていかれるし、ホテル

はこんなだし、食事は出ないし。夜なんてサンドウィッチですよ、コンビニエンスストアの。部屋は何もない上に殺風景だし」

「確かに、酷いね。でも、のぞみは楽しそうだよ。のぞみって僕の恋人の名前。海は綺麗だし、心が穏やかになるって」

「どうして、人は水に惹き付けられるか分かりますか?」美紀が質問した。

僕はそのことについて、少しばかり考えてみた。

「分からないな」

「水は、すべての源だからです。故郷のようなものですから」

「つまり源泉のようなもの?」

「根源です」彼女はきっぱりと言った。

「面白い考え方だね」

「のぞみさんは、部屋にいらっしゃるのですか?」

「お風呂に入っているよ。もう、そろそろあがってくると思う」

やがて、のぞみがやってきて四人で話をした。時刻は十時になり、十一時になった。僕

は眠くなかった。のぞみもそのようだった。

他の人は、ダイニングに姿を見せなかった。みんな部屋のなかにいて、いったい何をやっているのだろうか。やることがないので、きっと眠っているのだろう。不思議な時間の流れ方だった。独特の、とろみがあり、温かな空気と混ざり合って、アットホームな雰囲気を醸成していた。

「お二人は結婚するのですか、その・・・・・・、将来的に」亜希が言った。

「そのつもりよ」のぞみが笑った。

「幸せな家庭を築けそうですね。お似合いのカップルです」

「ありがとう」

「良かったら、東京に戻ってからもたまに会ったりしませんか?」

「良いよ、連絡先を交換しよう」

「美紀は男の子を紹介して貰おうと思っているんです」

「だって、全然出会いがないんだもん・・・・・・」美紀は口を尖らせた。

僕たちは笑い合った。夜も遅くなってきたので、十一時半に部屋に戻った。のぞみはブルーのパジャマに着替えた。

「良い人たちね」

「本当に」

僕は彼女にキスをした。柔らかい唇だった。湿っていて、とても素敵だった。

「私はあなたとしか付き合ったことがないの、あなたは私としか付き合ったことがない。運命めいたものを感じるわ」

「運命というものは必ず存在するよ。昔は、天命とか言ったもんね。天っていうのは、存在すると思うね」

三国志諸葛亮孔明がそう言った。有名よね」

「神様っていると思う?」

「きっと、いるわ、世界のどこかに」

彼女はこの上なく優しい言葉遣いで言った。そして、布団を二組敷くと、タオルケットにくるまって、眠ってしまった。気がつくと、眩しい朝がやってきていた。太陽があらゆるものを流しだし、輪郭をはっきりとさせていった。

「おはよう」とのぞみは笑った。

「おはよう」僕は笑った。

「素敵な朝ね。何もかもが眩しいわ・・・・・・」彼女は目を細めた。

「昨夜はぐっすり眠っていたね」

「最近、眠りが深いの。休みの日は一日中寝ていることもある」

僕はその言葉を聞いて、少し心配になった。

「自分でもどうしようもないくらいに」

僕は彼女の髪を撫でた。「きっと、疲れているんだよ。いろいろなことに真剣になり過ぎている」

「ナーバスになっているということ?」

「そうかもしれない」

「リラックスしなきゃ、ね」のぞみはそう言って、洗面所へ下りて行った。僕はしばらく、外の景色を眺めた。心には言いしれない不安があった。何故だろう。胸騒ぎがした。

愛ならどこにあっても構わない(2)

由希子とはあのカフェで出会って二週間後にデートをした。冬の日曜日の昼に、渋谷で待ち合わせをして映画館に入った。フランスの古い映画だった。彼女は映画鑑賞が趣味で、特に恋愛物が好きだった。女優の名前、俳優の名前はたくさん言うことができたし、愛着のある映画もあるみたいだった。僕にはよく分からなかったが、趣味が良いと思った。映画館を出ると、ブティックへ行った。そこで由希子にカシミアのマフラーと毛糸の手袋を買ってあげた。どちらもよく似合っていた。

道玄坂のイタリアンレストランへ行き、ワインをあけた。僕たちはすっかり意気投合していた。久しぶりに、酔っていたし、幸せな気分になっていた。

「あなたがきっと何を考えているのか、分かるわよ」由希子は頬を赤らめながら、言った。彼女は僕の目を見つめた。

「いったい何だと思う?」

デートの後半には、打ち解けていたのですっかり敬語が取れていた。距離が一段と近くなっているような気がした。

「それは私と考えていることが一緒なの。私たちはぴったりとフィットしているのよ。心が、あるいは気持ちが」

「由希子は恋人がいないの?」

「ちょっと前に、別れてしまってね。酷い男だったわ。自己中心的で、利己主義で、私の心を踏みにじっていくの」

「別れてどのくらい経つの?」

「二週間くらいかな・・・・・・。よそに女の子がいたの。他にも理由はあるのよ、ちょっと今は言うことができないけどね」

彼女は寂しさを打ち消すように笑顔を作った。目には微かなひかりがあった。

「あなたには恋人がいないの?」

「もう何年もいないよ」

「どうしてかしら?」

「どうしてだろうね」僕は苦笑した。彼女は髪を梳いた。

素敵な夜だった。そのあとはショットバーへ行って、カクテルを何杯か飲んだ。ジンフィズとか、シンガポール・スリングとかそういった類いのものだ。酔った由希子は、いっそう美しかった。頬が赤らみ、かわいらしい女の子となった。細い、シルバーのネックレスが控え目に輝いていた。僕はそのひかりをじっと眺めていた。僕の頭のなかに、重みがあった。鉛のような重みだった。何かを思い出しそうになったが、それが何であるのか分からなかった。きっと、大事な何かだ。僕は由希子の隣にいながら、その何かについて考えていた。時間は親密に過ぎ去っていった。

その日の夜は、十一時過ぎに別れた。僕は新宿方面の電車に乗り、彼女は東京方面の電車に乗った。別れ際に、今日は楽しかったとかそういったことを言った。彼女は笑っていた。心臓は相変わらず高鳴っていたし、僕の心は温もっていた。マンションに戻ると、僕はグラスにミネラルウォーターを注いで、胃のなかに流し込み、煙草を吸った。部屋はしんとしていたので、音楽をかけた。

ミネラルウォーターを飲み終えると、シャワーを浴びた。髪と身体を隈無く洗った。熱

いお湯を浴びていると、気持ちが明瞭になっていった。よりクリアに、よりはっきりと、意識は立ち戻っていった。髪を乾かして、スマートフォンを見ると、由希子から着信があった。僕はかけ直した。

「もしもし」と彼女は言った。

「祐介だけど、電話した?」

「うん。したよ。今日のお礼が言いたくて」

「僕の方こそ楽しかったよ、ありがとう」

「私たち、これから付き合っていかない? もしあなたさえ良かったらだけど。気が合う

し、相性が良いみたい」

僕は一瞬戸惑った。微妙に間が空いた。電話口はしんとなった。

「ごめんなさい、駄目よね。私、学生だし、あなたは社会人だし」

「そんなことはないよ。付き合おう」

「ありがとう、それじゃまだ少し酔っているから、私は寝るね。おやすみなさい」

おやすみ、と僕は言って、電話を切った。身体には奇妙な脱力感があった。僕はソファに腰を下ろした。そして、目を閉じた。暗がりの視界のなかへ、自分を入り込ませた。その闇の先には、のぞみがいた。僕は首を振った。

 

のぞみは頭が良かったのに、僕と同じ大学へ通った。中堅の私大で、特徴のない大学だった。就職に強いわけでもなければ、スポーツに優れているわけでもなかった。僕は理系だったので、さすがに同じ学部というわけにはいかなかったが(彼女は社会学部を選択した)、昼食を共にすることが多かったし、帰りは待ち合わせてカフェへ行ったり、図書館へ行ったりしてデートを繰り返した。その頃には、のぞみの両親とは仲が良くなっていて、食事をしたりすることもあった。父親は建築関係の仕事で、母親は小学生向けの英語の先生だった。府中市に一軒家を持っている。成績優秀な弟が一人いた。

「のぞみの成績なら早稲田とか慶応とか狙うことができたと思うけど、本当に僕と同じ大学で良かったの? 後悔はしていない?」

「別に大学の名前とかブランドに興味がないの。どこだって学ぶことができるし、この大学も悪くはないわよ、居心地はいいわ。先生は親切だし、生徒は善良だし」

大学のカフェテラスで僕たちはのんびりとしていた。季節は秋だった。しかし、風は温もりを失っておらず、心地良かった。

「何かを言おうと思っていたのだけど、何だったのか忘れてしまったよ」その先の言葉が取り払われたように、浮かび上がってはこなかった。僕はいったい何を言いたかったのだろう、不思議だった。

彼女はにっこりと笑った。

「あなたは物事を深く考え過ぎるのよ、ときには考えないことも大事よ。忘れるくらいがちょうど良いと思うの」

「君だって、物事を深く考えている」

「あら、そんなことないわよ。案外、ボーッとしているわよ。天然じゃないけどね」

  僕は笑った。彼女はまた笑った。

「祐介は将来私を養ってくれるんだよね?」

  その言葉に、僕はドキリとした。「何を言っているの?」

「酔っ払って言っていたわよ、『のぞみ、結婚しよう! 俺に任せておけば大丈夫だ』って。まったく、雰囲気も何もないんだから。もしかして、記憶がないの?」

僕が頷くと、彼女は呆れたような表情を浮かべた。そして、深いため息をついた。

「プロポーズは時間と場所を選んで、しっかりとまたやってね。本当に、馬鹿なんだから」

「反省しているよ」

「本心よね?」

僕はもう一度頷いた。

「これでも私はあなたのことを頼りにしているんだから。私は弱いの、本当に弱いのよ。心細いし、頼りになる人が必要なの。私を精一杯守ってね」

分かった、と僕は言った。

「でもね、私に何かあったら、代わりの女の子を見つけなさい」

その言葉は不意だった。

「何かっていったい何が?」

「不慮の事故に遭ったり、何らかの理由で植物人間になったり、そういったこと。つまり、私が私でなくなったら、そのときは違う女の子と付き合っていいわよ。愛してくれるのは本当に嬉しいけどね、続かないと思うの。今のうちに、私の意思表示をしておこうと。人

生、何があるか分からないじゃないの・・・・・・」

「どうしてそんなふうに思うんだい?」

「どうしてだろう? 毎日怯えているの、怖いのよ。日々を送っていくことが。目に見えないものに、時々怖くなるの」彼女の声は弱々しくなっていた。「罰が下るような気がするわ」

「君がいったい何をしたって言うんだ?」

彼女は静かに笑っていた。「昔ね、私には罪があったのよ、あなたにも言うことはできないけど。神様はちゃんと見ているから、しかるべき罰があると思っている・・・・・・」

 その先、彼女は何も言わなかった。僕は彼女が犯した罪について考えてみたが、さっぱり分からなかった。

愛ならどこにあっても構わない(1)

雨が良く降っている冷たい夜だった。由希子との出会いは、一年半前のあの日に遡る。一目見て、素敵な女性だと思った。仕草がかわいらしかったし、目にはひかりがたっぷりと輝いていて、笑顔が綺麗だった。僕は渋谷のカフェで雨宿りをしていた。酷い雨だった。彼女はカフェでウェイトレスをしていて、黒い制服が良く似合っていた。店内には、客は僕しかいなく、クラシックミュージックが静かに鳴り響いていた。彼女は退屈な様子を見せることもなく、じっとした様子で窓の外を眺めていた。マスターは白いティーカップをキッチンで洗っているところだった。

「酷い雨ですね」僕は由希子に声をかけた。彼女は僕の方を見て、二歩歩み寄った。その瞬間、心臓の鼓動が強まった。

「まったく、困ったものですね。お客様の来客は少ないし、雨は当分止みそうにないですし・・・・・・」

彼女は憂鬱そうな表情を見せた。

「少し、お話しできますか?」

「お店も暇ですし、構いませんよ」

「僕の名前は、柏木祐介。二十三歳、IT企業でシステムエンジニアをしています。サーバとかネットワークの構築です」

「難しそうな仕事ですね」

僕は笑って見せた。彼女は僕の様子を見て、にっこりと微笑んだ。

「私は武元由希子、二十一歳で都内の大学で英米文学を学んでいます。サリンジャーとかフィッツジェラルドヘミングウェイの著作が好きですね」

  僕はコーヒーをすすった。ネクタイの位置を確かめ、整えた。

「緊張しているのですか? 私とお話をすること」

「少しだけ」

「どうしてでしょう?」彼女は不思議そうな顔をした。

「分からないです」

「面白い人ですね。趣味は何ですか?」

「音楽鑑賞。イギリスのロックが好きで。オアシス、ブラー、プライマルスクリーム、ミューズなどを聴きます」

「イギリスのロック。素敵な趣味ですね」

「ありがとう」と僕は言った。彼女はまた笑った。そのとき、若いカップルが店に入ってきた。由希子は「また、あとで」と言って、踵を返し接客に入った。僕の胸はほんのりと温かくなっていた。窓の外は、執拗に雨が降り続いていた。通りを歩いている人々の表情はどこか疲れているように感じた。色は暗く、足取りは重かった。僕は手帳を取り出して、紙を一枚破き、自分の連絡先を書いた。メールアドレスと携帯の電話番号だ。コーヒーを飲み干し、煙草を一本吸った。心を落ち着かせる必要があった。神経は昂ぶっていた。雨のせいかもしれなかった。あるいは、仕事やいろいろなことで疲れているのかもしれない。煙草を吸い終えると、僕は由希子を呼んだ。

「コーヒーのお代わりを貰いたいんです」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そして、僕は二つに折った手帳の紙を差し出した。

「これは?」彼女はきょとんとした表情を作った。

「君ともっと話したいと思って」

「ありがとうございます。実は、私もそう思っていたところです」

「気が合うかもしれないね」

「そうですね」彼女はにっこりと笑った。

それが由希子との出会いだった。運命的だと思った。僕はお代わりのコーヒーを少しだけ飲み、レジで精算し、帰路についた。雨は強く、乱雑だった。しかし、この雨が降っていたからこそ、僕はカフェで由希子と出会うことができたのだ。雨は重たかった。いろいろなことで僕はきっと疲れている。僕はそう思った。そして、暗い街を歩き続けた。

 

僕は東京都の府中市で育った。おとなしくて、人付き合いが苦手な子供だった。ゲームや漫画には興味が持てなくて、ずっと公園で空ばかり眺めていた。じっと眺めていると、風の動きと混ざって、雲が流れ、太陽のきらめきとともに、空は不思議な色合いに染まっていることもあった。毎日、何かが違い、その何かを楽しんだ。僕は一人っ子だった。寂しいと思ったことは何故かなかった。高校生になって、小説を読むようになった。代わりに空を眺めることは少なくなった。小説の世界に浸ることで、僕は新しい視野を獲得することができたように思う。

高校二年生のときに、のぞみという女の子と付き合うことができた。西原のぞみという名前で、細くて美人だった。クラスメートのあいだでも人気があり、愛嬌があった。成績も良かった。どうして、僕のような男と付き合うって決めたの? と訊いたことがあった。すると、彼女はこう答えた。

「あなたには魅力があるのよ、途方もなく」

「君が魅力的なのは分かるよ、顔立ちは整っているし、優しいし、微笑みは素敵だし」

僕たちは学校の校舎の裏で立っていた。木々は太陽のひかりを受け、鮮やかに輝いていた。夏の始まりだった。

「祐介は、本当に何も分かっていないのよ。どうして、私が交際をオッケーしたのか」

彼女は大きくため息をついた。僕にはいくら考えても分からなかった。告白する前から駄目だと思っていたし、オッケーを貰ったときでも夢のなかにいるような感覚だった。クラスメートは僕たちが交際しているという事実をうまく認識することができないようだった。

「それはあなたが純粋だから。不純物がいっさい混じり合っていないの。そういう男の人ってなかなかいないのよ。スーパーピュア。限りなく、白色に近いの。私もその白に染めて欲しかったの」

「君だって、綺麗な心を持っていると思うよ」

彼女は首を横に振った。そして、腕を後ろに組んで、僕の周りをゆっくりと歩いた。校舎の裏は人けがなく、静かだった。時折、風のうなる音が耳に届いた。

「私は白じゃない。あなたのことが羨ましいのよ。どうしてそこまで純粋にいることができるのかしら? どうして、こんなにも私のことを大事にしてくれるのかしら?」

「のぞみのことが好きだからだよ、それは」

彼女は笑った。弾けるような、素敵な笑顔だった。僕はそうっと彼女の手を握った。彼女の手のひらはつるりとしていて滑らかだった。僕の心臓は高鳴った。彼女はわずかなちからを込めて、握り返した。夏なので、すぐに僕の手は汗ばんだ。それでも、握り続けた。まるでのぞみの心音が伝わってくるみたいだった。

 あののぞみとの日々は、もう二度と戻っては来ない。校舎裏の空気の質感や、ひかりの加減、手のひらのさわり心地をいつまでも記憶していた。